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歌舞伎考・十代の私を振り返って

2010-12-11 22:16:33 | days
以前、ブログ内で書いているけれど私は市川家(成田屋)が嫌いだ。
はっきり、言う。
大嫌いです。

確かに血筋や家柄は大事だけれど、過去の人間国宝の中には養子や直系でないものもいる。
芸が飛びぬけて上手い者に価値のある屋号をかぶせた感が否めないものもある。

今回の事件のために代役に立った愛之助は部屋子である。
玉三郎も養父は守田勘弥だが、母は芸者と言われている。

ふたりが代役に立つことを市川家が歓迎したとは私には思いにくい。
父團十郎は昭和五十年代に海老様と呼ばれ華々しい活躍をしていたが、この時期は歌舞伎の低迷期で舞台は空席が目立ち、歌舞伎離れが起こっていた。
私は当時二十代のOLさんだった方の著書の中で、若者が歌舞伎に興味を持つことはほとんどなく若い役者さんの楽屋には自由に出入りさえ出来たことを知って驚いた。

その歌舞伎の停滞期を文字通り、ぶち破ったのが「市川猿之助」(澤瀉屋)である。
しかしその型破りな舞台は、自らは「スーパー歌舞伎」と銘打ったが「外連(ケレン)」とも呼ばれ、内々ではまともな歌舞伎として認められなかった。
それでも、いままで歌舞伎を見向きもしなかった若者を中心に熱狂的なまでに歓迎された。
早代わり、宙乗りといった奇抜な舞台、わかりやすい筋書きと美しい衣装。
部屋子として苦労を重ねた役者が次々と登場し、力強さや美しさを見せ付けるたびに「これほどまでの役者を澤瀉屋は隠し持っていたのか。」と驚嘆した。

そして、古くからの歌舞伎ファン(主にご年配の方々だが)には、歌舞伎とは全く関係のない家庭から部屋子として育った役者の実力が名門の御曹司たちに劣らない、もしくはそれを凌ぐことを猿之助歌舞伎は世に知らしめる。

この猿之助の奮闘に横槍を入れ続けたのが市川家だ。
猿之助の公演に名門出身者は助演していない、というより出たがらなかった。
自分の意志なのか、周りの圧力なのかはわからないが後者も大きく作用したはずだ。
唯一、中村児太郎(現:福助)が出ているが猿之助の部屋子で新人の笑也に人気を攫われた。
猿之助に続いて功績を称えるとしたら、中村歌六、市川右近、中村信二郎を私は上げたい。
信二郎は時蔵の甥だが父は歌舞伎役者を職にしなかった人だ。
彼はマチネで猿之助の役を見事に演じた。今は新劇で活躍している。

演じることを生業とするならば、観る者の魂を揺さぶらなくてはならない。
自己満足で演じてはならないのだ。

しかし、市川家を中心とした猿之助非難を省みると明らかに観客を置き去りにしている。
この頃、私は人に勧められてこのことに関しての随想をある本に寄せた。
私は素人なので何を書こうとかまわないという気持ちと十代の無謀さが混じり、かなり過激な文になったが主催者や読者には歓迎された。(全文は近いうちにサイトに掲載します)
その経験があるだけに、今回の事件は市川家の驕りの家系が招いた起きるべくして起きた出来事に思えてならない。
往年の孝玉が、代役を負ったのは海老蔵のためではない。
歌舞伎を愛するファンのため、先の大戦で消えかかった歌舞伎の火を点し続けるために尽力した先達のため、ひいては歌舞伎の未来のためである。



今は熟達した役者となった右近、笑也、笑三郎の三人がこの頃、短い休憩時間を使い粗末な机をロビーに並べてサイン会を真似たことがある。
アナウンスは一回きりで幼馴染と二人で出向くと一番乗りだった。
普通はお気に入りの役者に会えた嬉しさでわたしたちの方が恥ずかしがらなくてはいけないはずなのに、三人の方が「本当に僕たちので(サインのこと)いいんですか?」といいながら「お前から先にやれよ、」とか「え、お前がやれよ。」と肘を突付きあっている姿に笑った。

そして私は、中村勘九郎名の最後のサインと写真を贈られた年に歌舞伎観賞をやめた。
私にとって歌舞伎は遠い場所になってしまったが、まばゆいばかりの舞台の数々は今も胸にある。