最近ではダリダDalidaの歌をよく聴いている。聴くというよりも聞き流しているといった方が当たっているかも知れない。日常的に野外を徘徊もとい彷徨しているときは別にして,終日家の中に蟄居しているときには,今でも時おり「内職仕事」なんぞをやっている(日々のパンを最低限確保する為に!) そんなときの息抜きないし慰めの音楽として,ダリダとかを室内にタレ流している次第です。
早いもので,彼女が死んでから30年以上が過ぎた。けれどもその歌声は現在でも多くの人々に忘れられることなく,シッカリと巷のソコカシコに流れており(leurs chansons courent encore dans les rues..),それらは巡り巡って,極東の僻地の片隅にひっそりと棲息している一老人を束のま慰めたりもしているというわけでアリマス。ああ,その不思議さよ。
わたしがかつて所有していたダリダの歌は,せいぜいのところLPレコードが2枚,CDが3枚くらいだったろうか。それらのレコードやCDは既に全て売却処分してしまったので,いま手元に残っているのはタイトル不明の2枚組CD(代表曲を適当に?ピックアップしたもの)の音源ファイルだけだ。そのCD2枚をパソコンのiTunesを通じて仕事場にシャッフルで流している。膨大な量の彼女のディスコグラフィからすれば,それはほんの一握りの作品,大河の一滴に過ぎないものかも知れないが,私にはそれで十分だ。
どの歌もそれぞれに良いけれど,なかでも私がとりわけ気に入っているのは,《あなたがそこにいるように Comme si tu étais là》という恋の歌だ。クロード・ルメールClaude Lemasleが詩を書き,アリス・ドナAlice Donaが曲を付けている。1976年の作品というから二人ともまだ30代の初め頃か。若くしてそれぞれに実によい仕事をしていたものだ,と改めて思う。ダリダDalidaという魅力的かつ個性的な女性歌手に託して見事に演じられる,それは一幕物の「人生劇場」に仕立てられている。どこか戦争後の辛い時代の雰囲気をいまだに引きずっているようなところもあって,物語に不幸の影が見え隠れしている。そう,いつだって不幸は幸福に優先する。仕合せ?それとも不仕合せ? それをドラマチックに歌っているダリダは40代の前半,まだまだ公私ともに元気でお盛んな頃であっただろう。なるほど,ジンセイってやつはドラマなんだなぁ,などと,「ドラマ」なんぞとは金輪際無縁に今日までの生を永らえてきた一介の貧乏老人はシミジミと思うのであります。あぁ,そんなこんなで,また一年が終わろうとしている。(グッスン)
以下にその歌詞の全部を訳しておく(例のごとく手前勝手な意訳とお考え下さい)。
今夜,わたしは いない人を求めることは,もうウンザリだ
聞こえない音に耳を傾けるのは,もうコリゴリだ
今夜はガラ(祝典)の宵
わたしは想う まるで貴方がすぐそこにいるかのように
わたしは扉を開けにゆく それは決して風の音じゃない
そこには貴方のやさしい微笑み ちょっぴり恥ずかしそうに,ぎこちなく
貴方はわたしに話しかける 《 ボン・ソワール,長いこと会ってなかったね
霧のなかを彷徨い続ける日々で,君を見失っていたんだ 》
ラジオからは,陽気で愉しげな歌が流れるでしょう
貴方がそこにいるように そしてわたしも一緒に歌う
貴方がそこにいるように 猫もゴロゴロと喉を鳴らしている
暖炉には炎が燃え,部屋は花々で飾られる
貴方がそこにいるように そこは暖かく,心地よい
貴方がそこにいるように 家のなかは生命で満ち溢れる
それから... それから とても静かに穏やかに
夜はわたしたち二人を覆い隠すでしょう
貴方は,すべてを解き放つ
地獄の闇にのまれた勇敢な兵士のように無表情なまま
わたしは,まるで同志か母親のような慈愛の眼差しで貴方をみつめる
ラジオからは,とても美しい恋の歌が流れるでしょう
貴方がそこにいるように そこは私が日々を暮らす場所で
貴方がそこにいるように 孤独な晩御飯をいっしょに食べる
わたしは貴方に何もかも話す はっきりと,力強く,跪いて
貴方がそこにいるように ワインはワインの味となり
貴方の声は本当の声となり,わたしの手は再びわたしの手になる
貴方がそこにいるように 明かりは優しく灯るでしょう
貴方がそこにいるように 歓びは目覚めるでしょう
それから,わたしたちは愛し合い,そこで生き,わたしはわたしになる
夜が明けるまで, もしも... あなたが そこにいるのなら...
早いもので,彼女が死んでから30年以上が過ぎた。けれどもその歌声は現在でも多くの人々に忘れられることなく,シッカリと巷のソコカシコに流れており(leurs chansons courent encore dans les rues..),それらは巡り巡って,極東の僻地の片隅にひっそりと棲息している一老人を束のま慰めたりもしているというわけでアリマス。ああ,その不思議さよ。
わたしがかつて所有していたダリダの歌は,せいぜいのところLPレコードが2枚,CDが3枚くらいだったろうか。それらのレコードやCDは既に全て売却処分してしまったので,いま手元に残っているのはタイトル不明の2枚組CD(代表曲を適当に?ピックアップしたもの)の音源ファイルだけだ。そのCD2枚をパソコンのiTunesを通じて仕事場にシャッフルで流している。膨大な量の彼女のディスコグラフィからすれば,それはほんの一握りの作品,大河の一滴に過ぎないものかも知れないが,私にはそれで十分だ。
どの歌もそれぞれに良いけれど,なかでも私がとりわけ気に入っているのは,《あなたがそこにいるように Comme si tu étais là》という恋の歌だ。クロード・ルメールClaude Lemasleが詩を書き,アリス・ドナAlice Donaが曲を付けている。1976年の作品というから二人ともまだ30代の初め頃か。若くしてそれぞれに実によい仕事をしていたものだ,と改めて思う。ダリダDalidaという魅力的かつ個性的な女性歌手に託して見事に演じられる,それは一幕物の「人生劇場」に仕立てられている。どこか戦争後の辛い時代の雰囲気をいまだに引きずっているようなところもあって,物語に不幸の影が見え隠れしている。そう,いつだって不幸は幸福に優先する。仕合せ?それとも不仕合せ? それをドラマチックに歌っているダリダは40代の前半,まだまだ公私ともに元気でお盛んな頃であっただろう。なるほど,ジンセイってやつはドラマなんだなぁ,などと,「ドラマ」なんぞとは金輪際無縁に今日までの生を永らえてきた一介の貧乏老人はシミジミと思うのであります。あぁ,そんなこんなで,また一年が終わろうとしている。(グッスン)
以下にその歌詞の全部を訳しておく(例のごとく手前勝手な意訳とお考え下さい)。
今夜,わたしは いない人を求めることは,もうウンザリだ
聞こえない音に耳を傾けるのは,もうコリゴリだ
今夜はガラ(祝典)の宵
わたしは想う まるで貴方がすぐそこにいるかのように
わたしは扉を開けにゆく それは決して風の音じゃない
そこには貴方のやさしい微笑み ちょっぴり恥ずかしそうに,ぎこちなく
貴方はわたしに話しかける 《 ボン・ソワール,長いこと会ってなかったね
霧のなかを彷徨い続ける日々で,君を見失っていたんだ 》
ラジオからは,陽気で愉しげな歌が流れるでしょう
貴方がそこにいるように そしてわたしも一緒に歌う
貴方がそこにいるように 猫もゴロゴロと喉を鳴らしている
暖炉には炎が燃え,部屋は花々で飾られる
貴方がそこにいるように そこは暖かく,心地よい
貴方がそこにいるように 家のなかは生命で満ち溢れる
それから... それから とても静かに穏やかに
夜はわたしたち二人を覆い隠すでしょう
貴方は,すべてを解き放つ
地獄の闇にのまれた勇敢な兵士のように無表情なまま
わたしは,まるで同志か母親のような慈愛の眼差しで貴方をみつめる
ラジオからは,とても美しい恋の歌が流れるでしょう
貴方がそこにいるように そこは私が日々を暮らす場所で
貴方がそこにいるように 孤独な晩御飯をいっしょに食べる
わたしは貴方に何もかも話す はっきりと,力強く,跪いて
貴方がそこにいるように ワインはワインの味となり
貴方の声は本当の声となり,わたしの手は再びわたしの手になる
貴方がそこにいるように 明かりは優しく灯るでしょう
貴方がそこにいるように 歓びは目覚めるでしょう
それから,わたしたちは愛し合い,そこで生き,わたしはわたしになる
夜が明けるまで, もしも... あなたが そこにいるのなら...