1980年代後半の約4年間を横浜の中心部,関内で過ごした。市役所並びの尾上町通りの一角に1950年代に建てられたオンボロビルがポツンと取り残されるように建っており,1階は中華料理屋が2軒とドラッグストア,3階にはテレクラなんぞがお店を構え,私はそこの4階402号に居住していた。両隣には,それぞれに最後の最後まで正体不明であった怪しげなジーサン2名が住んでおりました。個人ノ生活ハ神聖ニシテ侵スベカラズ。そこでの4年間を仮にセピアの時代と名付けよう(ヲイヲイ,何じゃそりゃ)。当時の自分は,ほとんど毎日のように町中のあちこちを早足で彷徨うように歩いていたと記憶している。それは,横浜・関内という独特の雰囲気をもった小都会が織りなす魅惑的で多種多様な風景シーンを,取り敢えず出来るだけ多く自らの脳裏に焼き付け定着させようと努力しているかのような行為であった。そう,取り敢えずだ。河上徹太郎が若年の頃,夕暮れ歩行の魅力について書いていたと思うのだが,ほぼそれに類することを行っていたわけです。そこから何を読み取ろうとしていたのかって? 物語の発見,物語の構築,そして物語を現実に引き寄せんとする空しいアガキの数々,行き着く果ては徒労と衰退,記憶の陳腐化と形骸化。確かに現在の私の中では,当時の“横浜暮らし”は完璧にレトロと化している。
以上が少々長めのマクラです。実は昨日,車を運転中にカー・ラジオから《ピカルディーのバラ》のメロディーが流れてきて,その甘美な旋律が,もう忘れかけていた昔の暮しをふと蘇らせたわけです。いや正確にいえば,イブ・モンタン Yves Montandが還暦近くになって吹き込んだディスク《 Montand d'hier et d'aujourd'hui 》の中の一曲を連想し,それが約10年前のアワレナ暮しを思い出させたわけですが。
ねぇ思い出してごらん
あの唄はピカルディーのことを歌っていた
それから あそこに咲いていたバラの花のことも
あの頃のふたりは 仲よく 楽しげに踊ったっけね
たくさんのバラの花に囲まれて
そのモンタンの唄は,関内のオンボロビルの一室で何度となく聴いた。あぁ,こんなジーサンになりたい,そう思ってシミジミと聴いていた。10年が過ぎて,そりゃやっぱり無理なことだわなと改めて観念しておる次第ですが。
以上が少々長めのマクラです。実は昨日,車を運転中にカー・ラジオから《ピカルディーのバラ》のメロディーが流れてきて,その甘美な旋律が,もう忘れかけていた昔の暮しをふと蘇らせたわけです。いや正確にいえば,イブ・モンタン Yves Montandが還暦近くになって吹き込んだディスク《 Montand d'hier et d'aujourd'hui 》の中の一曲を連想し,それが約10年前のアワレナ暮しを思い出させたわけですが。
ねぇ思い出してごらん
あの唄はピカルディーのことを歌っていた
それから あそこに咲いていたバラの花のことも
あの頃のふたりは 仲よく 楽しげに踊ったっけね
たくさんのバラの花に囲まれて
そのモンタンの唄は,関内のオンボロビルの一室で何度となく聴いた。あぁ,こんなジーサンになりたい,そう思ってシミジミと聴いていた。10年が過ぎて,そりゃやっぱり無理なことだわなと改めて観念しておる次第ですが。