例えば出張先の地方の小都市で,特に意味もなく夜の繁華街をぶらつくことがある。コンビニに立ち寄る。小さな書店にフラリと入る。土産物屋や雑貨店があればヒヤカシ気分で入る(拙者,飲み屋やパチンコ屋には無縁な者ですから。残念!)
それらの店は夜だというのに概してそこそこ繁盛しており,特にコンビニなどはかなり混雑していることが多い(皆さん,他に行くところがないんだろうかネ)。狭い店内ではいろんな種類の人と接近遭遇し,交錯するわけだが,その際の相手方の対応ぶりを観察していると,昨今の世情の一端が垣間見られてなかなかに興味深い。つまり,社会的存在としての個人のアイデンティティーの変容,対人関係における新たな自己主張の展開,平たくいえば「自分以外はみんなバカ」の世界に関する現状がある程度把握できるのである。地方でも都会でも,そこが人々の集まる「町」である限りにおいて,それは多分同じだろう。
ここでは子供と老人は一応除外して対象を若年層~中年層に限定しよう。だいたいハイティーンから40代後半くらいまでの年代になる。
まず,A群(=男性)においては,混雑した店内での「すれ違い」の際に生じる行動として,次のような傾向が認められる。 [A-1男子高校生]:ほとんど先方から先によける。それもごくアタリマエの所作で,自然によける。 [A-2工員風のオニイサン]:比較的自然に,半ば義務的によける。 [A-3ヤンキー風のアンチャン]:これまた意外なことに,だいたい先方からよける(中にはコチラから先に思わずよけてしまうような例外もあり)。 [A-4きちっとした身なりのサラリーマン風の若い男]:これはほとんどよけない。故意にヨソ見をして無視することも多い。 [A-5中年のオヤジ]:品定めをするようにこちらを訝しげに見ながら,それでも一応はよける。 ま,ざっとこんなところか。
次に,B群(=女性)の場合はどうかといえば。 [B-1女子高校生]:いくぶん眉をしかめながらも,よける。 [B-2若いOL風のオネエサン]:少々イヤそうな顔つきで,仕方なさげによける。 [B-3ヤンキー風のネーチャン]:かなりイヤそうな顔つきで,それでもやはり何とかよける。 [B-4ヤンママ風の若いオバサン]:さっとよける場合(α)と,ほとんどよけない場合(β)と,両極端に分かれる(子供連れはβが多い)。 [B-5中年のオバサン]:これは,ほとんどよけない。時に体当たりすら食らわせてくる。 とまあ,こんな感じだ。
以上の反応は,恐らく私の外見が工事現場における少々ひ弱そうな現場代理人か,あるいは町の工務店の多少は誠実そうな社長のごときに見えることに由来すると思われる。それとも,夜間高校のウダツの上がらない教員にでも見られているのかな(どちらにしても,心ならずも,なのでありますが)。
A群の反応については,いずれも概ね妥当なところだろう。ただし,A-4のサラリーマンなどを見ると,ついつい,この国の未来に対して暗然たる思いを抱いてしまうが,これとて当方から文句をいえる筋合いでもない。
B群については,B-5はまず論外である。勝手にブイブイやってなさい。B-2及びB-3は,男のA-4と同じく当世気質の自己表現なのであろうが,やはりこのようなオネーチャンたちに遭遇するたびに,古いタイプの人間としては期待をはぐらかされたような,暗澹たる気持ちにならざるを得ない。また,B-4に関しては,両極端(αとβ)が生じる理由を考えるに,それはB-1時代における経験値(獲得値)の差によるものではなかろうかと推察される。
そこでB-1女子高生について少々検討したい。女子高生といっても人それぞれ,顔つきや身なり,性格に体格,知性に痴性など,実に多種多彩である。それでも総じて,町中などでしばしば遭遇する思春期の女子高生の姿や物腰,話しぶりなどを見聞するたびに,何とはなしに心が痛むことが多い。この子たちがこの先どのように成長してゆくのか,他人事ながら非常な不安にかられてしまう。かつてジャン・フェラJean Ferratは《女は男の未来である》と歌ったが,女の子供を持たない男親の私としては《女子高生は私たちの未来である》と思わざるを得ない。その挙げ句,やがて彼女らがB-3ないしB-4(β)へと移行しないようにと,心の底から願ってしまうのである。
ああ何だかヨッパライの戯言になってしまったゾ(ここ最近はこんなのばっかり)。最後に,ジョルジュ・ブラッサンスGeorges Brassensの《パニュルジュの羊Le mouton de Panurge》という歌を引いて与太話を終わりにしたい。ムカシムカシに聞いた永瀧@フレンチ家元の訳詩では確か《浮気な小娘》となっており,今にして思えばけっこうヒドイ訳だったが,時代の要求にはそれなりに合致していたのだろう。それはさておき。その歌のなかでブラッサンスは,街中を闊歩する今風の蓮っ葉な若い女の子たち,流行の尻馬に乗って遊びほうける軽佻浮薄な娘たちに対して,いささか古風なフェミニストとしての暖かい眼差しで彼女らの現状を見つめ,たしなめ,そしてその将来を予見している。ちなみに,落ち着いた調子で丁寧に破綻なく淡々と歌っているスタジオ録音ではなく,音程が多少不安定で抑揚も大きく,幾分思い入れを込め過ぎた感のあるライブ・ステージ(ボビノ座[1964年]など)での歌いぶりの方が,ブラッサンスの心情をより明瞭に反映しているように思う。とりわけ,ルフランの語り口調は言いようもなく美しい。まるで祈りのように,ゴリラが自問自答している。オジサンは本当に心配だよ!
Des Venus de la vieille ecole
Cell's qui font l'amour par amour
昔の学校のヴィーナスたち
恋のために恋をする娘たちよ
それらの店は夜だというのに概してそこそこ繁盛しており,特にコンビニなどはかなり混雑していることが多い(皆さん,他に行くところがないんだろうかネ)。狭い店内ではいろんな種類の人と接近遭遇し,交錯するわけだが,その際の相手方の対応ぶりを観察していると,昨今の世情の一端が垣間見られてなかなかに興味深い。つまり,社会的存在としての個人のアイデンティティーの変容,対人関係における新たな自己主張の展開,平たくいえば「自分以外はみんなバカ」の世界に関する現状がある程度把握できるのである。地方でも都会でも,そこが人々の集まる「町」である限りにおいて,それは多分同じだろう。
ここでは子供と老人は一応除外して対象を若年層~中年層に限定しよう。だいたいハイティーンから40代後半くらいまでの年代になる。
まず,A群(=男性)においては,混雑した店内での「すれ違い」の際に生じる行動として,次のような傾向が認められる。 [A-1男子高校生]:ほとんど先方から先によける。それもごくアタリマエの所作で,自然によける。 [A-2工員風のオニイサン]:比較的自然に,半ば義務的によける。 [A-3ヤンキー風のアンチャン]:これまた意外なことに,だいたい先方からよける(中にはコチラから先に思わずよけてしまうような例外もあり)。 [A-4きちっとした身なりのサラリーマン風の若い男]:これはほとんどよけない。故意にヨソ見をして無視することも多い。 [A-5中年のオヤジ]:品定めをするようにこちらを訝しげに見ながら,それでも一応はよける。 ま,ざっとこんなところか。
次に,B群(=女性)の場合はどうかといえば。 [B-1女子高校生]:いくぶん眉をしかめながらも,よける。 [B-2若いOL風のオネエサン]:少々イヤそうな顔つきで,仕方なさげによける。 [B-3ヤンキー風のネーチャン]:かなりイヤそうな顔つきで,それでもやはり何とかよける。 [B-4ヤンママ風の若いオバサン]:さっとよける場合(α)と,ほとんどよけない場合(β)と,両極端に分かれる(子供連れはβが多い)。 [B-5中年のオバサン]:これは,ほとんどよけない。時に体当たりすら食らわせてくる。 とまあ,こんな感じだ。
以上の反応は,恐らく私の外見が工事現場における少々ひ弱そうな現場代理人か,あるいは町の工務店の多少は誠実そうな社長のごときに見えることに由来すると思われる。それとも,夜間高校のウダツの上がらない教員にでも見られているのかな(どちらにしても,心ならずも,なのでありますが)。
A群の反応については,いずれも概ね妥当なところだろう。ただし,A-4のサラリーマンなどを見ると,ついつい,この国の未来に対して暗然たる思いを抱いてしまうが,これとて当方から文句をいえる筋合いでもない。
B群については,B-5はまず論外である。勝手にブイブイやってなさい。B-2及びB-3は,男のA-4と同じく当世気質の自己表現なのであろうが,やはりこのようなオネーチャンたちに遭遇するたびに,古いタイプの人間としては期待をはぐらかされたような,暗澹たる気持ちにならざるを得ない。また,B-4に関しては,両極端(αとβ)が生じる理由を考えるに,それはB-1時代における経験値(獲得値)の差によるものではなかろうかと推察される。
そこでB-1女子高生について少々検討したい。女子高生といっても人それぞれ,顔つきや身なり,性格に体格,知性に痴性など,実に多種多彩である。それでも総じて,町中などでしばしば遭遇する思春期の女子高生の姿や物腰,話しぶりなどを見聞するたびに,何とはなしに心が痛むことが多い。この子たちがこの先どのように成長してゆくのか,他人事ながら非常な不安にかられてしまう。かつてジャン・フェラJean Ferratは《女は男の未来である》と歌ったが,女の子供を持たない男親の私としては《女子高生は私たちの未来である》と思わざるを得ない。その挙げ句,やがて彼女らがB-3ないしB-4(β)へと移行しないようにと,心の底から願ってしまうのである。
ああ何だかヨッパライの戯言になってしまったゾ(ここ最近はこんなのばっかり)。最後に,ジョルジュ・ブラッサンスGeorges Brassensの《パニュルジュの羊Le mouton de Panurge》という歌を引いて与太話を終わりにしたい。ムカシムカシに聞いた永瀧@フレンチ家元の訳詩では確か《浮気な小娘》となっており,今にして思えばけっこうヒドイ訳だったが,時代の要求にはそれなりに合致していたのだろう。それはさておき。その歌のなかでブラッサンスは,街中を闊歩する今風の蓮っ葉な若い女の子たち,流行の尻馬に乗って遊びほうける軽佻浮薄な娘たちに対して,いささか古風なフェミニストとしての暖かい眼差しで彼女らの現状を見つめ,たしなめ,そしてその将来を予見している。ちなみに,落ち着いた調子で丁寧に破綻なく淡々と歌っているスタジオ録音ではなく,音程が多少不安定で抑揚も大きく,幾分思い入れを込め過ぎた感のあるライブ・ステージ(ボビノ座[1964年]など)での歌いぶりの方が,ブラッサンスの心情をより明瞭に反映しているように思う。とりわけ,ルフランの語り口調は言いようもなく美しい。まるで祈りのように,ゴリラが自問自答している。オジサンは本当に心配だよ!
Des Venus de la vieille ecole
Cell's qui font l'amour par amour
昔の学校のヴィーナスたち
恋のために恋をする娘たちよ