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歌っているのは,誰か?

1997年09月12日 | 歌っているのは?
 街に歌が流れていた。耳の奥底に染付いて離れないメロディー。無意識に口ずさんでいるルフラン。それは心愉快なときの鼻歌だったり,辛く侘しいときの嘆き歌だったり,少々落ち込んだときの元気歌だったり,いろいろだけれども,いつも歌が一緒にあった。いや別に五木寛之センセイの二番煎じではございませんが,兎も角そういうものを,そのまぁひとつ,書いてみたくなったのです。( しかし,毎年の納税額が1億円かそこらで,丸目のベンツをサッソウと乗り回している輩なんてねぇ,連帯しろったって.... )

 最近,夜寝る前にセルジュ・レジアニ Serge Reggianiを聴きながらボンヤリとした時間を過ごすことが多い。特に好んでいるのはジャン・ルー・ダバディの詞にジャック・ダタンが節づけした歌のいくつか。例えば《少年》や《イタリア人》 ヲイヲイ何というセンチメンタル! 中年男の悲哀かよ! それにしても何だろうこの気分は。昼と夜との大きなギャップ。そして性懲りもなく,ほぼ10年周期でわたくしに訪れる歌へのコダワリが,多分ここしばらくは続くであろうと予感する。その前振りとして,約10年前に記した覚書をひとつだけ,以下に示しておきましょうか (ちょっと長いゾ)。


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 ◆ ある案内状をめぐる断章 ◆
 
 
 ここに一枚のパンフレットがある。A5版,単色刷りの比較的あっさりした作りで,上端にやや大きめの白抜きゴシック体の字でこう記されている。

 
    アンフィニ・草月フィルムコンサート
    ジャック・ブレル“アデューオランピア”

 
 それは,何日か前だったかに私の元へと届けられた,ジャック・ブレル Jacques Brelの最後のオランピア公演を映した記録映画の案内状だった。パンフレットのまんなかには,私にとってはすでに馴染み深い,おそらくは30代後半のJBのちょっとはにかんだような顔が大きくプリントされている。いかにもフランドルの百姓を思わせる,ごつごつした風貌だ。そのいささか安手のパンフレットをじっと眺めていると,こんな私にさえ遠い過去の幾つかの記憶が鮮明に蘇る。'70年代の半ば,初めてJBに出会った頃のことが。もう子供とはいえない,かといって一人前の「社会人」にもなりきれない,そんな人生の端境期にあって,JBの歌う数々のシーンは当時の私を無条件に魅了し,正体のつかめない「不幸」に揺れ動く未成熟な心をば捉えて離さなかった。それから暫くのあいだ,こりもせずに,再度フランス語を一から勉強し直そうと懸命になったことだった。あれからもう10年にもなろうとしている。分相応とはいえ,人それぞれにつらい過去を抱えているものです。そうか,JBのステージがフィルムになっていたのか......

 パンフレットの裏をみると,そこには上映日時,公演曲目,上映時間などのスペックがあれこれと記されており,それとともに何とも気色の悪い惹句が次のように書かれていた。

 
 《偉大なるブレル》 尊敬とあこがれ,そして哀惜の情をこめ,フランス人は彼のことをこんな風に語る。
 1929年,ベルギーのブリュッセルに生をうけ,78年,パリ郊外で世を去るまでの間に,
 終わりなきマラソンコースを短距離ランナーのごとく駆けぬけてしまった男 アクターにしてシネアスト,
 ソングライターにしてシンガー。そのすさまじいまでの表現する姿は,フランス・シャンソン界のみならず,
 パティ・スミス,スコット・ウォーカー,デビッド・ボウイ.... 他,多くのロックミュージシャンたちの音楽活動,
 更には生き方にまで影響をおよぼさずにはおかなかった。《アデューオランピア》は,1966年,
 パリ・オランピア劇場における,ブレルの命を燃やし尽くしたラストコンサートを再現する貴重なフィルム
 である。
 ボウイに時代のエスプリを伝えた男,ジャック・ブレル。
 その伝説のステージが,私たちの目の前でカーテンを開く。


 
 あーあ,だめだこりゃ。これでこのフィルム・コンサートには金輪際行けないな,とそのコピーを読むなり思った。仕方ない,どっかでこのフィルムのヴィデオを何とかして入手するしかないか。彼の国に知り合いがいるわけではないが,広い世間のことだ,そのうちに巡り巡って私の前にそれが現われることもあるだろう。それにしても,何というキャッチフレーズ,何という歯の浮くセリフ! くそっ,しょせん自分という人間は自らのマイナー指向の感性を懐深く隠すように,日々の暮らしをひっそりと暮してゆくしかないのだな。乗せられるまいぞ,浮き上がるまいぞ,はしゃぐまいぞ!   

 そして,理不尽な腹立ちがようやく収まると,暫く遠ざかっていたJBの歌を久しぶりに聴きたくなってレコードの棚のホコリを払った.....  

 
  彼らは夜をまっ白に洗い流す
  メランコリーの洗い場で
  手を汚すこともなく
  夜明け前の阿呆ども
 
  真夜中に彼らが語り合うのは
  読んだこともない詩
  書いたこともない小説
  生きたこともない愛
  何の役にも立たない真実
  夜明け前の阿呆ども.....
                《 Les Paumes du Petit Matin 》


 
 何の役にも立たない真実! そして悲しいまでのクソ真面目な冗談。私がJBの歌を聴いていつも身につまされるのは,まさにこの点においてだ。彼は不器用な人間だった。20代にして結婚に破れ,その後はずっと一人で歌うこと10数年,その表向き晴れがましい舞台の上にあって,彼は絶えず自らを取り巻く「不幸」の正体を見極めようと絶望的なまでの努力をし続けた。中流階級の穏やかな幸せに皮肉を浴びせ,憲兵を罵り,去っていった女を口先で呪い,裏街の娼婦に好色な流し目を送りながら。(アコーデオン弾きのジェラール・ジュアネストがいつもその傍らに居て,時に限りなく優しいメロディーラインをJBに差しのべたことは,今にして思えば墓標に添えられた一輪の花のようにも思われる!)

 幸せは厩のなかにある? いやいや,それはケ・ドルセーの高層住宅のガラス窓に灯る明かりのなかにある。そして,不幸はゴロワーズの吸い殻のように街のいたるところに投げ捨てられたままだ,誰にも顧みられることなく。冬の夜,主をなくした老犬が舗道の敷石に鼻をこすりつけている。遠く過ぎ去ったコミューンの時代の香りが,その敷石に染みついているのかも知れない。その犬は,復活祭まであと幾日そうやって夜を明かさなければならないのだろうか..... 彼は彼を取り巻く様々な不幸を刈り集め,分析し,再構成し,そして自らの肉声でそれを「時代」の表層に定着させようと試みた。
 

  お前,もしお前が神様ならば
  星空の下
  年寄りどもを踊らせるだろう.....
        
  だが,お前は神様なんかじゃない
  お前はもっとましだぜ
  お前は 人間だ
                  《 Le Bon Dieu 》

 

 そのようなJBの人となりを,多少のペテンをもって,妙にふやけた味付けを伴った甘い勧誘をもって,絡め取るように歪曲しているのが前記のコピー文だ。具体的に例証を挙げてみようか。このパンフレットの宣伝文句には,いかにも「音楽」に対して広く理解があると自称する「通もどき」の心をくすぐろうとする姑息なフレーズが満ち満ちている。つまり,少なくとも現在の我が国においては不当に過小評価されている(と,筆者は感じているに違いない)ジャック・ブレルを,様々な意匠により権威づけ,何とかその「名誉回復」を図ろうとするさもしい魂胆がみえみえだ。いわく,本国における絶大なる評価(偉大なるブレル!),数多の肩書き(アクター,シネアスト,ソングライター,シンガー),多大な影響力(Pスミス,Sウォーカー,Dボウイ.....) ああ,黙りなさい!

 おそらく,この駄文をものしたのはT.N.かK.Y.か,もしくはその取り巻き連に違いあるまい。《アンフィニ》という会社は,誰がやっているのか全く知らないが,確か以前,コラ・ヴォーケールやアンナ・プリュクナルを呼んだことがあったことを記憶しているし,その企画力自体は決して悪くないと,これまでは他人事ながら思っていた。けれど,今回のプロデュースは一体何を意図しているのか。商売だからと割り切ってちょいと色気を出してみました,というのではすまされない。それを許すにはJBの歌はあまりに悲しすぎる。レトリックがレトリックとして正しく機能するのは,共通の行動原理を有し,かつリアルタイムな文化体系を内包した集団のもとにおいてである,という前提条件が,ここではしっかりと忘れ去られている。「啓蒙」とは,暗いモノに光りを照らし,そのモノの正体を明らかにすることの謂ではなかったか。

 以前,役者のセルジュ・レジアニが(歌手として)日本で初めて紹介されたレコードで,そのレジアニを解説するのにジョルジュ・ムスタキのことをやたら持ち出して,結果としてムスタキの人となりの解説文になってしまった,という何とも馬鹿なライナー・ノーツを見たことがあった。くだんのコピーを読んでいて,そんなつまらない連中のことを思い出した。きっと渋谷・青山・六本木,あるいは一歩さがって新宿・荻窪・吉祥寺あたりをエリアにしている「高級な」人種なのだろう。また別のところでは,T.Tという「自称」評論家が,ブレルのフィルムコンサートを見た印象として,フランス語は解らないけどと前置きした上で,その声を振り絞らんばかりに歌うアクションの素晴らしさ,表現力の豊かさ等々にやたら感服していた。豊かな表現力?よろしい,そんなに「感動的な」アクションがお望みなら,動物園にでも行ってライオンやゴリラの檻の中をじっくりと眺めるがよい。

 もしあなたたちが,いうところの《ブレルマニア》で,その素晴らしさをより多くの人々に訴えようとするなら,ブレルの歌そのものについて語りなさい。フランドルの国語養護論者たちに対して彼がどのように戦ったか。アムステルダムの港にたむろす失業者をどんなまなざしで見つめたか。死を前にして愛する女に裏切られた苦しみと不安とを,どのような音と言葉で表現したか。多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うように語りなさい。JBの歌を政治的に解釈したりするのはイヤだ? 社会派歌手などというレッテル貼りなんぞ下らない? ふん,そんな脆弱な言い訳など糞くらえ! しょうこりもなく天に唾する夜明け前の阿呆ども奴!

 私は少々言葉が過ぎただろうか。いわずもがなのことをもったいぶってキツイ言葉で非難することは,それこそコドモの駄々に如かないかも知れない。寛容の心に欠け,偏見に満ちた小人のたわごとかも知れない。よろしい,もうこれ以上多くを語るまい。私は私の心の命ずるままに,JBがその生涯を通じて歩き続けた《巡礼の道》を,少なくとも私ひとりで静かにゆっくりと辿ってゆこう。歌っているのは風ではない,歌っているのはお前じゃない。それは,JB自身だ。  

 
  いつの日か俺は ビッコか
  修道女か 首吊り人か
  とにかくそういうものになってやろう
  もう決してならないために
  他人の後にゾロゾロ従う者に
                     《 Au Suivant》



                                   (1987.4.20記)

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