さてさて,またもや室内作業BGMの話である。いぇ,何分にも極めて単調な毎日を過ごしている身ゆえ,碌すっぽ書くべき事柄もそうそうありはしないのです。だったら別に書かなければいいのにとは思うが,いや,そのぉ,一応は手指の訓練,リハビリ・リハビリ,記憶の再認,リハビリ・リハビリ,ということで。。。 では早速。
日々の僅かな生活費を稼ぐため,老体に鞭打ちながら今も自宅内での内職作業を細々と続けており,その折にBGMとしてダリダDalidaとかを好んで流している,なんてぇことを少し前に記したわけだけれども,もちろんダリダだけじゃなく,和洋・新旧取り混ぜいろんなジャンルの音楽が,仕事を黙々とこなす貧乏老人の背景周囲には流れているのです。場の沈黙に耐えかねて,という面も多少はあるかも知らんが,むしろそれらの音楽は作業能率を高めるツールとしての効用の方がより高いように思う。
例えば,洋物はどうしても60~70年代の仏蘭西歌謡がメインになるのは致し方ないとしても,シャンソン以外にもカンツォーネだとかファドだとかサンバだとか,ときにはクラシック系のブラームスだとかブルックナーだとかチャイコフスキーだとかドビュッシーだとかも色々流す。また,和物では村下孝蔵だとか小林大吾だとか倉橋ルイ子だとか尾崎亜美だとか,スピッツだとかサザンだとかZARDだとかイキモノガカリだとかセカイノオワリだとか,あるいはまた中島みゆきだとか小椋佳だとか岡村孝子だとか長谷川きよしだとか,こちらもまた節操がない。いずれも元々はCDアルバムだったのをPCのHDD内に移行収録したものが大部分で,現在,それらのCD自体はほとんど私の手元に残っていない。
そんななかで,井上陽水Inoue Yohsuiの歌を流すことだってある。これも元の音源は不明だが,恐らくは息子が中学生の頃だったかにツタヤでレンタルしてきた2枚組の陽水ベストアルバム?を頼まれてmp3ファイルに変換して渡すため,いったん私のPC内に保管しておいたものが残っていたようだ。子供のナツカシキ忘れ形見,というか,ササヤカナル置き土産とでも申すべきか。それはさておき,私と同世代で今も現役バリバリらしい井上陽水氏を,最近になって気紛れに聞き直してみたところ,そのマロヤカナ歌声とココチヨイ旋律とに,不覚にも思わず聞き惚れてしまい,そして彼の楽曲の数々について改めて高得点で再評価してしまったという次第だ。負うた子に教えられたという訳か。もっとも正直なところを申せば,アルバム収録曲には多分に玉石混交の感があることは否めない。それでも,たとえば『自然に飾られて』など,なかなかに素晴らしい歌だと思う。
言わないでロマンス 言葉はMaybe
流れる歌にまかせて
大人の服に 着替えてLady
ドアから外がステージ
空はMoon Light
六月の ささやく声に気づいて
誘われてWoman そよ風のまま
六月の夜へ 魅惑につつまれて
言わないでロマンス 微笑んだまま
恋人のそばで 自然に飾られて...
この心地良さは何だろう。BGMとしては最良のものだと思う。ハズカシナガラ,私にとってのセンチメンタル・ジャーニーというか,遥かなる孤独への旅路というか,遠い遠い昔の甘酸っぱい思い出がジワリ記憶の底から甦ってくるような心持ちを覚える。銀河を目指す夜鷹みたいな,一途で直向な,捉えどころのない浮遊感覚。天上天下唯我独尊。歌はヨロコビであり,そして歌はアコガレであり,けれど歌はマボロシであり。。。 いえ,別に涙ぐんだりはしませんケド,そんな魅力的な楽曲を提供された陽水氏には心から感謝したい。
ところで,井上陽水は何処で,そして誰から,そのような楽曲の作法(作詞・作曲術)を学んだのだろうか。そんなショーモナイことがちょっと気になった。もちろん,持って生まれた天賦の才というのはもともと備わった御方なのだろうけれども,加えて想像するに,日頃の人付き合いの良さ,といったものがあるかも知れない,などと感じた。つまり,自らが携わっている職業・商売ならびに日々の暮らしに係わりを持つ人々,それも音楽畑の人に限らず,さまざまな学芸に秀でた教養人たち,さらには市井の端倪すべからざる無名人などとの親密なる交流,そこから感化され,薫陶を受け,同化・吸収した挙句の熟した果実であるのかな,といったところが私の推測だ。剽窃の才に長けて,といっては無論失礼になろうが,モノマネも血肉化されればオノがモノ。歴史上の数々の偉人のことを想起するまでもなく,それもまたひとつの才能なのだろう。端無くも同年代を生きる者として,誠に羨ましい限りである(アレ?何だか言ってることが例によってジジイノタワゴトになっちゃったかな?)
はい,気を取り直して。ここで唐突ながら,ポール・ヴェルレーヌPaul Verlaineの有名な詩の一節を引用しておきます。タイトルは『詩の作法Art poétique』。
De la musique avant toute chose,
Et pour cela préfère l'Impair
Plus vague et plus soluble dans l'air,
Sans rien en lui qui pèse ou qui pose.
何にもまして音楽を
そのためには形なきものを重んぜよ
曖昧模糊として空中に溶け込み
重さを感じさせぬが肝要
Il faut aussi que tu n'ailles point
Choisir tes mots sans quelque méprise :
Rien de plus cher que la chanson grise
Où l'Indécis au Précis se joint.
また次のことも心せよ
いささかの油断なく言葉をえらべ
灰色の言葉にまして優れたものはない
意味の揺らめきが確かさと結び合う
C'est des beaux yeux derrière des voiles,
C'est le grand jour tremblant de midi,
C'est, par un ciel d'automne attiédi,
Le bleu fouillis des claires étoiles !
それはヴェールに隠れた美しい瞳
それは真昼に震える太陽の光
それは穏やかな秋空の彼方に
青く散らばった星々のきらめき
・・・・・・
De la musique encore et toujours !
Que ton vers soit la chose envolée
Qu'on sent qui fuit d'une âme en allée
Vers d'autres cieux à d'autres amours.
音楽こそが肝要だ
音楽は言葉に羽を生えさせ
歌う者の魂よりさまよい出て
自由に世界を飛び回らせる
Que ton vers soit la bonne aventure
Eparse au vent crispé du matin
Qui va fleurant la menthe et le thym...
Et tout le reste est littérature.
音楽に乗って冒険せよ
朝風に乗って舞い飛べ
風はミントやタイムの香りを運び
吹き去った後に言辞をとどめる
これはまさに井上陽水の歌にピッタリな詩ではないか! というか,陽水氏はヴェルレーヌ精神の忠実な僕か,その魂の権化かとさえ思われてくるほどだ。この地球というチッポケな惑星のなかで,時代を超え,天空を駆け,偶然に導かれるように両者は相まみえたンだ。それは実にシアワセな邂逅ではなかろうか! ところで私自身はと申せば,ヴェルレーヌのこの詩は,もう何十年も前にレオ・フェレLéo Ferréが節付けして歌ったもので初めて知った。そのいささか感情移入多寡と思えるほどの自己陶酔的な歌いぶりに若干辟易しながらも(何せこちとら若かったもので),一方ではその精妙な節回しの美しさ,まるで恐山のイタコのような力強い霊的唱法に,当時から強く心に残る歌であった。ただし,その詩の内容自体については,特に深く考えることもせずに現在に至っている。けれど,ここにきて初めて合点がいったのだ。《ヴェルレーヌ → フェレ → ヨースイ》と続く一筋の道,それは私の心のなかの《巡礼の道》と見事に並行しているジャマイカ!
ああ,ますますジジイノタワゴトだなぁ。オソマツ様。
(付記)
上記のヴェルレーヌの詩の日本語訳は壺齋散人という御方の手になるものである。どのような方かは詳しくは存じ上げないが(恐らくは「端倪すべからざる市井人」なのでしょう),巷間著名な堀口大学御大の訳などと比べると,とても言葉がこなれた良訳だと思ったので,勝手ながら掲載させていただきました。全部ではなく部分的な引用となってしまい恐縮です。
日々の僅かな生活費を稼ぐため,老体に鞭打ちながら今も自宅内での内職作業を細々と続けており,その折にBGMとしてダリダDalidaとかを好んで流している,なんてぇことを少し前に記したわけだけれども,もちろんダリダだけじゃなく,和洋・新旧取り混ぜいろんなジャンルの音楽が,仕事を黙々とこなす貧乏老人の背景周囲には流れているのです。場の沈黙に耐えかねて,という面も多少はあるかも知らんが,むしろそれらの音楽は作業能率を高めるツールとしての効用の方がより高いように思う。
例えば,洋物はどうしても60~70年代の仏蘭西歌謡がメインになるのは致し方ないとしても,シャンソン以外にもカンツォーネだとかファドだとかサンバだとか,ときにはクラシック系のブラームスだとかブルックナーだとかチャイコフスキーだとかドビュッシーだとかも色々流す。また,和物では村下孝蔵だとか小林大吾だとか倉橋ルイ子だとか尾崎亜美だとか,スピッツだとかサザンだとかZARDだとかイキモノガカリだとかセカイノオワリだとか,あるいはまた中島みゆきだとか小椋佳だとか岡村孝子だとか長谷川きよしだとか,こちらもまた節操がない。いずれも元々はCDアルバムだったのをPCのHDD内に移行収録したものが大部分で,現在,それらのCD自体はほとんど私の手元に残っていない。
そんななかで,井上陽水Inoue Yohsuiの歌を流すことだってある。これも元の音源は不明だが,恐らくは息子が中学生の頃だったかにツタヤでレンタルしてきた2枚組の陽水ベストアルバム?を頼まれてmp3ファイルに変換して渡すため,いったん私のPC内に保管しておいたものが残っていたようだ。子供のナツカシキ忘れ形見,というか,ササヤカナル置き土産とでも申すべきか。それはさておき,私と同世代で今も現役バリバリらしい井上陽水氏を,最近になって気紛れに聞き直してみたところ,そのマロヤカナ歌声とココチヨイ旋律とに,不覚にも思わず聞き惚れてしまい,そして彼の楽曲の数々について改めて高得点で再評価してしまったという次第だ。負うた子に教えられたという訳か。もっとも正直なところを申せば,アルバム収録曲には多分に玉石混交の感があることは否めない。それでも,たとえば『自然に飾られて』など,なかなかに素晴らしい歌だと思う。
言わないでロマンス 言葉はMaybe
流れる歌にまかせて
大人の服に 着替えてLady
ドアから外がステージ
空はMoon Light
六月の ささやく声に気づいて
誘われてWoman そよ風のまま
六月の夜へ 魅惑につつまれて
言わないでロマンス 微笑んだまま
恋人のそばで 自然に飾られて...
この心地良さは何だろう。BGMとしては最良のものだと思う。ハズカシナガラ,私にとってのセンチメンタル・ジャーニーというか,遥かなる孤独への旅路というか,遠い遠い昔の甘酸っぱい思い出がジワリ記憶の底から甦ってくるような心持ちを覚える。銀河を目指す夜鷹みたいな,一途で直向な,捉えどころのない浮遊感覚。天上天下唯我独尊。歌はヨロコビであり,そして歌はアコガレであり,けれど歌はマボロシであり。。。 いえ,別に涙ぐんだりはしませんケド,そんな魅力的な楽曲を提供された陽水氏には心から感謝したい。
ところで,井上陽水は何処で,そして誰から,そのような楽曲の作法(作詞・作曲術)を学んだのだろうか。そんなショーモナイことがちょっと気になった。もちろん,持って生まれた天賦の才というのはもともと備わった御方なのだろうけれども,加えて想像するに,日頃の人付き合いの良さ,といったものがあるかも知れない,などと感じた。つまり,自らが携わっている職業・商売ならびに日々の暮らしに係わりを持つ人々,それも音楽畑の人に限らず,さまざまな学芸に秀でた教養人たち,さらには市井の端倪すべからざる無名人などとの親密なる交流,そこから感化され,薫陶を受け,同化・吸収した挙句の熟した果実であるのかな,といったところが私の推測だ。剽窃の才に長けて,といっては無論失礼になろうが,モノマネも血肉化されればオノがモノ。歴史上の数々の偉人のことを想起するまでもなく,それもまたひとつの才能なのだろう。端無くも同年代を生きる者として,誠に羨ましい限りである(アレ?何だか言ってることが例によってジジイノタワゴトになっちゃったかな?)
はい,気を取り直して。ここで唐突ながら,ポール・ヴェルレーヌPaul Verlaineの有名な詩の一節を引用しておきます。タイトルは『詩の作法Art poétique』。
De la musique avant toute chose,
Et pour cela préfère l'Impair
Plus vague et plus soluble dans l'air,
Sans rien en lui qui pèse ou qui pose.
何にもまして音楽を
そのためには形なきものを重んぜよ
曖昧模糊として空中に溶け込み
重さを感じさせぬが肝要
Il faut aussi que tu n'ailles point
Choisir tes mots sans quelque méprise :
Rien de plus cher que la chanson grise
Où l'Indécis au Précis se joint.
また次のことも心せよ
いささかの油断なく言葉をえらべ
灰色の言葉にまして優れたものはない
意味の揺らめきが確かさと結び合う
C'est des beaux yeux derrière des voiles,
C'est le grand jour tremblant de midi,
C'est, par un ciel d'automne attiédi,
Le bleu fouillis des claires étoiles !
それはヴェールに隠れた美しい瞳
それは真昼に震える太陽の光
それは穏やかな秋空の彼方に
青く散らばった星々のきらめき
・・・・・・
De la musique encore et toujours !
Que ton vers soit la chose envolée
Qu'on sent qui fuit d'une âme en allée
Vers d'autres cieux à d'autres amours.
音楽こそが肝要だ
音楽は言葉に羽を生えさせ
歌う者の魂よりさまよい出て
自由に世界を飛び回らせる
Que ton vers soit la bonne aventure
Eparse au vent crispé du matin
Qui va fleurant la menthe et le thym...
Et tout le reste est littérature.
音楽に乗って冒険せよ
朝風に乗って舞い飛べ
風はミントやタイムの香りを運び
吹き去った後に言辞をとどめる
これはまさに井上陽水の歌にピッタリな詩ではないか! というか,陽水氏はヴェルレーヌ精神の忠実な僕か,その魂の権化かとさえ思われてくるほどだ。この地球というチッポケな惑星のなかで,時代を超え,天空を駆け,偶然に導かれるように両者は相まみえたンだ。それは実にシアワセな邂逅ではなかろうか! ところで私自身はと申せば,ヴェルレーヌのこの詩は,もう何十年も前にレオ・フェレLéo Ferréが節付けして歌ったもので初めて知った。そのいささか感情移入多寡と思えるほどの自己陶酔的な歌いぶりに若干辟易しながらも(何せこちとら若かったもので),一方ではその精妙な節回しの美しさ,まるで恐山のイタコのような力強い霊的唱法に,当時から強く心に残る歌であった。ただし,その詩の内容自体については,特に深く考えることもせずに現在に至っている。けれど,ここにきて初めて合点がいったのだ。《ヴェルレーヌ → フェレ → ヨースイ》と続く一筋の道,それは私の心のなかの《巡礼の道》と見事に並行しているジャマイカ!
ああ,ますますジジイノタワゴトだなぁ。オソマツ様。
(付記)
上記のヴェルレーヌの詩の日本語訳は壺齋散人という御方の手になるものである。どのような方かは詳しくは存じ上げないが(恐らくは「端倪すべからざる市井人」なのでしょう),巷間著名な堀口大学御大の訳などと比べると,とても言葉がこなれた良訳だと思ったので,勝手ながら掲載させていただきました。全部ではなく部分的な引用となってしまい恐縮です。