性懲りもなくまた都市河川のこと,あるいはクサイモノニフタ?(幕間狂言)

2000年07月05日 | 川について
 最近,東京都杉並区内の河川生物調査の仕事を引き受けた。対象河川は神田川,善福寺川,妙正寺川など,いずれも住宅密集地区を流れる典型的な中小都市河川である。ひとこと註釈を加えておくと,この地域においては「川」というものはほぼ例外なく,人々の日々暮らす「街」とは全く相容れぬ存在,いわば「異物」として扱われており,鉄格子のフェンスにより道路と河道とは厳然と区画され,水際部は高さ7~8mもあろうかというコンクリート製の垂直護岸,流水部は三面張りの水路が大部分で,通常時の流量は極めて少なく,淀んだ流れにはニシキゴイの群れが時に背中を水面に浮かせながらノッタリノッタリ泳ぐ,といった大都会では毎度お馴染みの,決して心地よいとはいえぬ光景が展開される。そんなところで生物採集をするなんてぇことは,有り体に申して「ドブさらい」のごとき作業なのではございますが,明日をも知れぬ零細自営業者にとっては基本的にお仕事とあらば来る者は拒まず,何でもやりますやります,のスタンスで対応している(いや,それなりに楽しみだってあるにはあるけれど)。

 梅雨時の晴れ間をぬいながら,3日間ほど杉並区内のあちこちを縦横に駆け巡った。実は,この地を訪れるのは,過去に何度か電車ないし自動車でサーッと通り過ぎたのを別にすれば,生まれて初めてのことである。ただし第一印象としてはおおむね事前に想像していた通りの土地柄ではあった。「杉並文化人」あるいは「中央線沿線文化人」などという空疎なレッテルに代表されるのかな。同じく東京の西部地域(第二の山の手)でも,目黒区とも世田谷区ともちょっと違うし,もちろん練馬区方面などとは大分違う。少し前,確か『クロワッサン』だかの雑誌で,タレントの森本レオが緑豊かな善福寺川公園沿いを自転車でノンビリと気持ち良さげに走っている写真を見たことがあるが,一言で申せば,そんな雰囲気にピッタリの人々が住まう土地柄のように見受けられた。やや唐突な例えになるが,クルマで言えばBMWの3シリーズがゆっくりと通り過ぎてゆくようなイメージ(ベンツでもなくクラウンでもなく,ましてやワンボックスワゴンなどではなく)。何でもレオ氏はその界隈の住民だという。乗ってる自転車もBMWなんじゃなかろうか(知らないけど)。チューサン階級(死語)にとって居心地のいい場所,ゆとりある暮らしを育む,そこそこ成熟した街,とでも取り敢えずは勝手に定義づけておきましょう(そう,取り敢えずはネ)。

 それぞれの川に沿って,落ち着いた雰囲気の大小の公園が回廊状にいくつか作られており,川の両岸に設けられた遊歩道にはジジ・ババの散歩姿がやたらと目に付く。彼ら彼女らの風貌はおしなべて,物静かな,こざっぱりした,淡泊な,などと形容されるに相応しい。いや,ジジ・ババのみならず,平日の昼間だというのに20代~30代の比較的若い男女のウォーカー,ジョガー,サイクラーなどの姿も少なくない。いずれも学生というには少々トウが立ち過ぎており,何というか「ジジ・ババ予備軍」といった風情をそこはかとなく漂わせている。恐らくレオ氏のような文化人か文化人モドキか,あるいはカタカナ商売人種が多いのであろう。

 それら川沿い通行人たちは,川の中でドブさらいに従事している私共の姿に気づくと,一寸立ち止まって遙か7~8m上方からフェンス越しに見下ろし,川底労働者たちの様子を奇異の目で眺める。まるで河床に散乱・堆積したゴミの山に舞い降りたカラスが何やら正体不明の獲物を漁っているのをいぶかしげに眺めるがごとくに。ただし,大部分の人々は一瞥したのちすぐに無関心へと戻り,そそくさとその場を立ち去ってゆく。多分は記憶の隅にも残りはしないであろう。

 なかには好奇心を抑えかねてか,あるいは単にヒマにまかせてか,我々に向かって優しい声を掛けて下さる奇特な御老人などもいないわけではない。 何をやっているの? 水質検査をしているの? 魚? 何が捕れるの? コイとドジョウくらいしかいないんじゃないの? キタナイところで御苦労さんですねー。等々。いずれも素直な疑問から発した善意の質問であることから,当方としても作業の手をしばし休めて誠実に返答せざるを得ない。もっとも,そのような彼らにしてからが,その場を離れたとたん川の中での出来事なんて即座に忘れてしまうに違いあるまい。

 以上のような束の間限りのエピソードから類推するに,彼ら「杉並人」にあっては,総じて川というものが単なるうっとうしいドブないし排水路としてしか認識されていないことが明白である。せいいっぱい好意的に解釈しても,都市景観にいくばくかのアクセントをもたらす「身近にある遠景」といった存在。さよう,あくまで「遠景」でしかないのであって,風呂屋のペンキ絵のような記号的存在に過ぎないのではなかろうか。いや別に彼らを責めているわけではないけれど。

 確かに,この地において中小河川という存在は,古くその由来を辿れば,武蔵野台地の乾性土壌を潤す貴重な水系として地域の暮らしに欠くことの出来ぬ「命の泉」であったのだろう。また,時代を下って1960年代の高度経済成長初期の頃においては,都市化の急速な進展,宅地開発のスプロール化現象に呼応した行政当局による土地利用基本計画の立案に際し,公園・緑地整備に係る課題として,健康で文化的な都市空間の確保,風致区域の積極的保全,さらには水と緑のネットワーク形成といった観点から,川というものは極めて重要な意味を持っていたものと想像される。つまり,川に引きずられて現在の拠点的公園体制が成立したという面は否定できない。しかしその後,河畔公園を中心とする水と緑のネットワーク作りという考えが徐々に地域に根付いてゆき,加えて都市公園そのものも時を経るにつれて成熟を重ねてきた結果,今では「川」自体ははっきり言って不要なモノとなってしまったのだ。現在,地域住民の大部分は「川」そのものを愛しているのではなく,川を拠り所として作り出されたところの快適な都市空間,より正確には「河畔公園」そのものを愛しているに過ぎない。反語的に言えば「川のない河畔公園」で十分なわけだ。

 “水の流れは人の心を和らげる”などというセリフは,しょせん紋切り型の固定観念である。実際,「水の流れ」などという漠然としたイメージが人の心を落ち着かせ,安らかにしてくれるわけでは決してない。当たり前の話だ。「水」といってもそれこそ千差万別,時と場所に応じて様々な位相を呈するわけで,そのような多様性に富んだ「水」のなかから人々はそれぞれの嗜好に応じてあるものを受け入れまたあるものを拒絶したりしているわけで。さらに言えば,万人の最大公約数として求められるのは結局のところ「気持ちのよい水」なのであります。ここで「気持ちのよい水」とは,BODが2ppm以下だとか,浮遊物質量が25ppm以下だとか,大腸菌群数が1,000MPN/100ml以下だとか(以上,水質環境基準A類型),そんな理化学的環境要素に係ることではなく,もっと感覚的な情緒的な心理的な,例えば人々が積極的に係わりを持ちたいと感じる水,直接手を触れ足を浸したいと思わせる水,さらにはその水と一体化したいという思いすら懐かせる水,そんな水のことではなかろうか。極論すれば,流しソーメンの水だって「気持ちのよい水」になるわけだ。

 考えてもみるがいい。ほんの少しばかり昔には都市化地域の住宅密集地において路地裏の道端などにごく普通に存在していた小さなドブ。薄汚れた水がチョロチョロと流れ,ヘドロが堆積し,近づけば鼻を付く異臭を放ち,夏には周囲に大量の蚊やユスリカを発生させる,正にやっかいものとしてのドブ。そのようなドブの流れを見て,嬉しくなったり気分が良くなったりする人がはたしてどれだけいるだろうか。ドブ関係の商売人か,あるいは単なる変人か,それくらいではないかな?(恥かしながらワタクシも彼らの共犯者であるが)

 都市における水循環ネットワークの欠くべからざる構成要員ともいえるそのようなドブの存在は,経済発展途上の時代にあっては急速な都市化に伴う暫定的な「必要悪」くらいにしか思われていなかったのかも知れない。その後の経済の安定化は都市住民における社会意識の変革をもたらし,より快適な暮らしを望むために生活密着型の社会基盤整備が積極的に求められ,身近に存在する劣悪な生活環境要因は徐々に改善されていった。そして現在,一見したところ表通りのみならず路地裏の隅々までもがかなりキレイになった。もちろん,そういったドブが無くなったわけではなく,都市下水道整備事業の拡充に伴い地中深くに埋設され,単に人目に付かなくなっていっただけだ。下水道の導管の中に実際入ったことのある人でないとわかるまいが,ドブはいつだってドブ,どう形を変えてもドブ,どこまで行ってもドブ,なのであります。ここで,あえて名指しをするようで恐縮であるが,現在の神田川も善福寺川も妙正寺川も,少なくとも河道部分に関してはいずれも巨大なドブである。流域住民が目を背けて当然の存在である。しかして,それが人々の日常生活圏において少なからぬ空間を占有している都市河川のごくアタリマエの姿であると認識されているところに,この問題の根の深さがある。

 また一方で,中小都市河川というものは,台風や梅雨時の集中豪雨などの際にはごく短時間で驚くほど多量の水を集めてそれらを一気に下流へと吐き出し,それはもう恐ろしいほどに荒れ狂った「暴れ川」の相貌を示す。私自身,昭和57年9月に起きた東京都内の集中豪雨(熱界雷)による目黒川の氾濫を目の当たりにするという,ある意味で貴重な経験をしている。当時勤務していた会社の事務所が幸か不幸か東急東横線中目黒駅付近の目黒川沿いにあった。当日は,降雨に伴う目黒川の増水状況を比較的冷静に逐一観察していたのだが,通常は水深数10cmの申し訳程度のチョロチョロした流れが雨が激しくなるとともにみるみる増水してゆき,やがて轟音とどろかす濁流へと変貌していった。その過程は,目黒川の流域一帯に降った大量の雨水が,まるで全ての道がローマを目指すかのごとく一気呵成に川へ川へと集約されてゆく様をまざまざと見せつけられる思いであり,「集水域」というコトバの本来の意味が改めて現実味を帯びて感じられた。そして,警戒水位を超えた後に川沿いの道路に多量の河水が溢れ出すのはあっという間の出来事であった。両岸の道路は本来の川の流れと一体化し,人々は腰までその濁流に浸かりながら貴重品を頭上に抱えて右往左往し,コップや洗面器,衣類やノートなどの雑多な生活用品がプカプカと道路を流されてゆくといった非日常的な光景が展開されるなか,我がオンボロ事務所は床上浸水(+25cm)の被害を受けた。その数時間後には水はたちまち引いてしまっただけに,何だったんだ今のは!と,まるで悪い夢でも見ているようであった。

 現在の都市河川を「治水」という側面から見る限り,人為的な流水制御が極めて困難であるという基本的特性はその最も重要かつ深刻な宿命である。それゆえ,水循環システムのなかでは,中小都市河川というものは人工放水路と同義とみなされて然るべき存在である。それを,あわよくば自然河川に少しでも近似したものに,すなわち「近自然的な」環境に復元しようなんてぇことは,そもそも倒錯した発想との誹りを受けて当然だ。ドブはドブとして,まずは素直に認めてやらねばならない。それは地域住民の「幸せ」と引き替えに本来雨水を涵養すべき大地を放棄した結果のタマモノ,いわば納得づくの上での「故郷喪失」なのであるからして。

 しかしながら一方で,莫大な費用をかけて次々に建設される地下放水路や人工調節池などは,社会経済的にはその対価に十分見合うだけの先行投資と結論づけられているのだろうけれども,一面ではいかにもモッタイナイ「掛け捨て保険」との思いを懐かざるを得ない。このような二律背反をどうするか。都市河川という河況係数(最大流量と最小流量との比)の極めて大きい不安定な空間を,この際「閉鎖系」と割り切ってしまうのか,あるいはそれでもなお「開放系」として捉えるべきなのか,その判断は「都市」というものに対する個々人の理念ないし基本的な考え,ひいては地域住民によって構築される「都市の論理」が係わってくるだけに,改まって理想的な将来像を描こうなんてぇことは極めてムズカシイ。しかし,行政はそのような困難に決して無頓着であってはならないはずだ。

 おや,何やら論議がこんがらがってきたぞ。例によってヨッパライの与太話になってきたぞ。このままの流れで話が進んでゆくと私ごときの出る幕ではなくなりそうなので,少し結論を急ごう。

 杉並区に話を戻すと,別に「川」そのものに拠り所を求めなくても,区内の各所には小綺麗な公園があり,図書館や公民館,音楽ホールなどの文化施設があり,生活を豊かにし潤いをもたらす都市空間,都市施設は数多く存在する。それに対して,先にも述べたように実質的に排水路と化した現在の都市河川は,淀んだ流れ,ゴミの散乱,臭気の拡散,不快害虫の発生など,人々の五感にマイナスの作用だけをもたらす存在でしかなくなっており,さらに時と場合によっては集中豪雨による河川氾濫の危機(=生命財産の危機)を及ぼす可能性をすら内包している。まさに「川」はヤッカイモノである,との現状が確認された次第だ。

 だったらどうすればよいか? 現時点での住民の選択は「取り敢えず」行政に対策を委ね,自分らは「取り敢えず」目を背けることに徹しているようだ。邪推すれば,本当は即座にクサイモノニフタ,と行きたい所なのかも知れないが,それを実行するにはお金もかかるだろうし,また政治的な手続きもメンドウだろうし。だったら見て見ぬふりに如くはないではないか。要するに,対象物にフタをする代わりに,己が眼にフタをしている。でも本当に,ソレデイイノカナ? ノダトモスケ・ジーサンではないが,川ハ誰ノモノカイナ?

 さてさて,ワタクシは一体ここで何が言いたいのだろうか。実のところ,外野席の隅っこから眺める気紛れな観客のひとりとして,彼ら地元選手の怠慢プレーというか優柔不断さが少々モドカシイのであります。

 私見によれば「答え」はすこぶるカンタンだ。すなわち,中小都市河川を子供の遊び場として解放せよ!ということに尽きる。いや決して突飛な発想ではないと思う。なおその場合,クサイモノニフタをしてその上を公園化するという行き方と,川の中そのものを公園化するという行き方とが選択肢として考えられようが,当然私は後者を支持する。具体的なダンドリとしては,地域住民主導のもとに,特に遊び盛りの子供を持つ親たちが積極的に行政側に働きかけることにより,都市河川を「子供の領分」とすることを都市政策の一環として認めさせ実現させてゆく,そんな展開が考えられる。オトナたちと川との関係については取り敢えず無視し,先送りにしてよい。それでなくとも彼らは今の今まで先送りに先送りにしてきたのだから。当面はあくまで地域の将来をになう子供らの,子供らのための遊び場として,さらに臆面もなく言わせてもらえれば,子供らにとっての生きた社会教育教材として,街中の科学実験場として川を解放するのだ。

 環境創出(Environment Creature)の面からも,地域分散(Habitat Localization)の面からも,安全生活(Safety Life)の面からも,それは十分に魅力的かつ持続的に利用可能な都市空間となるだろう(ん?何だそりゃ?) だいたい,中小都市河川の平常時の水深なんぞ,せいぜい子供のヒザからフトモモくらいまでしかないのだから(なお,ここで平常時とは水理学用語でいう「低水流量」すなわち1年のうち275日がその流量を越えない状態であることを指す)。都市化の進展と下水道の普及率向上との相乗作用の結果,治水において高度に人為制御に頼らざるを得なくなってしまった都市河川の流況特性を逆手に取るわけだ。そもそも,川の中はクルマが1台も通らない! 実に子供らの天下ではないか。

 恐らく今のままでも,「巨大なドブ川」は子供たちにとってとても不思議な,魅力的な存在だと思う。そこに様々な意匠を凝らし手を加えることによって,「ゼルダの伝説」のダンジョン内部のような「スーパードンキーコング」の洞窟トロッココースのような心躍らす迷宮,あるいは胎内巡りのごとき場所へと変貌をとげるといった,さらなる可能性を現在のドブ川は秘めているのだ。具体的には河道内の構造と形式,付属物の配置,支川・支管の接続状態等をあらためて見直し,全体的な統一性を考慮に入れて設計・製作し直すこと。旧来の河川工学上の陋習や伝統的な技術作法は,近自然河川工法なる迷妄を含めて,ここにおいては潔く捨て去るべきである(現在見られるザリガニの巣窟たる「魚巣ブロック壁」やホテイアオイのための「水中花壇」なんぞは,真っ先に取っ払いたいもんだ)。全体設計に当たってのノウハウは,そうさな,東京ディズニーランドあたりから学べばよろしい。

 一方,生物学的自然という視点からのアプローチも付加するに如くはない。ドブ川にふさわしい生物学的自然とは何か? 例えば善福寺川などは,現況ではまさにアメリカザリガニの宝庫であり,私共の先の調査でもアメリカザリガニProcambarus clarkiiの生息密度は場所によっては8~10個体/m2に達するところさえあった(もっとも,ミズムシAsellus hilgendorfiiの生息密度は500個体/m2,ユスリカChironominae gen.sp.に至っては5,000個体/m2にも及んでおりますけどね)。このような魅力的な資産をみすみすムダにしておくという手はない(スルメを餌にザリガニ釣りもよし,網で直接すくうもよし)。さらに,ブラックバスやブルーギルの放流なども候補対象に挙げたらどうかな。ドブ川でブラックバス釣り。お子様限定。陸上からはオトナたちが羨まし気に眺めている,なんてね。いやむしろ積極的に,霞ヶ浦とか北浦とか近在各地の水域でヤッカイモノになっているブラックバスをドンドン捕獲して都市河川へとドンドン移殖すればいい。都市生態系の再構築,などという御為ごかしは申しません。ファンタジー・アイランド,トレジャー・リバーの新たなる建設だ。なんだかワクワクするようなストーリーだなぁ。こんなことを言うと多分,潔癖性外来魚否定論者(イワナ氏など)や妄信的外来魚崇拝者(イトイ氏など)は,内心ではそれぞれに別の思惑を持ちながら,しかして外見上は同じような顔して眉をしかめ歯ぎしりするかも知れぬが,お生憎さま! ある約束された土地に集う生きとし生ける者たちの未来は,他でもないその土地の住人自身の手に委ねられるのが本来の筋である。一蓮托生,それが民主主義の基本ってものだ。

 本計画における唯一のネックは「ドブ臭」への対応くらいのものではないかな。それとて,技術的あるいは方法論的には克服可能であろうとワタクシは睨んでいる(業務秘密につき詳細は略す)。そもそも,ディーゼル車等による排気ガスで充満した幹線道路沿いの土地で四六時中生活することなどに比べたら,一日のほんのわずかな時間ドブ臭にさらされながら遊ぶことによる健康面に対する影響なぞ知れたもの,むしろよっぽどマシと言えるのではないかな。

 もう一つの想定される問題として,もしウチの子供が川の中で遊んでいて事故が起きたら,いったい誰が責任をとるのか!? などというバカ親もなかには出てくることが考えられよう。そりゃあ決まってる,責任はバカ親たるアナタ自身がとるのだ。すなわち,この「巨大ドブ川」という都市空間の改造計画は,ここ数10年の間に都市河川をこんな風にまで変貌させてしまったアナタやワタシ,不甲斐ないオトナたちがコドモたちに託す遅ればせながらのプレゼント,未来への遺産,その輝かしき素材集なのだ。偏狭なナショナリストにあらずして寛容なリージョナリストたる資質を十分に備えたアナタやワタシの,自分たちの「川」に対するそれがせめてもの罪滅ぼしではなかろうかと思いますゆえ。

 そんなわけで結局のところ毎度毎度の与太話になってしまった。幕間狂言たる所以である。けれど性懲りもなく,今後もこの種の話題はさらに続く(ような気がする)。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 最近はいつも寝てばかり | トップ | 兄弟の性格が似てきた,って? »
最新の画像もっと見る

川について」カテゴリの最新記事