サザエさんちのタラちゃんが旋律を口ずさんでいます。なんという曲でしょう。
①タラララーン
②タララ タララッタ タララ ラララー
③タラララ タラララ タラララ ラーララー
クラシックファンなら簡単ですね。上から順に、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、第6番『田園』、第9番『合唱』の冒頭ですね。このように、ベートーヴェンの曲は極めて分かりやすい旋律で作られています。この平易さはモーツァルトも同じです。
しかし、バッハの場合は旋律の行方が予測できません。シャコンヌなどは典型ですが、どうやってまとめるのかと心配すると、見事にサラッとまとめてみせるのです。バッハはやはり大天才です。ところが、マーラーの交響曲は口ずさめる旋律が皆無の上に、極めて長い無駄な時間を拘束される感覚に陥ります。マーラーの交響曲は、起承転結のない下手な演説に似て、自分でもまとめられなくて饒舌になり、勿体ぶって難解さを売りにしている小説に似ているのです。
ところが、このマーラーの交響曲を弟は好きなのです。ショスタコーヴィッチの交響曲も聴いているようですが、弟は典型的なコンプレックスの塊で、マザコンとファザコンと兄弟コンプレックスを網羅。東南アジアでシャチョーさんと呼ばれ、尊大になってなけなしの金を置いてくるタイプです。どうも、コンプレックス人間とマーラーは相性が良いと思わざるを得ません。
音楽の世界でも、大半の人はさまざまな限界の中で蠢いているコンプレックス予備軍です。そういう人種にとって、大天才の曲は精神の負担になりこそすれ、なかなか救いにはならないのではないでしょうか。大天才の曲は、聴く人の霊格によっては、救いや目標ではなくプレッシャーにもなりますから。人生の逃げ場が必要な人には、モーツァルトやベートーヴェンとは違う、完璧ではない音楽の方が楽なのです。その不完全指向の受け皿として、マーラーなどは存在するのではないでしょうか。僕には退屈でイライラしますが。
さて、このようなコンプレックスと音楽の関係を語るのは、実は絵画の基本にも当てはまるからなのです。前に提示した花のデッサンですが、ある読者はガクや花の付け根が全く見えない、円形の花の構図で描いてきました。菊やコスモスなどの、花弁が放射状のモチーフでは、上から見る(円形)のではなく、横から観て描いたほうが絵になりやすいのは明白です。
実は、児童画協会の会長でもあった浅利篤という中学の先生は、子供の絵で、向日葵(ひまわり)や菊は父親を表し、チューリップは母親を表すと解説しています。これを山に例えれば、富士山の尖った形は父親で、丸い山は母親を表すのだそうです。先の読者は、無意識のうちに父親との葛藤を描いていたので、絵にならない難しい構図を取ったのです。
このように、デッサン力というのは精神の健全性の証でもあるのです。ゴッホのデッサンは異常者のそれですから、僕は好きではありません。平易というのは、イエスの平らな道と同じく、精神が健全な者が選択するように出来ているのです。
煎餅ババアと悪口を言われる、煎餅をバリバリと音を立てて食べる婆さんは、不平や不満が一杯で、そのはけ口として固いものを食べたがるのです。僕の知っている喉頭癌の人(前のマンションの管理人)は、いかにも愚痴が多くて、素直に人の話を聞くことが出来ないタイプでした。口から出る言葉と、飲み込むもの(納得)に難があるから、神様は病気で教えているのです。固いものを送ってきた読者は、自分か家族が不平不満で一杯なのです。
ということで、絵の上達の近道は、素直さや健全さなのです。家族関係は難しいですけど、それは自分で解決するしかなく、それが出来ない人は自分で壁を作ったも同然なのです。厳しいですけど、難しいことを選択する人に、救いの手を差し伸べても無駄なのです。簡単なことを簡単にする難しさ。モーツァルトはピアノでそれを教えているのです。
<∩`∀´> なお、リンク先を開いてずっこけても、ウリは謝罪と弁償はしないニダよ ホルホル。
エフライム工房 平御幸
①タラララーン
②タララ タララッタ タララ ラララー
③タラララ タラララ タラララ ラーララー
クラシックファンなら簡単ですね。上から順に、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、第6番『田園』、第9番『合唱』の冒頭ですね。このように、ベートーヴェンの曲は極めて分かりやすい旋律で作られています。この平易さはモーツァルトも同じです。
しかし、バッハの場合は旋律の行方が予測できません。シャコンヌなどは典型ですが、どうやってまとめるのかと心配すると、見事にサラッとまとめてみせるのです。バッハはやはり大天才です。ところが、マーラーの交響曲は口ずさめる旋律が皆無の上に、極めて長い無駄な時間を拘束される感覚に陥ります。マーラーの交響曲は、起承転結のない下手な演説に似て、自分でもまとめられなくて饒舌になり、勿体ぶって難解さを売りにしている小説に似ているのです。
ところが、このマーラーの交響曲を弟は好きなのです。ショスタコーヴィッチの交響曲も聴いているようですが、弟は典型的なコンプレックスの塊で、マザコンとファザコンと兄弟コンプレックスを網羅。東南アジアでシャチョーさんと呼ばれ、尊大になってなけなしの金を置いてくるタイプです。どうも、コンプレックス人間とマーラーは相性が良いと思わざるを得ません。
音楽の世界でも、大半の人はさまざまな限界の中で蠢いているコンプレックス予備軍です。そういう人種にとって、大天才の曲は精神の負担になりこそすれ、なかなか救いにはならないのではないでしょうか。大天才の曲は、聴く人の霊格によっては、救いや目標ではなくプレッシャーにもなりますから。人生の逃げ場が必要な人には、モーツァルトやベートーヴェンとは違う、完璧ではない音楽の方が楽なのです。その不完全指向の受け皿として、マーラーなどは存在するのではないでしょうか。僕には退屈でイライラしますが。
さて、このようなコンプレックスと音楽の関係を語るのは、実は絵画の基本にも当てはまるからなのです。前に提示した花のデッサンですが、ある読者はガクや花の付け根が全く見えない、円形の花の構図で描いてきました。菊やコスモスなどの、花弁が放射状のモチーフでは、上から見る(円形)のではなく、横から観て描いたほうが絵になりやすいのは明白です。
実は、児童画協会の会長でもあった浅利篤という中学の先生は、子供の絵で、向日葵(ひまわり)や菊は父親を表し、チューリップは母親を表すと解説しています。これを山に例えれば、富士山の尖った形は父親で、丸い山は母親を表すのだそうです。先の読者は、無意識のうちに父親との葛藤を描いていたので、絵にならない難しい構図を取ったのです。
このように、デッサン力というのは精神の健全性の証でもあるのです。ゴッホのデッサンは異常者のそれですから、僕は好きではありません。平易というのは、イエスの平らな道と同じく、精神が健全な者が選択するように出来ているのです。
煎餅ババアと悪口を言われる、煎餅をバリバリと音を立てて食べる婆さんは、不平や不満が一杯で、そのはけ口として固いものを食べたがるのです。僕の知っている喉頭癌の人(前のマンションの管理人)は、いかにも愚痴が多くて、素直に人の話を聞くことが出来ないタイプでした。口から出る言葉と、飲み込むもの(納得)に難があるから、神様は病気で教えているのです。固いものを送ってきた読者は、自分か家族が不平不満で一杯なのです。
ということで、絵の上達の近道は、素直さや健全さなのです。家族関係は難しいですけど、それは自分で解決するしかなく、それが出来ない人は自分で壁を作ったも同然なのです。厳しいですけど、難しいことを選択する人に、救いの手を差し伸べても無駄なのです。簡単なことを簡単にする難しさ。モーツァルトはピアノでそれを教えているのです。
<∩`∀´> なお、リンク先を開いてずっこけても、ウリは謝罪と弁償はしないニダよ ホルホル。
エフライム工房 平御幸