病院と,それから看護婦さんたちと (昔日回想)

2008年04月30日 | 日々のアブク
 遙か昔の少年時代,「病院」というものは私にとって大変身近な存在であった。

 別にビンボー自慢をするわけではないが,子供の頃の我が家は誰憚るところなく貧しい家庭だった。衣食住についていえば,住まいはオンボロの借家,日々のパンはかろうじて供されていたものの,着るものときたらほとんど古着のようなものばかり。特に三男坊の私など全て兄たちの「お下がり」ばかりだった(古着の古着の,そのまた古着!) 家のなかに子供部屋などというシロモノは当然あろうはずがなく,勉強机というモノすらなかった(一体どこで勉強していたんだっけか。卓袱台か?) また,子供用自転車だって3人に1台だった。それも中古の旧型自転車で,当然,使用優先順位は長男,二男,三男の順となり,私が乗れることはめったになかった(現在,個人でマウンテンバイク,クロスバイク,フォールディングバイクと3台の自転車を所有する結構な身分に成り仰せているのは,その時代の反動か?) ただ,当時の居住地ならびに通学していた小学校は市街地のほぼ中心部にあったため,日常の生活圏,行動圏のほとんどは徒歩で用が足せるエリア内であり,従って,子供にとっての自転車は生活必需品というよりもむしろ贅沢品に近いものであった。私と同様にMy自転車を持たないコドモも周囲には少なからず存在していたわけで,ちょっと遠くまで遊びに出掛けるときは,皆で歩いたり走ったりして行けばよかったのだ。そのための時間は子供らにとってタップリあった。

 話がまたぞろ自転車方面にシフトしてしまわぬように本来の話題に戻すと,ともあれ,そのような質素な日々の暮らしのなかで,母親が少しでも家計の足しになればと「毛糸機械編み物」の教授資格をとり,自宅に『編み物教室』の看板を掲げた。60年安保闘争の頃の話である。これが意外に近所の人々に評判がよろしかったようで,主として10代後半から20代前半くらいの若い娘さんたちが沢山その教室に編み物を習いにやって来た。彼女らにとっては多少なりとも花嫁修業的な意味合いもあったのだろうが,それ以上に,趣味・素養に関する時代のトレンドが,単なる享楽的,悦楽的消費指向よりも地道で生活に密着した創造的ないし生産的指向に溢れていたというわけだろう。

 生徒のなかでも多かったのは看護婦さんだった。というのも,家のすぐ前の道路を隔てた向かい側に川崎市立病院があり,そこで働く若い看護婦のオネエチャンたちが,恐らくは互いに誘い合ってだろう,何人もウチに編み物を習いに来ていた。看護婦さんの勤務時間はシフト制であるためか,午前中,午後の早い時間,夕食前,ときには夜の遅い時間までも,とにかくほとんど一日中,家の中に編物機械のジャージャー,ジャージャーいう音と娘さんたちの明るい声が響いていた。狭い家のなかでよく教室スペースがやりくりできたものだと今にしてみれば不思議に思う。私らが晩御飯を食べているときにも薄い襖をへだてた向こうではジャージャー,ジャージャーやっていたりするのだ。要するに「お客さん第一主義」の時間体制をとっていたのである。

 そして,センセイの子供に対して,生徒さんたちは一様に愛想がよかった。二人の兄はその頃すでに中学生になっていたが,私はまだチビスケの小学生だったので,特にチヤホヤされたような気がする。何しろ看護婦さんは人扱いが上手なのである。皆,明るく陽気なオネエチャンたちだった。そのうち何人かの表情・動作・声色などを今でもふと思い出すことがある。なかにはホッペがほんのり赤くって田舎なまりの抜けない人もいた。北関東,東北ないしは新潟方面から単身で,あるいは集団就職などで上京してきたのだろうか。多分は寮などに入って都会でのひとり暮らし,時には故郷の両親や兄弟,友だちのことなどを思い出して涙ぐんだりしながらも,病院でのハードワークに追われる日々の合間をぬって編み物教室に通っている,といった健気な娘さんたちだったのだろう。

 当時,私の母は30代後半であり,生徒の看護婦さんたちは20才前後であった。先生と生徒というよりもむしろ年齢の近い母と娘,あるいは年の離れた姉と妹のような関係で,お互い親しげに和気あいあいと教え教えられていたように記憶している。母が84才の老婆となった現在,若い看護婦だったオネエチャンたちも今では還暦を過ぎたオバアチャンになっているはずだ。皆さん,お元気だろうか? なかには未だに現役で働いている人もいるかも知れない。看護婦長あるいはもっとエライ地位に登りつめた人もおられるかも知れない。今でも折にふれ,若い頃に通った編み物教室でのいろんな出来事を思い出したりしているだろうか?

 今から半世紀もの昔に我が家(と,編み物教室)があったその川崎市の中心市街地界隈には,私自身もう何10年も訪れていない。街並みもさぞや様変わりしていることだろう。試みにインターネットで川崎市立病院のことを調べてみると,所在地や敷地面積こそ昔と変わらないものの,現在ではその規模,内容等において大学病院に匹敵するほどのスコブル立派な総合病院になっているようだ。それに対して,当時の市立病院の有り様ときたら,新旧・大小さまざまな建物が新築・増築・改築を繰り返してきた結果だろう,広い敷地内に種々雑多な建築物が迷宮のように併存していた。そんななか,私は時おり裏の通用門から病院内に入って,病棟のはずれにある老朽化して既に使われなくなっていた建物のコンクリート壁面で壁打ちテニスなどをやったりしていた。クルマも通らない,誰にも邪魔されることのない,そこはひっそりと静かで落ち着ける場所だった。たまにテニスの最中に編み物教室の生徒である看護婦さんに出会うこともあったが,別に咎められたりはせず,やさしく声を掛けられた。いや,看護婦さんだけでなく,守衛さんも,事務職員も,配膳のオバチャンも,その頃の病院関係の人々はみな優しく容だったような気がする(懐古のフィルターがそう思わせているのか?) 医師については,さて,どうだったか,それは忘れてしまった。

 実はその市立病院に,私は10才のときに長期入院したこともあるのだ。9月から12月までの約3ヶ月間,小学校5年の二学期の大部分を小児科病棟で過ごした。当時の記録を見ると95日間入院したとある(お情けで「留年」だけは何とか免れることができた)。急性腎炎と診断されて入院したので,食事療法と絶対安静のみが治療方法という,実に退屈な日々であった。少し前に話題にした北杜夫の『どくとるマンボウ昆虫記』に次のような一節がある。


 。。。幸か不幸か,それからほどなく私は腎臓病にかかった。かなり重いらしく半年間寝ていなければならなかった。腎臓病という病気は何も食べられない。蛋白も塩気もいけないのだ。これは子供の身にとっては大変なことである。カレーライスの匂いのする日には涙がこぼれた。。。


 キタさんもワタシも,ほぼ同じ年頃にほぼ同じ体験をしているわけだ。ただし,裕福な家庭の御子息であったキタ少年は,その入院の折に高価な『昆虫図鑑』を親から買ってもらうのだが,一方,ビンボーな家庭の倅であったワタシは当然ながら何も買ってもらえなかった。ゆいいつ,当時「鉄棒少年」であった私が師匠と仰いでいたパン屋のオニイサンが,病気見舞いにと漫画本をゴッソリ(それと少年文学本を少々)差し入れて下さり,それらの読書は入院中にかなりこなした。以来,本をじっくり読むクセがついたように思う。また,小児科の看護婦さんや同室に入院していた中学生のオネーサンには折り紙をいろいろと教わった。こちらの方も,以後じっくりと根気よく手作業をするクセがついたように思う。退院後は「折り紙名人」として学校のクラス内で一目置かれるようにもなったのだ。その入院から既に約半世紀近くが過ぎた。その後は幸いなことに,病院というものにソコソコお世話になることはあっても,入院するほどの大きな病を罹患するには至っていない。

 どうも私ごとと母のことが交錯してしまう。本当は母について,ここでは記しておきたかったのだ。

 現在,老いたる私の母は,この1~2年来ずっと病院や介護老人保健施設などの世話になっており,入退院を繰り返している。特にここ1ヶ月ほどは病院のベッドでほとんど寝たきりの日々が続いている。いったんベッドで寝たきり状態になってしまうと,当人の体力のみならず,気力,判断力,思考力も目に見えて減退してゆく。それは悲しいことながら高齢者が歩む一般的な過程なのであり,母の年齢を考えればそのことは致し方ないことなのかも知れない。ちょうど何日か前に厚生労働省より「全国市区町村別平均寿命統計」なるものが発表されたが,それによると,母の住む神奈川県足柄上郡大井町の女性平均寿命は84.9歳となっていた。あぁ,ほぼピッタリじゃないか。この悲しい符合を,どうしてくれようぞ! されどもしかれども,息子の心情としては,やはり母には少しでも長生きしてもらいたいのだ。身体は衰えていっても願わくば口だけは達者でいてもらいたいのだ。

 最近では,投薬に伴う幻覚症状などが現れはじめているようで,何か意味不明の昔のことを急に口にしたりすることもある。そりゃ,八十余年も生きてくればいろんなことがあっただろう。関東大震災の年に被災地である横浜の下町で生まれたのだ。太平洋戦争の戦火のなかを生き延びてもきた。そして戦後の混乱と貧困。そのような動乱の時代のなかにあって,あの「編み物教室」の数年間は,母にとってつかのま幸せな日々ではなかったろうか。不肖の息子として,願わくば今,昔の編み物教室の生徒さんたちに現在の母の様子を何らかの形で伝えることが出来たらどんなに良かろうと思う。そして,その昔の生徒さんたちから頂戴するであろう母へのメッセージを,今すぐにでも母に話してあげることが出来たら,先生にとっても,そして先生のコドモにとってもどんなに嬉しかろうと思う。冥土への土産にもなろうかと思う(ヲイヲイ)。 そのような通信は現実的には許されていないのだろうか。スピリチュアルな世界の話になってしまうのか。アーメンでもインシャラーでも,あるいはナモサダルマプフンダリカサスートラも構わないが,祈りは誰に対して行われるべきなのか?
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