Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

骨董市

2023年09月17日 16時01分05秒 | 骨董市など

 今日は、私にとって、月に一度の、骨董市の日でした。

 朝、出発の時点では曇りで、ギラギラとした太陽は照りつけていませんでしたから、比較的に涼しかったのですが、会場に着いた頃は、晴れとなり、また暑くなってきてしまいました(~_~;)

 まもなくお彼岸を迎えますので、そろそろ暑さも和らいでくれてもよさそうなものですが、今年のお天気様はまだまだ頑張っているようです(笑)。でも、暑さ寒さも彼岸までといわれますから、まもなく涼しくなるのでしょう、、、。

 そんなことで、汗をふきふきの会場内の散策とは相成りなりました。

 でも、皆さん、暑さをものともせず、熱心に会場内を見て回っています。私も、負けずと見て回ります(^_^)

 私のお目当ての古伊万里も、何点か展示されていましたが、やはり、良い物は高く表示されています。まっ、それは当然なので、本来は、良い物を高く買うべきなんです。でも、私にとっては、それでは、つまらないんですよね(~_~;) 私にとっては、それは、骨董市の醍醐味ではないんです(~_~;)

 私にとっては、良い物を安く掘り出すというところに骨董市の醍醐味があるんです(笑)。それで、それらはパスして、帰宅することにしました。

 でも、せっかく来たことでもあるので、何か1点なりとも連れ帰りたいものだなと思い、もう一回りしてから帰宅することにしました。

 それで、何かないかなとぶらぶらしていましたら、ガラクタの山の中に「うん、、!?」というものに遭遇です。

 一見すると古そう、でも、良く見ると新しそう(><) でも、値段は激安です(^-^*)

 それで、店主に、「これください」と言いましたところ、店主は、「実はそれは傷物なんです。良くみてください。それで安くしているんです。それでもよかったらどうぞ」との返答でした。

 それで、改めて良く見直したのですが、どうも、傷らしいものは見当たらないのですよね。私としては、傷があったとしても安いと思ったものですから、それでもいいかと思い、連れ帰った次第です。

 でもね~、連れ帰り、よく洗って綺麗にし、再度、傷の有無を点検したのですが、傷はないんですよね。

 店主は、何処を見て疵物と言ったのか、いまだに私には分かりません(~_~;) 店主には見えて、私には見えない傷なのでしょうか、、、。

 それはともかく、そのようなことで、今日、連れ帰ったのは、次のようなものです。ただ、なんか、新しいような古いような、自信のもてないものですが、当面は、古いものとして紹介したいと思います。その後の皆様方からのご意見などを参考にして、訂正したいと思います。

 

 

色絵 牡丹・文字文 文字様文 小碗

 

正面(仮定)

色絵ということなんですが、青一色なんです(この裏側に赤の文字はありますが)。

輪郭線を黒で描き、その中を青の色絵具で塗っています。

 

 

正面の一部の拡大

輪郭線を黒で描き、その中を青の色絵具で塗っていることが分かります。

黒の輪郭線はかなり剥げ落ちてしまっています。

 

 輪郭線を黒で描き、その中を青の色絵具で塗っている伊万里は江戸前期の古い手によくみられますので、この点から、この小碗の製作年代は江戸前期かなと思った次第です。

 

 

正面から右に90度回転させた面

 

 

正面から左に90度回転させた面

赤で文字のようなものが書かれています。

 

 

正面から左に90度回転させた面から更に左に45度回転させた面

赤で文字のようなものが書かれています。

 

 

正面の裏側

(正面から左に90度回転させた面から更に左に45度回転させた面を更に左に45度回転させた面)

赤で文字のようなものが書かれています。

 

 

 上の3枚の画像から分かりますように、正面の裏側付近には赤で文字のようなものが書かれています。もっとも、私には、何と書かれているのか分かりませんが、、、(~_~;)

 伊万里の場合、このように赤で文字が書かれているものは江戸後期に多く登場するように思います。そうしますと、正面側の文様は、輪郭線を黒で描き、その中を青の色絵具で塗るという江戸前期によく登場する手法なわけですが、裏面側の文様は、江戸後期に登場する手法なわけですね。

 そんなことを考えますと、いったい、この小碗の製作年代は何時なのかと疑問に感じてしまうわけです(~_~;) 古いのかな~、新しいのかな~、と(><)

 

 

見込み面

口縁に緑色の絵具が少し付着しています(時計の針の6時の方角)

よく、傷を隠すためにこのようなことをする場合がありますが、この場合は、

単に、作業の段階で、誤って緑の絵具が付着したものと思われます。

 

 

 

底面(その1)

青絵の部分側

 

 

底面(その2)

赤い文字のような物が書かれた部分側

 

 

高台部分の拡大

 

 

 高台内には、一部、釉薬が掛かってない所があり、そこから生地が見えるのですが、生地が真っ白であることが分かります。

 伊万里にしては、生地が良過ぎるのではないかと思ってしまいます(~_~;)

 また、そのように疑問を感じますと、高台造りにしても、高台側面に釉薬が分厚く残っていたり、畳付き部分にまで釉薬が掛けられていたりで、ちょっと伊万里とは違うのかな~とか思ってしまうわけです。更には、良く観察しますと、口縁部分の釉薬が拭き取られて焼かれたのかもしれない(口縁部分を指でなぞりますと、ザラザラします)、極端に言うと、伏せ焼きされたのかもしれないとの疑問も生ずるわけです。

 それで、以上のことから、この小碗の生産地と製作年代については自信の持てないところですが、一応、「生産地:肥前・有田」、「製作年代:江戸時代前期」として紹介いたします。

 

 

生 産 地 : 肥前・有田 中国・景徳鎮窯 中国・徳化窯

製作年代: 江戸時代前期 中国・清朝後期

サ イ ズ : 口径8.7cm 高さ5.0cm 底径3.4cm

 

 

 


追 記:令和5年9月23日

 この小碗を紹介してから、何人かの方からコメントが寄せられました。

 それらのコメントでは、やはり、この小碗は、

①「伏焼」されていると思われること

② 高台処理が伊万里とは思えないこと

③ 胎土が、伊万里の胎土に比して白過ぎ、かつ、胎土に透明感があること

④ 黒で輪郭線を描き、その中を色釉で塗り埋める手法は中国でもおこなわれていること。否、むしろ、中国のほうが本家と思われること

⑤ 赤で文字のようなものが描かれているが、それは、文字ではなく、符牒のような、何かの記号(?)のようなものかもしれないこと

等から、中国産ではないだろうかとの意見が多くを占めました。

 したがいまして、この小碗の生産地を「肥前・有田」から「中国・景徳鎮窯」に訂正したいと思います。

 なお、製作年代についても、それに連動して訂正する必要があるわけですが、何時作られたのかはよく分かりませんので、一応、「江戸時代前期」を「中国・清朝後期」と訂正いたします。

 また、この小碗の名称も、「色絵 牡丹・文字文 小碗」から「色絵 牡丹・文字様文 小碗」に訂正したいと思います(それに関連し、「文字」を「文字のようなもの」にも訂正いたします)。

 コメントを寄せてくださった方に御礼申し上げます。ありがとうございました(^-^*)

 

 


追 記2:令和5年10月9日

 古之人という方から、これは、福建省の徳化窯で量産され、文政期に煎茶茶碗として多く舶載されたものですとのコメントをいただきました(^_^)

 したがいまして、この小碗の生産地を「中国・景徳鎮窯」から「中国・徳化窯」に訂正いたします。

 古之人さん、貴重なコメントをありがとうございました(^-^*)


久々の散歩

2023年09月10日 12時16分34秒 | その他の日記

 今日は、久々に散歩をしてきました(^-^*)

 ここのところ、猛暑が続き、そのような状況の中で散歩に出て熱中症にでもなっては大変と思い、ついつい、散歩に出る気にならず、室内に閉じこもりがちでした(~_~;)

 もっとも、猛暑といっても、早朝とか、夕刻には若干涼しくなりますから、その時間帯に散歩に出ればいいわけですが、、、。

 でも、私の場合、普段は朝早く起きないですから、散歩のためにわざわざ早起きしたのでは生活のリズムを狂わせることになりますし、また、これまでも夕刻に散歩をする習慣がありませんでしたから、急に夕刻に散歩をしたのでは、これまた生活のリズムを狂わせることになりそうです。それで、結局は、総体的にみて、早朝や夕刻での散歩はストレスとなり、結果的にマイナスとなると判断し、早朝や夕刻の時間帯での散歩はしてこなかったわけです。

 しかし、今日は、それほどの暑さでもなく、朝からエアコン無しでも過ごせますし、室内には風も通り、かなり爽やかな感じだったものですから、散歩に出かけたわけです、、、(^_^)

 そうはいっても、猛暑ではないといっても、晴れていますから、歩いて体を動かせば、やはり暑く、汗もかきました(~_~;)

 それで、帰宅してすぐ、扇風機にあたって体を冷しはしましたが、これからは、まっ、なんとか、以前どおり、日中に散歩ができそうです(^-^*)


墨龍賦

2023年09月04日 18時36分18秒 | 読書

 「墨龍賦」(葉室麟著 PHP 2017年2月7日 第1版第1刷発行)を読みました。

 

 

 内容は、絵師海北友松の生涯を書いたものでした。

 この本の流れとしては、次のように構成されていました。

 京都に住む絵師小谷忠左衛門は、父親が高名な絵師であったことは知っていましたが、その父親がどのような人物であったのかをほとんど知らずに、京の片隅で、名もない絵師として35歳まで暮らしていました。

 ところが、突然、春日局から、京都所司代をとおして、江戸に下るようにとの命令が出されました。

 小谷忠左衛門は、おそるおそる江戸城に赴いたわけですが、そこで、春日局が、小谷忠左衛門に父海北友松の生涯について話して聞かせたという構成です。

 なお、ご承知のように、春日局は、斎藤内蔵助の娘の「お福」ですね。

 

 

 春日局の語った概要は次のようなものでした。

 海北友松は、近江の大名浅井長政の家臣海北善右ヱ門の子として生まれましたが、3男であったため、13歳の時に京の東福寺に入れられました。そして、その東福寺で、安芸国から来ていた恵瓊(後の安国寺恵瓊)と知り合います。

 二人は共に将来の夢を語り合います。恵瓊は外交僧となることを夢見、友松はいずれ還俗して武士に戻ることを夢見ますけれども、当面、絵にも才能のあることがわかったため、絵の修行と武芸の修練の両方に努めることとしました。

 恵瓊が外交僧となるため、諸国に赴いて天下の情勢を学ぶわけですが、二人はよく行動を共にしましたので、友松も自然と天下の情勢に明るくなっていきます。

 そのようなこともあり、この本には、当時の全国の有名な武将の名がきら星のように登場してきます。

 そうしたなか、友松は、たまたま、春日局の父親の美濃出身の斎藤内蔵助と知り合い、二人は生涯の友となります。

 ところで、浅井長政の居城小谷城が織田信長の猛攻によって落城するわけですが、その際、海北家も壊滅してしまいます。そこで、友松は、信長を討って海北家を再興しようと決意します。そのため、永年住み慣れた東福寺を後にし、狩野永徳の住む狩野屋敷に身を寄せます。

 といいますのは、以前、斎藤内蔵助から、斎藤道三から織田信長への「美濃譲り状」が妙覚寺に保管されているということを聞いていたからです。狩野派に入れば、妙覚寺への出入りがしやすくなると考えたわけですね。その「美濃譲り状」には何が書かれているのか、いったい、そもそも「美濃譲り状」というものが存在するのかどうかの秘密をつかめば、信長に仕える明智光秀たち美濃衆を離反させることができるかもしれないと考えたからでした。明智光秀たち美濃衆の力を借りて信長を討とうという思いを描いたわけです。

 なんとか、妙覚寺の住職(斎藤道三の息子の一人)に会うことが出来、住職から「美濃譲り状」なるものを渡されますが、そこには譲り状の文面はなく、我が子との別れを嘆く哀切な文言のみが書かれた父から子への手紙にすぎませんでした。つまり、「美濃譲り状」というものはなかったということがわかったわけです。

 それで、友松は、それを斎藤内蔵助に渡し、そこから更に明智光秀に渡してくれるように頼みますが、斎藤内蔵助は、それを信長の正妻の美濃出身の帰蝶に渡すように指示します。そして、後日、無事、帰蝶に渡すことができました。帰蝶から明智光秀に渡ったかどうかは明らかではありませんが、これが美濃衆の離反につながり、本能寺の変が起こったとしています。

 本能寺の変の後、斎藤内蔵助の首は本能寺の獄門台に、遺骸は粟田口で磔にされて晒されますが、友松は、その遺骸を処刑場から奪い、真如堂という寺に密かに弔っています。

 その後、友松は沈潜したかのように消息を絶ちますが、狩野永徳が亡くなってから数年後、独立した絵師として世間に顔を出すようになります。

 それからは、恵瓊が再興中の京の建仁寺で、恵瓊の伝手で、襖絵や障壁画などを描いています。

 また、64歳のとき、近江の浅井家に仕えた武士の娘で、友松の遠縁にあたる「清月」を娶り、2年後には長男が生まれています。

 そして、大坂夏の陣の直後、83歳で、戦国時代の終焉を見届けたかのように亡くなりました。

 なお、友松の最晩年、宮本武蔵が友松に師事してるとのことです。実際に武蔵が友松の弟子であったかどうかはともかく、「武人の気迫が込められた絵を描いた友松の系譜に連なることは間違いないだろう」ということです。

 

 

 ところで、友松の子の絵師小谷忠左衛門のその後については、次のように書かれていました。

 

「忠左衛門は春日局によって徳川家光への推挙を受け、江戸に屋敷を与えられた。そして海北家を再興して友雪の号を用いるようになる。

 また、狩野探幽の教えを仰いで明暦、寛文、延宝の内裏造営にともなう障壁画制作にも狩野派以外の絵師として参加した。後水尾上皇の御用もしばしば務めて法橋に叙せられた。

 狩野派の影響を受けながらも友松の画風を受け継ぎ、さらに大和絵の技法を生かして絵を描き続けた。

 やがて海北友雪は友松を思わせる妙心寺鱗祥院殿の、

   雲龍図

   西湖図

のほか、<一の谷合戦図屏風>、<花鳥図屏風>などの秀作を遺した。

 友松の画業は、斎藤内蔵助との奇縁により子に伝えられたのである。 P.284  」