消極的な,あくまで消極的な異議申し立て

2005年12月18日 | タカシ
 先日の晩のことである。 夜11時を大分回った頃,風呂から出た父はいつものように台所の冷蔵庫からヨーグルトをひとつ取り出し,それを居間の掘炬燵の上に置いて,しかるのち,炬燵を前にしてパジャマ姿で真向法の第三体操なんぞを始めるのであった。だいたい毎晩こんな風に淡々とした夜半を過ごしている。ま,クロード・フランソワ歌うところの《コム・ダビチュード》の世界,とでも言ったらよろしいか(それを 《我が人生》 などとは,めっそうもない,誰にも語るまいぞ!)

 ちなみに,拙宅の掘炬燵の形状は長方形で,平面サイズは長辺が約110cm,短辺が約80cmである。この炬燵の二辺の脚を利用して,というか,脚と天板とを介助用具として開脚運動を行うのだが,近年とみに躯体の硬直化が著しいアワレナ父のことゆえ,現状では短辺の脚を利用するのが精一杯である。それだけ股関節の可動領域がすこぶる収縮しており,仰角90度程度の開脚すら苦行となっている次第だ(かつては長辺を使ってさしたる苦もなくそれを行っていた時期も,確かあったような気がするのだが。。。) ウンウンいいながら,ゆっくりと前屈を繰り返す。その姿は多分,第三者から見れば屈伸運動を行っている状況とはとても理解し難いであろうと,自らも重々承知している(単に頭を上げ下げしているだけ?) にもかかわらず,毎晩のルーチンとして飽きもせずに行う。いや,断固行わねばならぬのだ。継続は力なり。艱難汝を玉にす。目指すは細川護煕か,あるいは中曽根康弘か。海行かば水漬く屍,山行かば草生す屍 (ああ悲しい)

 ときどきひと休みしては,炬燵の上に置いたヨーグルトを少しずつ食する。ヨーグルトの種類・銘柄に関しては基本的に当方に選択権はなく,たまたま貯蔵されているものを日替わりで召し上がるだけだ。その日はアロエ・ヨーグルトであった。まろやかな甘さがジワリのど元を通り過ぎゆくその感触は,儚くも侘びしい人生において,つかのま限りの至福の時をもたらす。というのは少々オオゲサにしても,何にせよ,風呂上がりのヨーグルトが身体を活性化させる一種添加剤のような役割を果たしていることだけは確かな気がする。

 それにしてもタカシのページで,一体何の話をしているんだか。

 さて,その日は週末の金曜日だったものだから,そんな遅い時間になってもタカシはまだ就寝しておらず,居間の長椅子にダラリ横になって何をするでもなくボンヤリと時を過ごしているのであった。恐らく少し前までは,若手お笑い凸凹タレントたちが大挙出演するTVのヴァラエティー番組などを見ていたに違いない。TV画面の枠内を所狭しとばかりに闊歩し賑々しく騒ぎ立てるオニイサンたちの競演ないしは饗宴。なかにはオネエサンもオッサンもオバハンも若干名混じっているようだが,ともかく彼ら彼女らにとって,現在のTVメディアが提供するリアルタイム劇場はまさに一世一代のハレ舞台なのだろう(稼げるうちに,たんまり稼がなくっちゃ!)。手を変え品を変え,前後見境のない絵空事が次々と展開する。頓知と機転と見テクレが何よりも優先される世界,といえばモットモラシイが,要は,人よりギョウサン受けたモン勝ち,他人の揚げ足取りに終始する「自分以外はみんなバカ」の,何ともやりきれない閉ざされた世界だ。そんなバカバカしいオチャラケ番組の類を,最近のタカシは好んで視聴しているように見受けられる。どうやら友達付き合いにおける情報の共通認識,彼らの社会における一般教養科目でもあるらしい。

 しかしまったく,ワケノワカラン御時世になったものだ。以下は路地裏隠居の戯言のたぐいになるが,昨今における斯くの如き「ヴァラエティー」の隆盛ぶりは,個々のドラマツルギーの品性下落あるいはサブカルチャー全般の過熟・爛熟・頽廃ぶりを云々するレベルの問題では既になく,現代ニッポン社会の津々浦々に「お笑い」が蔓延しつづけた挙げ句に,いわゆる民族の精神文化そのものが「お笑い化」し,本来ありうべき正常進化途上にある「まっとうな共同体」の規範が,ここにきて急激に方向性を見失い,乖離・拡散・破綻への道を進みつつある,そういったことの紛れもない予兆であると断じてよいと思われる。数多の歴史を顧みるまでもなく,人類の誕生以来,世界各地においてさまざまな文化文明が絶えず栄枯盛衰を繰り返してきたわけで,個人の意志は社会の意志に常に隷属するわけで,そして我々は今ひとつの終末のさなかを生きているわけで,まぁ,何を言ってもショーガナイことなのだけれど,それにしても,昨今はその勢いがあまりに加速度的ではあるまいか。ニッポン沈没,なんていう随分と懐かしい言葉をついつい思い出してしまう。で,逃げ道はどっちだ? いえ,別に酒が入っているわけではございません。

 もちろんそれは,我らが父祖ならびに私たち自身が敷いたレールの延長線上に形成された社会に他ならないわけであり,自業自得を今さら嘆いても天に唾するだけのことだ。けれどもやはり,次世代のこと,とりわけタカシやアキラのような若年層の将来を改めて思うとき,現在のTVメディアに代表される目に余るアハハケラケラは,彼らの未熟なる感性に対して巧妙に仕組まれた罠として機能しており,結果として彼らを喜ばしからざる別世界へと連れ去ることを目論んでいると思わざるを得ないのである(仕掛人は誰なのだ?) 言葉を変えれば,若い知性,理性,感受性を恒常的に歪めさせることにより,ひとつの世代,ひとつの社会集団の価値観,世界観を御破算にし,歴史的継続性を断絶させてしまう結果を導くのである。遺伝子の川の流れのなかで,それがどのような意味を持っているのか,無力な年寄りは考えるだにユーウツになる。 

 よしんば千歩譲って,中学生たる君ら方にとって,あのようなお笑いが日々のハードでタイトな生活のなかで蓄積されているであろう諸々の精神的・肉体的プレッシャーに対するガス抜き的な役割を多少なりとも担っているという現実を認めるとしよう。でもそれらは所詮ドラッグに過ぎないのだよ。しかも大変危険でタチの悪いドラッグだ。それだったら,ヘンテコリンなお気楽ラッパーやらチャラチャラ娘たちが陽気に歌い踊るハヤリ歌番組でも見ていた方が,まだマシなドラッグ効果が得られるだろうに。あるいは,昔ながらの青春物語を今風に味付けしたドラマ(ウォーターボーイズ,海猿,etc.)で気分転換した方がもっとよろしいか知らん。いずれにしても,ドラッグの品質と効能が問題なのだ。自省と決意が強く求められるべきなのだ。オチャラケが正当化される社会の不幸。人は何によって生きるか? 戦火と貧困から免れておれば取りあえずそれでシアワセ,というわけでもなかろうに。ブツブツ。

 いや,決して酒飲んで酔っぱらっているわけではないのだが,あぁ,まったくもって年長者の嘆きにことかかない昨今の世情である。本来なら,TV受像機そのものを家から追放したいくらいなのだが,家庭内では極めて無力な父ゆえ,多方面からのブーイングの嵐に抗すること能わず,ただ小さくなって背を向けるのみである。人に与えられているものは何か?人に与えられていないものは何か? 夜のトバリのなかでジーサンの繰り言が無限ループを続けてゆく。ブツブツ。ブツブツ。

 おっと,話がなかなか進まないゾ。

 ところで,そんな夜更けのダラダラ・タカシであるが,父のトレーニング姿をしばらくボンヤリと横目で眺めていた挙げ句に

 『ったく,もう。 オヤジくさいんだから~!』

 などと,ポロリ小声で独りごちるのであった。

 ったく,もう。それが父子のコミュニケーション,かよ! とでも言い返したくなるのをぐっと堪えつつ,父はタカシに対してヤンワリと返答した。

 『実際,オヤジなんだから,しょうがないじゃないの。オヤジはオヤジ,それ以外の何者でもない。いや,オヤジっていうより,今じゃ老人て言った方が正解かも知れないけどね~』

 父の開き直りに対して,タカシはさらに言葉を返す気も起こらなかったようで,少し気まずそうに横を向いてそのまま黙り込んでしまった。ミドルティーンの揺れる心情。コミュニケーション不全症候群。要するに,家の中でもシャイなんだ,この子は。

 ただし,ここでちょっとだけ補足説明しておくと,上のタカシの発言には,決して父を小莫迦にしていたり,あるいは疎んじていたり,というニュアンスは含まれていなかったように思う(いや,少しくらいはあったかも知れないけどネ)。 それよりもむしろ,そうさな,例えて言えば,遠い北国で もうすっかり大人になった蛍ちゃんが,五郎さんの相変わらずのオカシナ行動に対して困った顔してちょっとだけタシナメルような,そんな口ぶりであった。理想的な父親像の追求?とまではいかなくとも,少なくとも親は親らしく,自分が納得できるような親であって欲しい。そんな彼ら若年者のささやかな願いの表れなのかも知れない。消極的な,あくまで消極的な異議申し立て。敷衍すれば,子の親に対する応援歌,の少々屈折した表現とでもいえるのだろうか。

 まてまて。そりゃ単なるバカ親の見込み違い,思い過ごしかも知らん。耄碌からくる盲目,ってヤツかも知らん。いや,きっとそうに違いあるまい。そんなに今日びの現実は甘くない。イマの子供はムカシの子供じゃない。親子の絆を信じているのは,多分は親の方だけだろう。けれど,親が知らぬ間にタカシとて少しずつ少しずつオトナになっている,それだけは確かなことだ。相変わらずのアマエンボウで,ワガママで,セケンシラズで,トンチンカンで,ユイガドクソンで,などと思っているうちに,タカシの世界観は父親の与り知らぬ方向へ,知らず知らずのうちに地形輪廻landform cycleのように遷移してゆく。ときには地すべりland slideのように驚くばかりの変貌をとげることもある。それをもしヒトの成長というのなら,父はそのことを甘んじて受け入れるしか術はない。老いては子に従う。これはその最初の兆しなのだろうか。でもやっぱり,TVはホドホドにしときなさいね,と最後にシツコク念を押す父でありますが。

 相不変ジーサンのブツブツには起承転結がない。いえ,酒は呑んでませんてバ!
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