風邪に効くクスリ,それは何?

2011年06月02日 | 歌っているのは?
 久し振りに風邪を引いた。昨年の6月以来,ほぼ一年ぶりのことだ。去年の梅雨入りは6月14日と例年に比べてかなり遅かったが,その前日から風邪を引き始めたと忘備録にある。それに対して今年の梅雨入りは5月27日と,去年とは逆に例年よりもかなり早い時期だったが,その翌日から風邪気味になった。梅雨入りと風邪引き,どこか関係あるのか知らん。

 もっとも私の場合,別に毎日の勤めに出掛けなきゃならないわけじゃなし,ルーチンの仕事を抱え込んでいるわけでもなし,風邪を引いたら家の中でオトナシク引き籠もって暫くじっとしておれば済むことなのだけれども,それでもやはり,身体中から気力・活力が漏れ出たようなフヌケ状態のままで日中の時間を過ごすのは少々辛いし,さらに加えて,自転車に乗って屋外を走り回れなくなってしまうことはもっとツライ。

 昨日の午後,体温が38度を超えて頭重感も少々強くなりだしたものだから,意を決して家から徒歩10分ほどのところにある内科医院に行くことにした。無理して自転車に乗ることはせず,ゆっくり歩いてノロノロと出掛けた。幸いにして雨は降っていなかったが,梅雨時特有の湿気を孕んだ重い空気が病んだ身体にまとわりつくように鬱陶しく,それが一層足取りを鈍らせる。何とか医院までたどり着くと,その玄関前には無常にも非情にも「本日休院」の札が掛けられているではないか! 改めて持参した診察券を見れば,その裏面には水曜日の午後は3時~6時が診療時間とシッカリ記されている。どうやら比較的最近になって?休診日が変わったようなのだ。ヲイヲイ,聞いてないよ~。仕方なく踵を返し,再びノロノロと歩いて家に戻った次第である。ただ本音を申せば,出来ることなら風邪ごときで安易に医者に頼りたくないものだと常々思ってはいたので,医院が閉まっていたことは自分的には結果オーライだったのかも知れない。だったら最初から行くな!と言われそうだが,それはそれ,風邪をして我が真っ当な判断力を鈍らせしむるが故の迷走なのでありました。

 家に帰って一息ついて,それから書架の「健康関連本コーナー」から『風邪はひかぬにこしたことはない』なんて題の本を取り出し,取りあえず布団に横になってパラパラと読みはじめる。いつだったか,貧民の友《ブック・オフ》の100円本コーナーで購入した本で,買ったはいいが読みもせずに積ん読状態のまま放置してあったものである。ここにきてやっと出番が巡って来たというわけだ。ふむふむ。プチ教養人たるリンボウ先生におかれては風邪もまた飯の種という訳であろうか,ソレナリニ興味深く読ませていただくけれども,やはりここは氏素性の違いだろう,実際面において参考となる部分がさほど多からぬところは些か残念である。

 寝ながらの読書にも飽き疲れてしまうと,こんどは音楽を聴いてみたりする。iPod touchに保存されている音楽をイヤホンを介して寝ッ転がりながら聞くのであって,風邪引き病人とは申せ,まことに怠惰な生活であります。さてと,何にしようかな。。。 ここでは加藤登紀子の歌を選択した。《さくらんぼの実る頃》という題のCDアルバムで,これもまたしばらく前に我らが貧民の友ブック・オフにて125円也で買い求めたものだ(売価250円のところを半額セールの時に購入した。おお,何て安いんだろう!) 現在ではなぜか廃盤になっているらしいが,これは大変に良いアルバムだと思う。例えば皆が寝静まった夜更けの時間などに,遥か遠くに過ぎ去った日々のさまざまな出来事をとりとめもなく思い浮かべながらボンヤリと聴いていると,不意に身につまされるようにグッとくる,そんな楽曲が多々ちりばめられている。いわば《癒し系・追想歌》といったジャンルになるだろうか。でも,いまは半病人が束の間の慰めとして聴く。刹那を生きるための糧として聴こうとしているわけであります。

 iPodの画面をタップすると,やがてビロードのような艶のあるアルトの歌声がゆったりと語りかけるように流れてくる。ああ,のっけからイイ気持ちだなぁ。


  家出の朝 とまどいの駅 冷たい沈黙
  言い訳のウソ 気になる夜 強がりの手紙

  決まらない今日 終わらない昨日 逃げていく明日...

  誰のものでもない 二度と来ない季節
  待ちこがれた愛 抱きしめた人

  Très beau d'avoir vingt-ans!
  Très beau d'avoir vingt-ans!



 二十歳であることの,嗚呼,実に美しき哉! なんて,そんな風に直截に歌われたら,心ならずも図らずも,ハシタナクもミットモナクも,おろおろと泣かずにはおられないデハナイカ! ったく,何てチカラの籠もった歌い方だ。アナタは巫女か!

 ジャン=バティスト・クレマンの古き良き時代はさておいて,かつて戦後'50~'60年代の貧しく苦しくセワシナク,されど明るく陽気で活力に溢れた時代をただひたすらに懸命に生きてきた人々が身をもって感じていたであろうさまざまな思いを代弁するかのように,彼女は強く凛々しく優しく,そう,あくまで強く優しい心をもって日常のさまざまなシーンを歌い上げる。その声は決して押しつけがましいところはなく,坦々と昔話を語る姥女のように,穏やかに神話を紡ぐ語り部のように,ごく自然のままに歌われてゆく。共感sympathieというものが幾多の体験的記録の微分により導かれるものであるとすれば,共鳴résonanceとは幾多の精神的記憶に基づく積分の結果である,なんてぇワケノワカランことを口走ったりしても,ここはひとつ,半病人のタワゴトとして聞き流していただきたく存じます。いや,別に世代論を持ち出そうとしているのではない。単なる流行歌のありようについて一寸感想を述べたまでである。歌というものが人に与える効能,人を動かす力,そして人を導く叡智について指摘しておきたいのである。そう,私にとって彼女の歌はまさにクスリなのだ。無名者たちへの応援歌。幾多の喜びと苦しみを抱えながらも何とかかんとか生きている人々に対する真心のこもった後方支援。西洋医学は言うに及ばず,林望先生も漢方薬もかなわない,今の私にとってこれは最良のクスリなのではあるまいか。


  ゆれていた時代の熱い風に吹かれて
  身体中で時を感じた  そうだね...

  嵐のように毎日が燃えていた
  息が切れるまで走った  そうだね...



 加藤登紀子と,それから中島みゆき,この二人がいる限りこの国の歌謡はまだ何とかダイジョーブだ,なんてことを最近ときどき思う。AKB48とかに代表される若年層のマスゲーム的お遊戯歌謡はまったくの論外としても,昨今の日本の歌謡界ならびに流行歌のトレンドにおいて私が心惹かれる歌い手はまことに少ない。とくに男の歌手については実に淋しい限りで,小田和正だとか山下達郎だとか,谷村新司だとかサダマサシだとか,あるいは森進一だとか五木ひろしだとか,そういった私とほぼ同世代の,いちおうは未だ現役であろうと思われるベテラン歌手たちの唄いぶりは,いずれも現在の私からすれば単なる対岸の火事,彼岸の積み石のごとき存在に過ぎない。要は,彼らの活動するマーケット・エリア,彼らが狙うターゲット・クラスが私の立ち位置から遠く外れているわけで,つくづく自分がハブケ者であることを自覚したりする次第であります。

 そんなわけで,風邪引き半病人のタワケゴトはこれくらいにして,もうしばらくは加藤登紀子を聴いていよう(今のコンディションでは中島みゆきはチョット聴かない方がいいと思うので。。。)

 ああ,風邪が治ったら,体調が回復したら,また思いっきり自転車で走り回りたい。梅雨時だろうが,雨降りだろうが,とにかく自転車でそこらの野山を走り回りたい。鼻歌でも歌いながら走りたい。息が切れるまで走りたい! (ただし,死なない程度に。。。)
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