川に棲む生き物について。なかでもとりわけ「絶滅危惧種」なるシロモノについて。大多数の人々にとっては全くドーデモイイと思われることを以下に少々述べさせていただく。
世に存在する「絶滅危惧種」あるいは「貴重種」ないしは「稀少種」などと称される生き物に関して,ごく一般的なものをいくつか列挙してみると,動物ではニホンカワウソ,イリオモテヤマネコ,アマミノクロウサギ,カンムリワシ,シマフクロウ,ミヤコタナゴなど,植物ではマリモ,ムジナモ,タコノアシ,サクラソウ,フジバカマなどがすぐに思い浮かぶ。これらの生物は,新聞の社会面や文化欄,TVのネイチャー特番,さらには学校の教科書,副読本などで取り上げられる機会もしばしばあって,実物はさておきその名前だけは知らぬ人も少なくない,要するに「メジャーな貴重種」とでもいえる存在である。しかるにその一方で,カントウイドウズムシ,イソメマトイ,オンセンミズゴマツボ,アズママルクチコギセル,シノハラフサヤスデ,イシイムシ,スリカミメクラチビゴミムシといった,一般大衆にはほとんど認知されず,そして近い将来人知れず絶滅してゆくであろうことが確実な「マイナーな貴重種」の方が我々の周囲にはより数多く存在している,というのが悲しい現実なのであります。
現在私が係わっている仕事のなかで,川や湖に生息する淡水魚類に関する貴重種といえば,環境庁が一昨年発表した『汽水・淡水産魚類レッドリスト』(平成11年2月18日報道発表資料)によりオーソライズされた種(全76種)が第一に挙げられる。そのリストのなかでメダカが「絶滅危惧種」に指定されたことは,一時期,新聞・雑誌等のマスメディアをいろいろと賑わせ,郷愁と幻想,自然と文化,歴史と伝統,フィロソフィーとテクノロジー等々をゴチャマゼにした,何となく押しつけがましい啓蒙的話題を提供したことで記憶に新しい(そう,ほんの一時期だけではあったけれど)。参考までに記しておくと,上記資料では絶滅危惧種は次のようにランク分けされている。
◆絶滅危惧Ⅰa類
絶滅の危機に瀕している種で,ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い。
(ミヤコタナゴ,イタセンパラ,アユモドキ,など)
◆絶滅危惧Ⅰb類
Ⅰa類ほどではないが,近い将来における絶滅の危険性が高い。
(ホトケドジョウ,ネコギギ,など)
◆絶滅危惧Ⅱ類
絶滅の危険が増大している種
(スナヤツメ,メダカ,ムツゴロウ,ウツセミカジカ,など)
◆準絶滅危惧
現時点では絶滅危険度は小さいが,生息条件の変化によっては,「絶滅危惧」に移行する可能性のある種
(オショロコマ,タナゴ,オヤニラミ,など)
ところで,このような「絶滅危惧種」,「絶滅の恐れのある種」,「貴重種」という概念,さらに敷衍して「保護すべき大切な自然」,「未来に是非とも残したい地球遺産」といった観点からある特定の生物種に対して与えられる評価は,そもそもすぐれて政治的な意味合いの強い概念であり,時代の動向ないし世論の風潮に少なからず左右されること,今更言うまでもない。学術的ないし科学的知見に基づいてそれらに権威を付与する立場にあるべき学者諸先生のうちの若干名,というか決して少なからぬ方々は,その本心はさておき,例えばアサヒ・シンブンやクメ・ヒロシなどの意見に代表される自称「進歩的」プロパガンダによる一種邪悪なアジテーションに多かれ少なかれ引きずられているというのが実状ではなかろうか。
淡水魚類についていえば,メダカやムツゴロウなどが絶滅危惧種に指定されてしまうことなどはその典型だろう。いずれも,純粋に生物学的観点から見た場合の貴重種の範疇からはやや外れている。しかし何らかの形で取り上げないことには“世間”が許すまい(いや,実際は許すも許さないもないってもんだけど)。これを「政治的貴重種」と名付けよう。まぁ,しょせん科学は思想であり哲学であると同時に政治であり政策であらざるを得ない限りは,それもまた致し方ないことではあるのだが。もちろん,メダカ君やムツゴロウ君たちには何の罪もないんですがネ。
ひとつ,卑近な事例として私自身の経験を記しておこう。以前にも述べたことがあるが,昨年度の春季と秋季,東京都23区内のほとんどドブ川といえるようなコンクリート三面張り水路のあっちこっちで魚類調査を行った。その際,特に名を秘す某所&某所でメダカを各1個体採捕確認した。♪あら!こーんなところに貴重種が♪ という驚きとともに,正直申してたちまちユーウツな気分になってしまった。都内の住宅密集地を流れる水質汚濁の極めて著しい,かつ水辺環境もすこぶる単純で貧相な小河川で,絶滅に瀕した貴重種とされているメダカの生息を確認したですって!? そりゃまぁ,掃き溜めに鶴には違いないとしても,そのことが一体何の意味を持つのだろう? (別に鬼の首を取ったわけでもあるまいに) そうさな,例えていえばそれは,ピッカピカの小学一年生であるアキラ少年が学校帰りの道端に落ちていた10円硬貨を拾ったようなものだ。すなわち,10円硬貨の存在そのものが貴重なのではなく,アキラ少年自身にとって,より正確にはアキラ少年が存在するところの世界において,彼が有する価値観に照らして10円硬貨は貴重な存在なのだ(何だかとてもトクした気分!) しかしながら当然ながら,アキラ少年の価値観・世界観は普遍にあらずして特殊,それも極めて特殊なわけでして,そのトクした気分は所詮一少年の偏屈思想の反映でしかない。
ひるがえって,私ども分別あるオトナにとって,そもそもメダカという生物はどのように貴重なのだろうか。それを詳細に検討するには,この日本特産種たる硬骨魚綱ダツ目メダカ科に属する体長3cm前後の小型魚類,メダカOryzias latipesという生物の種としての存在理由,地史的・自然史的な発生ならびに進化過程,生物地理学的に見た位置付け,人々との関わりにおける歴史的推移とその本来の生息環境の社会経済的な変遷の意味,などなどに係る評価と検証が必要になってくるわけだが,そのようなヤヤコシイ話はこの場には相応しくないので端折ることにして,一般論としては,良好な自然環境が維持ないし保全されていることを示す脆弱な生き物,いわゆる「環境指標種」としての存在がせいぜいの所だろう。しかしながらここで指標種と貴重種とを安易に混同してはならない。一般に,環境指標種がしばしば有する貴重性はあくまで「普遍的なるもの」から導かれるべきであって,特殊的なもの,ないし特異的なものは決してインジケーターとはなりえない。至極当然の話である。そして,特殊の最たる事例である都内河川のごとき環境の場にあっては「メダカの貴重性」なるものは即座に否定されるべきであること,これまた当然の話である。
しかるに,そのような状況においても,件のメダカ確認地域において環境に対して深い関心を寄せる人々のなかには,「いやいや,それは違う。メダカの生息が確認されたということは,水質汚濁が以前に比べて多少なりとも改善されたことの証しではないか。あるいは,都市的自然というものが意外に多様性に富んでいることがいみじくも証明されたのではないか。そしてそのことはとりもなおさず,私達がこのような脆弱で可憐で貴重な生き物を,未来の子供たちのためにも,是非とも守ってゆくべきであることを示唆しているのではないか!」とか何とか,屁理屈をこねる輩も少なからず存在するに違いない。そして残念なことに,そのような彼ないし彼女らは決して一概に「環境派」の錦の御旗を高々と掲げている戦略的職業戦士ばかりではなくって,ごくマットウでアタリマエな,善良で正直な小市民が少なからず含まれている可能性が高かったりするのだ。さらに,ここが最も大事なところだが,当該地域に棲息するところのそのような善男善女の誰もが,ホンネのところでは「メダカは脆弱=メダカは貴重=メダカは貴重種」などという論法をハナから信じちゃいない,というわけだ。そんな屁理屈は単なるオタメゴカシに過ぎない。鉄柵越しに遙か彼方の汚れたドブ川の水面を眺めるその視線は,右であれ左であれ,ハトであれタカであれ,リゴリストであれオポチュニストであれ,おしなべて即物的かつ皮相的である。そのドブの流れの中に「メダカの学校」が成立する可能性を探ったり,ましてやその学校を改革しようなどという想像力を働かせるなんてことは,まず思いもよらない。
おっと,例によって話が少々こんがらがってきたゾ。一体何をグダグダ言いたいのかというと,結局のところ,いわゆる都会人たる彼ら彼女らにとってメダカは所詮「坑内カナリア」みたいなもんであって,それが「野生メダカ」であれ「ヒメダカ」であれ知ったことではない,ということなのだ。(ちなみに,ウチの近所のペットショップでは,1匹あたり野生メダカが100円,ヒメダカが50円くらいが相場なんだけれど)。いや,アーバン(都市)あるいはルーラル(田舎)たるを問わず,そもそも環境評価という観点から取り上げられる限りにおいて,メダカという存在は環境に対して,あるいは我々の日常世界に対して,何の価値も示さないし,何の影響も及ぼさないし,何の関係も結ばない。大多数の人々にとってメダカは生き物ではなく単なる類型化された記号として判読されているに過ぎないのだから。
それにしても,昨今巷間で環境が論じられるとき,何故このような不幸な関係がしばしば何の疑問も持たれずに成立しうるのだろうか? いつから私たちは自然とのアタリマエな付き合い方を喪失してしまったのだろうか? それは決して経済至上主義のなせる業などではないと思う。多分は「文化」のレベルの問題だと思う。科学は時として宗教の衣をかぶり,あるいは哲学の風貌を装うことは過去の歴史の示すところである。端的に申せばメッセンジャー&アジテーターとしての「環境派」の手抜きなんだけれどもネ。そのような次第で,ここしばらくはメダカ君の受難の日々が続くだろう。「メダカ・ビジネス」が一人歩きし続けるだろう。
最後に(何が最後に,だか)ビジネスの話が出たついでに,ワタクシはここでチョットだけ提案しておきたい。現在,日本全国津々浦々において観賞用のキンギョを飼っておられるであろう推定200万の世帯におかれては,このような時代情勢を鑑みて,ここらで思い切ってキンギョの代わりに絶滅危惧種であるメダカを飼うことにしてはどうだろうか? 別に高度なバランスト・アクアリウムを構築するには及ばない。小さなプラスチック水槽に河原の石ころやコカナダモなどを入れておくだけでも十分だ。そうして一日に一度は必ず水槽のなかを覗き込んで御覧なさい。キンギョのようにチャラチャラしたところはまったくない地味な魚だけれども,その表情や仕草,行動生態はなかなかに奥深いものがあります。金魚でもなく高価な熱帯魚でもなく,絶滅危惧種の汚名を着せられたちっぽけな小魚が我が家の一員であることの不可思議さ。メダカを巡る小宇宙をじかに観察することが,いずれは日々の秘かな楽しみとなることでありましょう。
さらに愚見を付け加えておくと,「キンギョからメダカへ」を実現させるための具体的な施策として,例えばお祭りなどの夜店の縁日でよく見られる「金魚すくい」,あれを今後は「メダカすくい」に代えていってはどうだろうか? これを機会に(何が機会に,だか),この貴重な絶滅危惧種を「生身のままで」もっともっと一般大衆に知らしめ,大いに広めていってはどうだろうか? 名づけて「メダカ普及推進委員会」あるいは「メダカ繁殖大作戦」。ダンドリを直接仕切るのはテキ屋の親方になるのだろうが,行政やNPOなどはそれを陰日向に後押ししてやっていただきたい。そうして,いずれは各家庭で飼育し繁殖させたメダカを再び身近な地域の川や池などに放流するのだ。それは,かの毛沢東の下放運動にも比肩しうる日本列島における壮大なるリインカネーションの始まりとなろう。そしてその日が来れば,メダカから「絶滅危惧種」などという不純な肩書きは自然と取り払われるだろう。さすればメダカ君たちも少しは報われようってものだ。(あー,くだらない)
世に存在する「絶滅危惧種」あるいは「貴重種」ないしは「稀少種」などと称される生き物に関して,ごく一般的なものをいくつか列挙してみると,動物ではニホンカワウソ,イリオモテヤマネコ,アマミノクロウサギ,カンムリワシ,シマフクロウ,ミヤコタナゴなど,植物ではマリモ,ムジナモ,タコノアシ,サクラソウ,フジバカマなどがすぐに思い浮かぶ。これらの生物は,新聞の社会面や文化欄,TVのネイチャー特番,さらには学校の教科書,副読本などで取り上げられる機会もしばしばあって,実物はさておきその名前だけは知らぬ人も少なくない,要するに「メジャーな貴重種」とでもいえる存在である。しかるにその一方で,カントウイドウズムシ,イソメマトイ,オンセンミズゴマツボ,アズママルクチコギセル,シノハラフサヤスデ,イシイムシ,スリカミメクラチビゴミムシといった,一般大衆にはほとんど認知されず,そして近い将来人知れず絶滅してゆくであろうことが確実な「マイナーな貴重種」の方が我々の周囲にはより数多く存在している,というのが悲しい現実なのであります。
現在私が係わっている仕事のなかで,川や湖に生息する淡水魚類に関する貴重種といえば,環境庁が一昨年発表した『汽水・淡水産魚類レッドリスト』(平成11年2月18日報道発表資料)によりオーソライズされた種(全76種)が第一に挙げられる。そのリストのなかでメダカが「絶滅危惧種」に指定されたことは,一時期,新聞・雑誌等のマスメディアをいろいろと賑わせ,郷愁と幻想,自然と文化,歴史と伝統,フィロソフィーとテクノロジー等々をゴチャマゼにした,何となく押しつけがましい啓蒙的話題を提供したことで記憶に新しい(そう,ほんの一時期だけではあったけれど)。参考までに記しておくと,上記資料では絶滅危惧種は次のようにランク分けされている。
◆絶滅危惧Ⅰa類
絶滅の危機に瀕している種で,ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い。
(ミヤコタナゴ,イタセンパラ,アユモドキ,など)
◆絶滅危惧Ⅰb類
Ⅰa類ほどではないが,近い将来における絶滅の危険性が高い。
(ホトケドジョウ,ネコギギ,など)
◆絶滅危惧Ⅱ類
絶滅の危険が増大している種
(スナヤツメ,メダカ,ムツゴロウ,ウツセミカジカ,など)
◆準絶滅危惧
現時点では絶滅危険度は小さいが,生息条件の変化によっては,「絶滅危惧」に移行する可能性のある種
(オショロコマ,タナゴ,オヤニラミ,など)
ところで,このような「絶滅危惧種」,「絶滅の恐れのある種」,「貴重種」という概念,さらに敷衍して「保護すべき大切な自然」,「未来に是非とも残したい地球遺産」といった観点からある特定の生物種に対して与えられる評価は,そもそもすぐれて政治的な意味合いの強い概念であり,時代の動向ないし世論の風潮に少なからず左右されること,今更言うまでもない。学術的ないし科学的知見に基づいてそれらに権威を付与する立場にあるべき学者諸先生のうちの若干名,というか決して少なからぬ方々は,その本心はさておき,例えばアサヒ・シンブンやクメ・ヒロシなどの意見に代表される自称「進歩的」プロパガンダによる一種邪悪なアジテーションに多かれ少なかれ引きずられているというのが実状ではなかろうか。
淡水魚類についていえば,メダカやムツゴロウなどが絶滅危惧種に指定されてしまうことなどはその典型だろう。いずれも,純粋に生物学的観点から見た場合の貴重種の範疇からはやや外れている。しかし何らかの形で取り上げないことには“世間”が許すまい(いや,実際は許すも許さないもないってもんだけど)。これを「政治的貴重種」と名付けよう。まぁ,しょせん科学は思想であり哲学であると同時に政治であり政策であらざるを得ない限りは,それもまた致し方ないことではあるのだが。もちろん,メダカ君やムツゴロウ君たちには何の罪もないんですがネ。
ひとつ,卑近な事例として私自身の経験を記しておこう。以前にも述べたことがあるが,昨年度の春季と秋季,東京都23区内のほとんどドブ川といえるようなコンクリート三面張り水路のあっちこっちで魚類調査を行った。その際,特に名を秘す某所&某所でメダカを各1個体採捕確認した。♪あら!こーんなところに貴重種が♪ という驚きとともに,正直申してたちまちユーウツな気分になってしまった。都内の住宅密集地を流れる水質汚濁の極めて著しい,かつ水辺環境もすこぶる単純で貧相な小河川で,絶滅に瀕した貴重種とされているメダカの生息を確認したですって!? そりゃまぁ,掃き溜めに鶴には違いないとしても,そのことが一体何の意味を持つのだろう? (別に鬼の首を取ったわけでもあるまいに) そうさな,例えていえばそれは,ピッカピカの小学一年生であるアキラ少年が学校帰りの道端に落ちていた10円硬貨を拾ったようなものだ。すなわち,10円硬貨の存在そのものが貴重なのではなく,アキラ少年自身にとって,より正確にはアキラ少年が存在するところの世界において,彼が有する価値観に照らして10円硬貨は貴重な存在なのだ(何だかとてもトクした気分!) しかしながら当然ながら,アキラ少年の価値観・世界観は普遍にあらずして特殊,それも極めて特殊なわけでして,そのトクした気分は所詮一少年の偏屈思想の反映でしかない。
ひるがえって,私ども分別あるオトナにとって,そもそもメダカという生物はどのように貴重なのだろうか。それを詳細に検討するには,この日本特産種たる硬骨魚綱ダツ目メダカ科に属する体長3cm前後の小型魚類,メダカOryzias latipesという生物の種としての存在理由,地史的・自然史的な発生ならびに進化過程,生物地理学的に見た位置付け,人々との関わりにおける歴史的推移とその本来の生息環境の社会経済的な変遷の意味,などなどに係る評価と検証が必要になってくるわけだが,そのようなヤヤコシイ話はこの場には相応しくないので端折ることにして,一般論としては,良好な自然環境が維持ないし保全されていることを示す脆弱な生き物,いわゆる「環境指標種」としての存在がせいぜいの所だろう。しかしながらここで指標種と貴重種とを安易に混同してはならない。一般に,環境指標種がしばしば有する貴重性はあくまで「普遍的なるもの」から導かれるべきであって,特殊的なもの,ないし特異的なものは決してインジケーターとはなりえない。至極当然の話である。そして,特殊の最たる事例である都内河川のごとき環境の場にあっては「メダカの貴重性」なるものは即座に否定されるべきであること,これまた当然の話である。
しかるに,そのような状況においても,件のメダカ確認地域において環境に対して深い関心を寄せる人々のなかには,「いやいや,それは違う。メダカの生息が確認されたということは,水質汚濁が以前に比べて多少なりとも改善されたことの証しではないか。あるいは,都市的自然というものが意外に多様性に富んでいることがいみじくも証明されたのではないか。そしてそのことはとりもなおさず,私達がこのような脆弱で可憐で貴重な生き物を,未来の子供たちのためにも,是非とも守ってゆくべきであることを示唆しているのではないか!」とか何とか,屁理屈をこねる輩も少なからず存在するに違いない。そして残念なことに,そのような彼ないし彼女らは決して一概に「環境派」の錦の御旗を高々と掲げている戦略的職業戦士ばかりではなくって,ごくマットウでアタリマエな,善良で正直な小市民が少なからず含まれている可能性が高かったりするのだ。さらに,ここが最も大事なところだが,当該地域に棲息するところのそのような善男善女の誰もが,ホンネのところでは「メダカは脆弱=メダカは貴重=メダカは貴重種」などという論法をハナから信じちゃいない,というわけだ。そんな屁理屈は単なるオタメゴカシに過ぎない。鉄柵越しに遙か彼方の汚れたドブ川の水面を眺めるその視線は,右であれ左であれ,ハトであれタカであれ,リゴリストであれオポチュニストであれ,おしなべて即物的かつ皮相的である。そのドブの流れの中に「メダカの学校」が成立する可能性を探ったり,ましてやその学校を改革しようなどという想像力を働かせるなんてことは,まず思いもよらない。
おっと,例によって話が少々こんがらがってきたゾ。一体何をグダグダ言いたいのかというと,結局のところ,いわゆる都会人たる彼ら彼女らにとってメダカは所詮「坑内カナリア」みたいなもんであって,それが「野生メダカ」であれ「ヒメダカ」であれ知ったことではない,ということなのだ。(ちなみに,ウチの近所のペットショップでは,1匹あたり野生メダカが100円,ヒメダカが50円くらいが相場なんだけれど)。いや,アーバン(都市)あるいはルーラル(田舎)たるを問わず,そもそも環境評価という観点から取り上げられる限りにおいて,メダカという存在は環境に対して,あるいは我々の日常世界に対して,何の価値も示さないし,何の影響も及ぼさないし,何の関係も結ばない。大多数の人々にとってメダカは生き物ではなく単なる類型化された記号として判読されているに過ぎないのだから。
それにしても,昨今巷間で環境が論じられるとき,何故このような不幸な関係がしばしば何の疑問も持たれずに成立しうるのだろうか? いつから私たちは自然とのアタリマエな付き合い方を喪失してしまったのだろうか? それは決して経済至上主義のなせる業などではないと思う。多分は「文化」のレベルの問題だと思う。科学は時として宗教の衣をかぶり,あるいは哲学の風貌を装うことは過去の歴史の示すところである。端的に申せばメッセンジャー&アジテーターとしての「環境派」の手抜きなんだけれどもネ。そのような次第で,ここしばらくはメダカ君の受難の日々が続くだろう。「メダカ・ビジネス」が一人歩きし続けるだろう。
最後に(何が最後に,だか)ビジネスの話が出たついでに,ワタクシはここでチョットだけ提案しておきたい。現在,日本全国津々浦々において観賞用のキンギョを飼っておられるであろう推定200万の世帯におかれては,このような時代情勢を鑑みて,ここらで思い切ってキンギョの代わりに絶滅危惧種であるメダカを飼うことにしてはどうだろうか? 別に高度なバランスト・アクアリウムを構築するには及ばない。小さなプラスチック水槽に河原の石ころやコカナダモなどを入れておくだけでも十分だ。そうして一日に一度は必ず水槽のなかを覗き込んで御覧なさい。キンギョのようにチャラチャラしたところはまったくない地味な魚だけれども,その表情や仕草,行動生態はなかなかに奥深いものがあります。金魚でもなく高価な熱帯魚でもなく,絶滅危惧種の汚名を着せられたちっぽけな小魚が我が家の一員であることの不可思議さ。メダカを巡る小宇宙をじかに観察することが,いずれは日々の秘かな楽しみとなることでありましょう。
さらに愚見を付け加えておくと,「キンギョからメダカへ」を実現させるための具体的な施策として,例えばお祭りなどの夜店の縁日でよく見られる「金魚すくい」,あれを今後は「メダカすくい」に代えていってはどうだろうか? これを機会に(何が機会に,だか),この貴重な絶滅危惧種を「生身のままで」もっともっと一般大衆に知らしめ,大いに広めていってはどうだろうか? 名づけて「メダカ普及推進委員会」あるいは「メダカ繁殖大作戦」。ダンドリを直接仕切るのはテキ屋の親方になるのだろうが,行政やNPOなどはそれを陰日向に後押ししてやっていただきたい。そうして,いずれは各家庭で飼育し繁殖させたメダカを再び身近な地域の川や池などに放流するのだ。それは,かの毛沢東の下放運動にも比肩しうる日本列島における壮大なるリインカネーションの始まりとなろう。そしてその日が来れば,メダカから「絶滅危惧種」などという不純な肩書きは自然と取り払われるだろう。さすればメダカ君たちも少しは報われようってものだ。(あー,くだらない)