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河川巡礼私史 (前口上)

1997年11月04日 | 川について
  川の流れの種類,特性,機能と構造等々を分類・再整理したい。したいんですが,今ちょっと時間がなくて.....(言い訳言い訳)。で,最初は繰り言から始まります。 

  関東平野の片隅で生を受けた私にとって,幼年時,自分の住む世界は基本的に平らな大地がどこまでもどこまでも続くところであった。ちょうどジャック・ブレルが《平野の国,それは私自身だ》と唄ったそのままの世界。そこでは,山というものは絵本のなかにおける書割り風景にすぎず(ホレ,例の“三角形のアタマをちょん切った富士山”ですわ),たとえ幼い想像力を目一杯はたらかせたとしても,せいぜいの所が平らな大地に土をチョンと盛ったところ(沢山盛ったり少しだけ盛ったり)でしかなかった。そして,水域ないし水系は水溜まりと同義であった。

 少年時,さまざまな世俗的知識の吸収,行動範囲の拡大とともに,世界は私にとって「箱庭的」存在へと変化していった。二次元から三次元への移行。そして新たに川が現れる。川というものは高所から低所へと垂れさがった一つながりの長~い透明なゴムホースのようなものだと初期の地理少年は単純に認識した。地図帳のなかで茶色から黄土色,草色,緑色へと移行する阪東太郎はその最も適切な事例であった。さらに,関東ローム層を穿つ細流,目黒川の一支流が我家と小学校とを結ぶ通学路の間を流れていたことは,地理少年の視点を一層確かなものにさせた。堆積と侵食,その地史的形成過程の断面の日常的往来。いわば,ここにきてマクロから入るようになった訳ですね。

 10代の半ばから20代の前半にかけて,少々恥かしい言い方をすれば,丹沢山塊は私の自我形成にとって格好のフィールドであった。初めて登ったのは16才の時。ちょっと先輩づらした中学時代の友人Fに連れられ,3月下旬のある晩,小田急線渋沢駅に二人で降り立ってそこからすぐに歩きだした。国道246号を横切り大倉をへて,馬鹿尾根のキツく長い登りをフウフウいいながら夜中に登った。塔ノ岳山頂の尊仏山荘の軒先で震えながら眺めた日の出。その後,竜ヶ馬場から丹沢山へ,そして何だか追われるように急ぎながら三峰をヒイコラ縦走し,カヤト原の高畑山の山腹を巻いて宮ヶ瀬の落合へと駆けるように下っていった。全身ぐったりと疲労して辿り着いたそこには,早春の淡い陽射しを受けてキラキラ光る早戸川,中津川の渓流があった。それらの穏やかな水の流れは,確かに私の疲れた身体と心を和ませ,惚けた頭を活性化させ,さらには萎縮した筋肉に再び新たな活力を与えたとさえ記憶している。あぁムカシムカシの美しき思い出よ。軟弱青少年にとってその2日間は何とも目くるめく体験であった。爾来,単独での山行をずいぶんと重ねたものです。

 長じて,大学では経済地理学研究室に所属した。そこで自らが研究した(?)ことといえば,例えば『カナダ東部地方の港湾諸都市における産業立地形成と土地利用区分について』とか(おいおい,何じゃそりゃ)。恐らく当時,K助教授は私の稚拙なナマイキさ加減を疎んでいたと思う。同時に自分の側にとっても,大学という閉じられた世界で日々繰り返されている遊戯的行為が空しい絵空事のように徐々に思われてきた(書を捨てよ,山にでも行こう,ってか?) そして私は社会科教師になりたいという秘かな夢をアッサリと捨て,研究室から離脱した。

 環境コンサルタント修行時代のある時期,茨城県の久慈川流域を詳しく調査したことがあった。中流域の約20kmあまりの流程を,アルバイト氏と2人で胴長を着用しカメラを首からぶら下げ地図と野帳を脇に抱えて,川のなかをバシャバシャ歩いて何日もかけて遡行し,河川形態や瀬・淵の規模,特徴,分布状況等を逐一観測していった。今にして思えばかなり無茶なことをしたものだと思う。巷間,所謂ナチュラリスト連中はカヌーで優雅に川を下ったりして川のウツクシサ,スバラシサを実感するというのであれば,私の方は胴長はいて20kmを汗かきながらバシャバシャ歩いて川のオソロシサ,テゴワサを実感したという次第です。まぁ一応のコヤシにはなりましたがね。

 現在,家のすぐ近くを丹沢三ノ塔に源を発する葛葉川が流れている。約4年程前この地に移り住んだ。数10年を経て再び丹沢へと引き寄せられたわけだ。引っ越したばかりの頃,よく妻と息子とで連れ立って河畔へ出かけた。礫の川原をヨタヨタと歩きながら水の流れに向かって石を投げたりする2才のタカシ。それを眼を細めながらのんびりと眺める父と母。そこには当面の将来に対する“前途洋々”,いやそう言ってはミもフタもない,せいぜいのところが“ユメ”とか“キボウ”とかを感じさせる何とはなしの安堵感があった。ただしその水質は,生物学的見地から申しますると,シマイシビルErpobdella lineata,ミズムシAsellus hilgendorfiiなどが優占するα中腐水性水域(かなり汚れた水域)に相当する状態であった。要するに川の水がキタナイんですわ。そのうえ,我らが家族が新規加入したことによる,さらなるエントロピーの増大なども懸念されたりしましてね。


    まぁこれが 終の流れか アルファメゾ (愁水)


 閑話休題。ところで,今から約40年程前に当地を訪れた柳田國男は,後日次のように書き記している。『……波多野の一郷は正しく学校の先生のいわゆる一箇の盆地ではあるが,この盆地は些しく単純でない。四周を山と丘とで取巻き,川が一方を切開いているという約束には合するが,水筋が南北に立ち分かれて中央に春の水の作った大分の高みがある。こじつけて煙草盆地とでも言ったら洒落になるかも知らんが,我々はこれを馬蹄の跡にたとえてみたいと思う。ただしこの足跡は左側へややきつく踏み立てている。すなわち,北を流れる金目川の谷の方が南秦野の境の水無川より遥かに深く刻まれていて,兄弟非常に齢のちがうことを示しているのである。(中略) 新編相模風土記にいわゆる波多野原は,かなり広い緩傾斜の台地である。この地が密林におおわれていた時分を想像してみると,猟にはよほど愉快な,武士の新住地として楽しみの多かったところと思う……』 その兄さんのほとり,楽しみ多き場所に現在居住している私としては,柳田翁のこの小文を見出した時,ウーンと唸ってしまった。歴史地理的な眼力の鋭さを感じた。それはまた,別のところで大岡昇平が戦後間もない東京市の焼野原を描写しているその視点にも通じるところがあると思われた。風景を見る,山や谷を見る,川を見る,そして水の流れを見る,その際すべからく必要なのは,そこに歴史的想像力を働かせながら見ることだ。眼前の風景をただボケーッと眺めているだけなら,風呂屋で湯につかりながらペンキ絵を見ているのと何の違いがあろうか,と。

 最近,ヨンドコロナキ事情により,週に2~3回は水無川の河畔を歩いている(いや実は息子を幼児園まで歩いて送るようになって,その帰り道に川沿いを通るだけなのですがね)。そして河川敷に沿ってやや早足で歩きながら,いつも水の流れに思いを致している。一体何だろうねコレは,この景観と構造は? 基本的には落差工ないし小規模堰堤が連続した急勾配の人工河川であるのだが,やや時間をかけて(予算の関係で?)部分的・段階的に砂防工事が施工された結果,それらの複合工事の積算が妙な具合に水環境を複雑・多様にしている。例えば床固めにしても,コンクリート打ちで水深も浅く全くフラットなもの,コンクリ打ちではあるが一部が劣化したせいか“深掘れ”が形成されているもの,扁平な十字ブロックが埋め込まれ規則的な溝がついているもの,あるいは異形ブロックがややこしく組み合わさって積まれたものなど,なかなかに多種多様である。また,水際部の状況についても,コンクリートの垂直護岸から,ツルヨシの小群落が繁茂しているところ,タデ類が深いカバーをなしているところ,径40~50cmの大岩が点在しているところ,小規模な砂礫堆が形成されてセキレイやカモ類などの休み場となっているような場所など,こちらもなかなかに複雑な様相を呈している。まんざら捨てたもんでもないじゃないか,と。

 翻って,かつて柳田國男が眺めた頃の“ほとんど水が流れていない”水無川の風景はどうであったろうか。私の若年時の記憶に残る昭和40年代の水無川は,何やら荒涼とした単調な直線河道が山の方からドーンと下り落ちているだけで,あまり近づきたくないホコリっぽい感じのする場所であったと思うが,柳田翁の時代も恐らくそれと五十歩百歩,流域住民に疎んじられる厄介な川であったろう。それで,人心は平原の方面へと向かったわけだ。

 川の流域に人々が定住し,そこで日々暮しを営み,そして川と付き合ってゆく限り,川というものは第一に,人々の築きあげた“砦”に敵対する厄介な存在である。たとえそれがどんなに美しく穏やかな流れの川であったとしても。「昔はねぇ,洪水で時々川が氾濫することなんかアタリマエのことだったんだよ。それが自然と人との付き合い方だったんだよ。」なんぞと尤もらしくノタマウ輩(どこぞのカヌー乗りか?或いはハム屋のCMタレントか?)の戯言は取りあえずイヌの遠吠えとみなして無視しよう。そもそも,近自然だとか多自然だとか,そういった発想自体が何やら歪んでいるのではないか。道を切り開き,大地を整地し,農作物を収穫し,草や花を植え,そして子供達が生まれ成長してゆくように,川もまた人々の力で上手にコントロールし育て上げてゆくことが必要なのだ。

 開発反対!自然を守れ!一辺倒のお題目は,もういいかげん聞き飽きました。そんなに“自然の川”を求めたいのなら,ニホン全国それぞれの地域地域に川のサンクチュアリ(本多勝一が嫌うコトバだが)を設定し,そこで心ゆくまで川のスバラシサを楽しむ,そのような場所を自然公園(或いはふるさと公園)として作るよう行政側に強く働きかければよいではないか。例えば当地で申せば,葛葉川上流の菩提集落あたりから支流の新田川一帯の山麓田園を聖域としてワタクシは推薦したい(付近の茶畑農家の皆さんゴメンナサイ)。あるいは一つ山越してヤビツ峠から札掛までの流域なども別の意味でなかなか捨て難い。


     (もちろん未完。ということで,このシリーズ物は今後も続く)

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