北御牧地区の歴史散歩を楽しんできました

2013-11-11 00:04:24 | 趣味・野良仕事
11月5日、東御市郷土史研究会が主催する秋季研修会で北御牧の文化財を見てきました。北御牧地区とは旧北御牧村のことです。平成16年に旧東部町と合併。東御市になりました。ここはかつて朝廷の御料牧場、御牧(みまき)が置かれていたところ。興味深い文化財を見て回ることができました。以下に写真でご紹介いたします。


1、安政の川除け(かわよけ)(羽毛山堤防)
千曲川沿いの羽毛山地区はたびたびの洪水で大変な被害を受けていました。この復興のために小諸藩主の命で築かれたものがこの堤防です。


2、外山城(とやまじょう)跡
外山城は八重原台地の最北端に位置し、眼下には千曲川が見下ろせる断崖の上にあります。ここに戦国時代武田信玄により狼煙台が築かれました。現在東御市のイベント、巨峰の億国祭りで祢津地区の城山と烽火による交信を行っています。


3、鍋蓋砦(なべぶたとりで)跡
下八重原鍋蓋にあります。戦国時代武田軍がここに陣営を張ったと言われています。現在は祠しか残っていません。


4、黒沢嘉兵衛(くろさわ・かひょうえ)と八重原新田開発
黒沢嘉兵衛は小諸城主に仕え、藩の命で万治3年(1660)八重原用水を完成させました。写真は黒沢家の門で嘉永年間(1848~1853)に建てられたもので屋敷前には八重原用水堰が流れています。旧北御牧村では昭和59年に復元改築しています。


5、西峰古窯(にしみね・こよう)
八重原台地・御牧原台地には奈良から平安時代に大陸から伝えられたという登り窯が分布しています。この登り窯は平成5年、千曲川左岸広域農道(千曲ビューライン)建設中に発見され、保存状態が良好であったため芸術村公園に移設し保存展示されています。


6、八重原用水大枡(おおます)
八重原用水を中八重原と下八重原に分水する大枡です。


7、上の大土手
この大土手の規模は高さ3~7m、長さは300mに及び最上部に八重原用水路が設置されています。八重原用水の完成は寛文2年(1662)ですが開田が進む中で水が不足、宝永6年(1709)小諸藩により近隣の村から述べ2万人を動員し完成したもの。盛土が崩れないように田楽刺しという工法が使われ、現在集落名「田楽平」として残っています。


8、木造阿弥陀三尊像(大日向・観音寺)
この仏像は小諸藩主牧野氏の移封に伴い越後から小諸城下の寺に移り、その後廃寺になったため明治初期に隠居寺である観音寺の主尊となったもの。鎌倉時代初期の作。本尊を中心に観音菩薩、勢至菩薩が並んでいます。


9、両羽神社(もろは・じんじゃ)
この神社はもともとは原宮、芝宮といい御牧原台地にあったそうです。望月氏がこの地を治めるようになってから御牧7郷の惣社として大宮神社と称し、武士や御料牧場の守り神となりました。江戸時代に両羽神社と社号を改めています。


10、四ツ京塚(よつきょうづか)
御牧原台地の南部に位置し直径約6m、高さ約1.8mのほぼ同規模の塚が南北一直線に並んでいます。明治11年(1878)の下之条村村誌はこの塚を経塚(経文を納めた塚)と説明していますが、朝廷の御料牧場の時代の馬の調教場との説もあり築造時期なども不明です。


11、野馬除跡(のまよけあと)
御牧原は平安から鎌倉時代まで4百年にわたり朝廷の良馬を生産した信濃16牧のうち最大の御料牧場「望月の牧」が設置されていました。野馬除は放し飼いの馬が逃げ出すのを防ぐために牧場の周囲にめぐらした囲いです。現在土砂や落ち葉に埋もれて深さは1m位となっています。


12、縁切り地蔵(島川原)
お堂の中には3体の石造があり、右から縁切地蔵、如意輪観音、縁結び地蔵となっています。如意輪観音は十九夜念仏としてお産など女性の神様です。封建時代嫁の立場は不合理なもので3体のお地蔵さんは女性の地位を守るものとして信仰されてきました。

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