大阪の街で見たもの,それは...

2014年09月17日 | 日々のアブク
 ああ,もう秋か! それにしても何故に... ではなくって,ですね。 既にかなりの月日が経過してしまい,今では旧聞に属することなのではあるけれども,今年の春先のある出来事について,遅まきながらの備忘録としてここに記しておくことにする。もっとも,最近の我が日常においては時間の観念なんぞあらかた失われちまっているのが常態ゆえ,それがいつのことであろうとも,実際問題としてはドーデモイイことなのではございますが。。。

 4月の中旬,大阪府の豊中市に出掛けた。この3月に長男が大学を卒業し,さいわいなことに某民間企業にデザイナーとして就職することが決まって,4月から新入社員として本社のある大阪に勤務することになった。それで,彼の転居(東京・中野→大阪・豊中)に伴う諸々の手続き作業(保険,銀行,インターネット,ケータイ,等々)のサポート&アドバイスのため,ハルバル東国の鄙の里より西国の大商都へと上洛?した次第である。

 会社の所在地は大阪市内のモロ中心部(御堂筋)ということだが,住まいについては,事前に私の方から示した老婆心的サジェスチョンなどを参考にして,隣接する豊中市の服部緑地近くの静かな住宅街にある賃貸マンションを自分自身で探し出したようだった。会社の方からは相応の額の住宅手当が支給されるため,学生時代に過ごした中野区内の極狭小ワンルームマンションに比べると,独り暮らしの身としてはスベースにかなりの余裕があり,かつ構造や設備のしっかりした快適な部屋に住まうことが可能となって,その点では当人にとっては破格の「出世」になった。なお,隣の市といったところで,だいたい大阪というところは本邦首都たる大東京に比べれば格段に「小さな大都会」なわけであるからして,その新たな住居から徒歩数分のところにある最寄り駅「緑地公園駅」から地下鉄に乗ってほんの20分足らずで都心部にある会社まで通勤できるのだ。まことに恵まれた住環境ではある。彼自身は,デザインを生み出す環境としての「東京」という場に少なからぬ愛着ないし拘りがあったようで,多少とも後ろ髪を引かれる思いで「都落ち」したように見受けられた。ただ,とにもかくにも最初の就職,最初の社会人生活である。新米デザイナーとしてその地で苦労しながら研鑽を重ね,最低三年間くらいは勤め上げて欲しいものだ。などと,無力な親としては草葉の陰で,もとい鄙の茅屋でひそかに願ったことだった。

 大阪の街を訪れたのは,私にとって何年ぶりのことだろうか。

 遙かなる昔の記憶をオボロゲニ辿ってみれば,今から半世紀近くも前の学生時代,春休みを利用して南九州の宮崎から鹿児島にかけての日向灘沿岸地域を寝袋背負って一週間ほど単独徒歩旅行(エクスカーション)したことがあって,その帰路に神戸と大阪に立ち寄った。確か瀬戸内海フェリーを利用して,夜に北九州の門司港かどこだかを出て,早朝未明に神戸港に着いたように記憶している。その日一日は神戸の元町,三ノ宮,山手などの旧市街地や,大阪の心斎橋,道頓堀,難波などのミナミの繁華街を,特にこれといったアテがあるわけでもなく,まるで場違いな異邦人のようにキョロキョロ,スタスタ,グルグル,ウロウロと歩き回り続け,いいかげんへたばってしまった挙げ句,夜になって国鉄大阪駅から夜行列車に乗り,横浜の家へと向かったのだった。中学校のときに出掛けた京都・奈良への団体修学旅行を一応別物とすれば,そのときの神戸・大阪が私にとっての事実上の「関西の町・初体験」であった。それは例えば,台湾・香港・支那あたりに予備知識なしにいきなり出掛けたような異国体験に類したものといってよいかと思う。一見洒落た趣の神戸の町と,目一杯鈍臭い大阪の町との好対照,けれど,どちらも町中で飛び交っているのは関西弁なのだ。ちなみに当時は,現在と違って未だ関西弁が芸能マスコミ等によって全国認知されるには至っていなかった。ガキンチョもネーチャンもオッサンもジジババも,誰も彼もが,みーんなワケノワカラン関西弁でまくしたてる。心斎橋では,通行中に真っ昼間から酔っ払っている中年オヤジに意味不明の言葉を投げかけられてしつこく絡まれたりもした。大阪って,ちょっとコワイ! これを異様な体験と言わずして何であろう。

 その後,大学を出て環境コンサルタント系の小さな会社に勤めることになった若年修業時代の一時期,そうさな,それとて今から既に40年あまり昔のことになるのだが,大阪・兵庫の北摂地域で河川生物調査を何度か行ったことがあった。現地でベースとした宿は確か豊中市北部の阪大キャンパスの近くだった。何やら奇妙な感じがする町で,大学が近いこともあってだろうか,多国籍風の,インターナショナルな雰囲気があった。投宿先にはイギリス旧植民地系の人と,それからアラブ系の人たちが同宿していた。そのなかのひとりから,アヤシゲナ英語でアヤシゲナ交渉事を持ちかけられたりもしたが,こちとら仕事で手一杯だったため,その異文化交流は残念ながら体よくお断りさせていただいた。また,その周辺の町に住まう原住民自体についても,見た目いくぶん「濃い」人々が多いような気がして,風土的違和感をそこはかとなく感じたものだった。大阪って,ちょっとフシギ! そうか,豊中市を訪れるのは,その時以来のことだったか。 

 あともうひとつ,大阪の街にまつわる昔話を記しておく。やはり今から20~30年ほど前,滋賀県内のいくつかのエリアで環境関係の複数の調査を継続的におこなっていた時期があった。その頃は既に会社を辞めて零細個人自営業者として一応独立しており,いわば業界内便利屋的な立場で種々雑多な下請け仕事を自転車操業的に次から次へとこなしている日々だった。琵琶湖の湖岸部一帯ならびに湖内へと流入する主要河川には数年間にわたって幾度となく足を運び,現地の「水環境」と深く付き合い,「水の生きもの」たちにもかなり馴染んだものだ。それらの調査においては,場所的には大津だとか彦根だとか長浜だとか安曇川だとかをベース地にして行動していたので,大阪の方とは直接関係があったわけではない。ただ,そのうちのある業務にからんで大阪市内にある某シンクタンクを何度か訪問する必要があった。そこの組織を統轄する研究所長に面会してお話を伺うためである。その所長は当時私の係わっていた世界では大変有名な先生で,実績・人脈・行動力・発言力・影響力ともソレナリニ端倪すべからざるものがあり,そしてまたそのような人物の常として,裏面では毀誉褒貶の少なからぬ,あまつさえ一部ではキナ臭い噂が無きにしも非ず,といった御仁であった。そのときは,諸般の事情によりセンセイの御機嫌を損ねられては大変困るので,当方としてもかなり丁重に,ときには心ならずも過分にヘリクダル態度すら示しつつ,当該調査の内容・経緯・結果等を逐一丁寧に御説明申し上げ,それに対してソレナリニ貴重な御意見を賜った。いや実際のところは,場当たり的で気紛れな感想が返ってきた,といった程度の方が当たっているかも知らん。正直なところ内容に乏しい面談でした。一度だけ,何やら先様の気に触ったことでもあったのか,かなり感情的かつ理不尽なキツイ御言葉を頂戴したことがあった。しかもそのときだけは由緒正しい関西弁で! まったく同席者ともどもセンセイへの対応には苦慮したものでした。ただし,それらの出来事は数10年も前のことで,現在では既に時効となっている昔話ゆえ,これ以上の言及は避けておいた方が宜しかろう。いずれにしても,非常に刺激的で緊張感に溢れ,また同時にすこぶる憂欝で気疲れのする,ハッキリ言って「茶番」としてのシンドイ仕事を行っておったわけです。

 当時,その研究所は国鉄の新大阪駅からすぐの場所にあった。新大阪駅で降りるたびに,いつも ハァーッと深い溜息をついたものだ。スモッグと騒音で覆われた大阪のゴチャゴチャした街並と,その喧騒のなかで飛び交うゴチャゴチャした関西弁の乱舞は,そんな私を一層重く暗い気持ちにさせた。そのような新大阪通いを何度か重ねた末に曲がりなりにも仕事が一段落したときには,本当に肩の荷が下りた感じがした。そして,もうこんな所には二度と来るもんかぃ! とさえ思いましたですね。幸いなことに,当該事案以降は研究所とも先生ともまったく関わりを持つことはなかった。私自身としても,それらは過去の忌まわしい出来事としてキッパリ忘れたい。完全に消し去ることが無理ならば,せめては記憶の奥底に仕舞い込んで,その上に重い漬物石でも乗っけて蓋をして封印してしまおう,と心に誓ったのでありました。身過ぎ世過ぎとは申しながら,その当時はじつにアコギな,もといナンギな稼業に係わっていたものだとつくづく思う。ま,誰にだって過去に幾つかの汚点はございましょう。なお,それからしばらくして研究所はどこか別の場所に移転したように仄聞したが,んなこたぁ私の知ったことではないわいナ。

 されどもしかれども,今でも尚,ごくたまにではあるが,その当時の出来事を夢に見ることがあるのだ。もちろんそれは心地よい夢などでは更々なく,どちらかといえば悪夢の類なのである。 コレハシタリ! 要は,先生の印象,個性,人格が(良くも悪くも)それだけ強烈なものであって,あのときの幾度かの対面交流の際,私はセンセイから何かの「呪い」をかけられてしまったということなのだろう。言い換えれば,大王様の御託宣に一喜一憂,右顧左眄せざるを得ない状況に置かれていた一介の零細自営業者たる自分に対して,我ながら心底忸怩たるものがあったことの反映なのだろう。記憶中枢に深い傷を負った,と言ってもいいかも知れない。そんなわけで,今日も今日とてショーモナイ夢を見ることになるわけでございます。 記憶って,ちょっとザンコク!

 そんな大阪に関するいくばくかの思い出をとりとめもなく反芻しながら,4月の夕暮れ時,新幹線で帰路についた。その折,JR新大阪駅でのことだ。駅構内の混雑した人混みのなかで,やけに目立つ身なりをした小柄な老婦人とすれちがった。通り過ぎたあとで,あれ?と思って慌てて後ろを振り返った。中年女性をお供に従え,御高齢の割にはかなり元気そうでセカセカとした立ち振る舞いを示しつつ,その老婆は我が視界からスゥ~ッと遠ざかっていった。毎度オナジミ派手派手な大阪のオバチャンか? あるいは著名な大御所芸能人だろうか? それとも,町外れに住む魔女ではアルマイカ? 一瞬亡霊を見たのかと思ったが,いや違う! 確かにあのセンセイだ! と即座に自らを納得させた。亡霊ではない。ちゃんと二本の足で歩いていた。不意に昔の記憶がフラッシュバックした。さまざまな出来事,さまざまな思いが交錯し,それとともに大阪の街の例の雰囲気が老いたる我が身にズシンと重たくのしかかり,しばし息苦しさを感じた。歴史はなんども繰り返す。悲劇から喜劇へ,喜劇から茶番へ。 ああ,何てこったぃ! まことにもって,四月は残酷な月だ! April is the cruellest month!
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