ここ最近のことだが,タカシが突然「オドーサーン!」などという少々ナサケナイ声を発しながら父に対して助けを求めることがしばしばある。いわく。ゲーム・ボーイがない,ポケット・ピカチュウがない,自由帳がない。ねぇオトウサン,どっかで見なかった? 知りませんてば,そんな物!
どうも粗忽者のタカシはすぐに物をなくしてしまう癖がある。最近特にその傾向が目立ってきたようだ。家の中,あるいは家族で出掛ける外出先を問わず。それが大事な物であっても,あるいは取るに足らない物であっても。
原因はしごく明瞭である。家のなかにおけるタカシの様々な言動,それをトータルな意味での「家庭生活」と言い換えてもいいが,そのようなタカシの日常的な行動を観察していると,Aという行為からBという行為に移るときのきっかけ,それらは自らの納得づくの主体的な判断によるというよりも,むしろ外界からの刺激によって突発的・発作的に次なる行為への移行を促されるというか,強いられてしまうことの方が多いようである。ヨシ,これはこれで終わりとして,サテト,次に.... なんて調子にはほとんどならない。つまり,タカシの家庭内諸行動においては,ひとつひとつの行為が起承転結を伴うことが極めて少ない。やってることの多くが中途半端だ。
外的インパクトの主たるものは,家のなかにおいては言うまでもなくアキラの言動である。いや実際のところは,アキラの存在自体がタカシをして望むと望まざるとにかかわらず絶えず次なる行動へと駆り立てているようにも思われる。言ってみれば,動物園の狭いオリの中に入れられた常日頃から拮抗関係にある二頭のドーブツのようなもんでありまして。そりゃあ諸般の事情が許せばもっとオリを広く大きなものに増改築すればいいんだろうけれど。いや,そういう問題ではないか。
かくして,Aを自己完結させないままに次のBへと移行してしまうものだから,その際もともとAに付随していた物品等はタカシがAからBに移った時点でタカシにとっての当面の「意味」を失い,モノとしての存在理由,存在位置が不明瞭となり,やがては行方不明者リストの仲間入りをする,といった経過をたどる。
ただし,学校や体操教室,習字教室などにおけるオトモダチとの関係,それをトータルな意味での「社会生活」と言い換えてもいいが,そのような場面においては,恐らくこれとはいくらか異なる行動生態をタカシは示しているに違いない。タカシがたまに父に対して語る学校での様子や,時々家に遊びに来るオトモダチとの会話などからも,その辺りの事情は多少なりとも伺い知れる。父親としての希望的観測も若干は含まれていようが,それは決してオリの大きさ云々の問題ではないだろう。そして少年達との「社会生活」を営む過程においては,タカシも多分,物をなくすことをほとんどしないんじゃなかろうか。例えば,ある河川のある水域に生息するアユが,何らかの環境条件の変化により水域の適正収容量を超えるまでに生息密度が過大になってしまうと,それまで成立していた「なわばりアユ」の社会がくずれ,大型のM淵などを拠点として新たに「群れアユ」を中心とする社会が形成される。しかし,アユの成長率そのものは,なわばりが成立していたときに比べて特に劣化することはないのだ。アユはアユなりに環境への適応ということを本能的に会得し,それを河川生態系における生き残り戦略として要領よく発揮している。まぁ,タカシだってアユみたいなもんだからネ。
以上は単なる小理屈の羅列であるが,それなりに的を得ている部分もあるかも知れません(いや,ホンの少しだけ)。要するにダラシナイってことですよ,タカシくん!(あるいはもしかして,多分に母親方面からの遺伝,かな?)
どうも粗忽者のタカシはすぐに物をなくしてしまう癖がある。最近特にその傾向が目立ってきたようだ。家の中,あるいは家族で出掛ける外出先を問わず。それが大事な物であっても,あるいは取るに足らない物であっても。
原因はしごく明瞭である。家のなかにおけるタカシの様々な言動,それをトータルな意味での「家庭生活」と言い換えてもいいが,そのようなタカシの日常的な行動を観察していると,Aという行為からBという行為に移るときのきっかけ,それらは自らの納得づくの主体的な判断によるというよりも,むしろ外界からの刺激によって突発的・発作的に次なる行為への移行を促されるというか,強いられてしまうことの方が多いようである。ヨシ,これはこれで終わりとして,サテト,次に.... なんて調子にはほとんどならない。つまり,タカシの家庭内諸行動においては,ひとつひとつの行為が起承転結を伴うことが極めて少ない。やってることの多くが中途半端だ。
外的インパクトの主たるものは,家のなかにおいては言うまでもなくアキラの言動である。いや実際のところは,アキラの存在自体がタカシをして望むと望まざるとにかかわらず絶えず次なる行動へと駆り立てているようにも思われる。言ってみれば,動物園の狭いオリの中に入れられた常日頃から拮抗関係にある二頭のドーブツのようなもんでありまして。そりゃあ諸般の事情が許せばもっとオリを広く大きなものに増改築すればいいんだろうけれど。いや,そういう問題ではないか。
かくして,Aを自己完結させないままに次のBへと移行してしまうものだから,その際もともとAに付随していた物品等はタカシがAからBに移った時点でタカシにとっての当面の「意味」を失い,モノとしての存在理由,存在位置が不明瞭となり,やがては行方不明者リストの仲間入りをする,といった経過をたどる。
ただし,学校や体操教室,習字教室などにおけるオトモダチとの関係,それをトータルな意味での「社会生活」と言い換えてもいいが,そのような場面においては,恐らくこれとはいくらか異なる行動生態をタカシは示しているに違いない。タカシがたまに父に対して語る学校での様子や,時々家に遊びに来るオトモダチとの会話などからも,その辺りの事情は多少なりとも伺い知れる。父親としての希望的観測も若干は含まれていようが,それは決してオリの大きさ云々の問題ではないだろう。そして少年達との「社会生活」を営む過程においては,タカシも多分,物をなくすことをほとんどしないんじゃなかろうか。例えば,ある河川のある水域に生息するアユが,何らかの環境条件の変化により水域の適正収容量を超えるまでに生息密度が過大になってしまうと,それまで成立していた「なわばりアユ」の社会がくずれ,大型のM淵などを拠点として新たに「群れアユ」を中心とする社会が形成される。しかし,アユの成長率そのものは,なわばりが成立していたときに比べて特に劣化することはないのだ。アユはアユなりに環境への適応ということを本能的に会得し,それを河川生態系における生き残り戦略として要領よく発揮している。まぁ,タカシだってアユみたいなもんだからネ。
以上は単なる小理屈の羅列であるが,それなりに的を得ている部分もあるかも知れません(いや,ホンの少しだけ)。要するにダラシナイってことですよ,タカシくん!(あるいはもしかして,多分に母親方面からの遺伝,かな?)