外に出るとオバサンにうんざりすることがあります。
★自転車を後輪が左に来るようにして斜めに止める(普通はバイクと同じ左に傾く向き)
★自転車を引き出すのが困難なほど幅寄せして止める(自分のスペースは確保)
★雨の日に、小さい屋根のタクシー乗り場で傘をさしたまま前に詰めない(傘のない後ろの人が濡れようとお構いなし)
★小田急新宿駅の特急待ちの時、柱の座れるスペースを三人分独占
★ミスドで4人がけの席を一人で独占(混んできても知らんぷり)
★後ろが待っているのに子供にボタンを操作させる
★混んでいる特急券売り場で急がない話で係員と長話
★レジで金額が出てからカバンを開けて財布を出す(並んでいるうちに財布を出せ)
★スーパーのカゴを床に置いて、それを平気でレジ台に乗せる(汚い)
★ATMで用が済んでもなかなか離れない
このように、直接に関わらないで見ているだけでもうんざりします。職場などで関わらざるをえない人は、この何倍もオバサンにうんざりしていることでしょう。でも、ここに上げた例のうち幾つかは若い男や女も含まれているのです。決してオバサンだけのものではありません。恐ろしいことに日本中がオバサン化しているのです。
マナーの問題とか常識の問題などと言われますが、マナーや常識は家庭で育まれるもので、学校で教えるものではありません。学校に期待している人があれば大間違いです。むしろ、マナーと常識のないものは学校に入れないという厳しさが必要なくらいです。ところが、モンスター父兄と言われる、マナーも常識もない親が増えて、学校を困らせる昨今。しつけは家庭で、社会性は学校でという、基本すら理解できない大人が増えているのです。
古代史で書いているように、相手に関心を持つ、相手を自由にする、そのための自己犠牲、という愛の三原則があります。これが神へ至る道であり、これが出来ない人は人間としてのスタートラインに立ってもいないのです。生命の樹の最下層で天への階段を眺めている人。まだ人間ではありません。
体(からだ)とは、「空の体躯」という意味で、何が空なのかというと、それは霊です。霊の器がカラダであり、霊が備わって人となります。でもまだ人間ではありません。人間になるには、さらに御霊が必要だからです。御霊とは神の分身で、分け御霊として人類の腹に備えられる輝く宝石です。これが珠のようだと霊格が高く、歪(いびつ)だと霊格が低いことになります。また、御霊が輝いている人と輝きを失った人にも分かれます。
イエスが腹から命の水が流れると言ったのは、まさにこの御霊の働きを指しているのです。だから、人間の判断が及ばないシチュエーションの時には、腹の御霊に伺いを立てる必要があります。また、武士の切腹は腹の御霊を天に帰す儀式で、十文字に切るのはイエスの分け御霊だからです。
御霊が働くと、他人への関心が生まれ、自分が出来る範囲での行動が規定されてきます。悪魔に捕らわれて不自由な人にはエクソシストを。孤独な人には声を。仕事のない人には仕事を。食べるものがない人には食べ物を。
このように、お互いが関心を持ち合える社会になれば、貧困はなくなり、犯罪もなくなり、才能の無駄遣いもなくなります。しかし、スマホを見ながら歩いている人には周りは見えず、自分が軛を負った牛のように惨めな存在だとも分かりません。目が開いているのに盲目と同じ。閉ざされた心の人は、他人に関心を持つことが出来ない不具者なのです。人から人間への道は遠い。
エフライム工房 平御幸
★自転車を後輪が左に来るようにして斜めに止める(普通はバイクと同じ左に傾く向き)
★自転車を引き出すのが困難なほど幅寄せして止める(自分のスペースは確保)
★雨の日に、小さい屋根のタクシー乗り場で傘をさしたまま前に詰めない(傘のない後ろの人が濡れようとお構いなし)
★小田急新宿駅の特急待ちの時、柱の座れるスペースを三人分独占
★ミスドで4人がけの席を一人で独占(混んできても知らんぷり)
★後ろが待っているのに子供にボタンを操作させる
★混んでいる特急券売り場で急がない話で係員と長話
★レジで金額が出てからカバンを開けて財布を出す(並んでいるうちに財布を出せ)
★スーパーのカゴを床に置いて、それを平気でレジ台に乗せる(汚い)
★ATMで用が済んでもなかなか離れない
このように、直接に関わらないで見ているだけでもうんざりします。職場などで関わらざるをえない人は、この何倍もオバサンにうんざりしていることでしょう。でも、ここに上げた例のうち幾つかは若い男や女も含まれているのです。決してオバサンだけのものではありません。恐ろしいことに日本中がオバサン化しているのです。
マナーの問題とか常識の問題などと言われますが、マナーや常識は家庭で育まれるもので、学校で教えるものではありません。学校に期待している人があれば大間違いです。むしろ、マナーと常識のないものは学校に入れないという厳しさが必要なくらいです。ところが、モンスター父兄と言われる、マナーも常識もない親が増えて、学校を困らせる昨今。しつけは家庭で、社会性は学校でという、基本すら理解できない大人が増えているのです。
古代史で書いているように、相手に関心を持つ、相手を自由にする、そのための自己犠牲、という愛の三原則があります。これが神へ至る道であり、これが出来ない人は人間としてのスタートラインに立ってもいないのです。生命の樹の最下層で天への階段を眺めている人。まだ人間ではありません。
体(からだ)とは、「空の体躯」という意味で、何が空なのかというと、それは霊です。霊の器がカラダであり、霊が備わって人となります。でもまだ人間ではありません。人間になるには、さらに御霊が必要だからです。御霊とは神の分身で、分け御霊として人類の腹に備えられる輝く宝石です。これが珠のようだと霊格が高く、歪(いびつ)だと霊格が低いことになります。また、御霊が輝いている人と輝きを失った人にも分かれます。
イエスが腹から命の水が流れると言ったのは、まさにこの御霊の働きを指しているのです。だから、人間の判断が及ばないシチュエーションの時には、腹の御霊に伺いを立てる必要があります。また、武士の切腹は腹の御霊を天に帰す儀式で、十文字に切るのはイエスの分け御霊だからです。
御霊が働くと、他人への関心が生まれ、自分が出来る範囲での行動が規定されてきます。悪魔に捕らわれて不自由な人にはエクソシストを。孤独な人には声を。仕事のない人には仕事を。食べるものがない人には食べ物を。
このように、お互いが関心を持ち合える社会になれば、貧困はなくなり、犯罪もなくなり、才能の無駄遣いもなくなります。しかし、スマホを見ながら歩いている人には周りは見えず、自分が軛を負った牛のように惨めな存在だとも分かりません。目が開いているのに盲目と同じ。閉ざされた心の人は、他人に関心を持つことが出来ない不具者なのです。人から人間への道は遠い。
エフライム工房 平御幸