歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

キリスト教と儒教ー3-中江藤樹とキリスト教ー資料編 「隠れたる所にいます まことの神」

2019-02-05 |  宗教 Religion

中江藤樹の儒教思想にキリスト教の影響があった可能性を最初に指摘したのは、日本に於けるキリシタン研究の開拓者の一人でもあった宗教学者の姉崎正治である。姉崎は、1626年のイエズス会年報(ミラノ版)にもとづく、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」の次の記載に注目した。

「四国には、一人の異教徒がいて、彼は支那の哲学とイエズス・キリストの教えとは同じだと信じ、ずいぶん前から、支那の賢人の道を守ってきたのであった。彼は、キリスト教の伝道師に会って、おのが誤りを知り、聖なる洗礼を受け、爾来優れた切支丹として暮らした。」

当時藤樹は、近江の父母の元を離れて、学問研鑽のために四国の伊予で仕官していた祖父と共に暮らしており、祖父の後を継いで郷里の近江に帰ったのが1634年であったから、姉崎はここの記事を手がかりとして、英文の著作'History of Japanese Religion' (1930)のなかで、中江藤樹が切支丹の医者と交友があったという物語伝承に基づいて、「支那の哲学とイエズス・キリストの教えとは同じだと信じ、切支丹のある伝道師から洗礼を受けた儒者とは中江藤樹であったかもしれない」と指摘したのである。

 イエズス会年報の記事だけでは、キリスト者になった当該の儒者を藤樹と同定するのは単なる仮説の域を出ないが、秀吉による宣教師追放令と二十六聖人の殉教後ではあっても、四国伊予の大洲に、キリスト教の洗礼を受けた儒者がいたと云うことは、明確な歴史的事実として認められよう。

中江藤樹について、海老名弾正は「キリストの福音を聞かずして已にキリスト教会の長老なり」(「中江藤樹の宗教思想」、六号雑誌217、1899)と云い、姉崎正治の仮説の信憑性を史実に即して検証するという課題を、戦後間もない頃、賀川豊彦から与えられた清水安三は、その研究成果を「中江藤樹はキリシタンであったー中江藤樹の神学」という著書(桜美林学園出版部1959)に纏めている。海老名弾正は同志社大学の第8代総長、清水安三は桜美林大学の創立者・初代学長であるから、二人ともキリスト教を建学の精神とする大學の教養教育に関係しており、中江藤樹の思想の中に,日本の宗教的文化的伝統の中にあって、もっともキリスト教に密接している教育思想を見いだしたという点が共通している。

中江藤樹とその時代のキリシタン思想との関係については、私自身は適当な機会に私見を公開するつもりであるが、この問題について語る前に、中江藤樹の宗教思想がいかなるものであったのか、それを藤樹全集のテキストに即して確認しておきたい。以下は私が公開講座「日本の宗教と思想ーキリスト教と日本人の心」で配布した資料である。

中江藤樹の宗教思想の特徴ー「隠れたる所にいます まことの神」

 資料-1 「大上天尊大乙神経序」(藤樹三十三歳ころの作)

趣旨:全知・全能・全善の完備なる徳を備えた唯一の神を礼拝すべき事―その神は本来、名を持たないが、昔の聖人は、それを「皇上帝」とか「大乙尊神」という名號で呼び、万物に生命を与え育み養ってくださるそのかたのご恩に報い、感謝を捧げるために、地上の天子以下すべての衆生にこの神を祀ることを教えられた。

(原文):大乙尊神は、書の所謂皇上帝なり。夫(か)の皇上帝は、大乙の神靈、天地萬物の君親にして、六合微塵・千古瞬息照臨せざる所なし。蓋し天地各々一徳を秉(と)つて、而して上帝の備れるに及ばず。日月各々時を以て明らかにして、上帝の恒なるに及ばず。日月晦なれども明虧けず。天地終れども壽竟らず。之を推して其の起を見ず。之を引いて其の極を知らず。之を息むれども其の機を滅せず。之を發して其の迹を留めず。一物として知らざるなく、一事として能くせざるなし。其の體太虚に充ちて聲なく臭なく、其の妙用太虚に流行して至神至靈、無載に到り無破に入る。其の尊貴獨にして對なく、其の徳妙にして測られず。其の本名號なし。聖人強ひて之に字して大上天尊大乙神と號して、人をして其の生養の本を知つて敬して以て之に事へしむ。夫れおもんみるに、豺獺は形偏氣を受くと雖ども、一點の靈明なほ昧(くら)からずして、獣を祭り魚を祭る。しかるを況んや人は萬物の靈貴なるをや。是を以て先聖報本の禮を修め、以て天下後世を教ふ。

(現代語訳-田中):大乙尊神は、『書経』で云う皇上帝である。その皇上帝は偉大なる唯一の神靈、天地万物の主君であり親であって、六号微塵(天地四方の大宇宙と微細なる小宇宙)、千古瞬息(永劫の時間と瞬間)において照臨しない場所がない。天地はそれぞれ一つの徳をとってはいるが、その完備なる徳には及ばない。太陽も月もそれぞれ輝くときがあるが、その永遠なる輝きに及ばない。太陽と月は暗くなるときがあるが、その明るさに欠けるときがなく、天地には終わりがあるが、その寿命は無限である。時間を遡ってもその生起はなく、時間を進めてもその終局を知らない。活動をやめてもその作用は滅びず、活動を始めても、その痕跡を留めない。(至上神は)一つとして知らない物はなく、一つとして出来ない事はない。(至上神の)本体は虚空に充ち、無声無臭、その徳は太虚に遍在し、至神至靈、それよりも大なるものを載せず(無載)、それよりも小なるものによって破られない(無破)。その尊く高貴なること、独り並ぶものなき絶対者である。その徳は測ることができない。その本体には名前がない。聖人は強いてそれに字(あざな)をつけて「太上天尊大乙神」と呼び、人々に命をあたえ養ってくださる根源を知らせ、この神を敬い、この神に仕えさせるのである。考えてみると、(獲物をならべて祀る)豺(やまいぬ)や獺(かわうそ)は、(正通の気を受ける人とちがって)偏塞の気を受ける劣った生物ではあるが、それでも一点の靈明が暗くないので、獣を祭り魚を祭るのである。まして人間は万物の靈貴(霊長)ではないだろうか。このゆえに、昔の聖人は、報恩感謝の礼法を修め、天下後世の人々に教えたのである。

資料-2中江藤樹の神道(唯一神の道)における神の礼拝の意味

〇感覚によっては捉えられない「至上至靈」の超越神やさまざまな鬼神を、目に見える「靈像」として礼拝することができるか、それは迂遠で人を欺くものではないかという問に対して、藤樹は、聖賢ならぬ凡俗の身であっても、明徳の心の眼によって靈像を視るならば、「仮真一致」すなわち「有形の仮像によって無形の真の本体を視ることができる」と主張する。

或人問ふ。「詩に曰く上天の載は聲も無く臭も無し。中庸に曰く、鬼神の徳たるや其れ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず。體物遺すべからず。かくのごとくならば、即ち上帝鬼神は形色無かるべし。而るにその形を図画する者、迂にして誣ならずやと。」

 曰く「上帝鬼神は形色の言うべきもの無し。無形色をもって神妙にして不測なり。万変に通じ万化に主たること明々霊々たり。是をもって聖賢は畏敬して違わず。....一旦豁然として開悟すれば則ち明徳をもって無形の神を視ること、猶ほ瞽者の昭明にして有形の尊者を見るがごとし。有形の仮像に依て無形の真體を見得れば則ち仮真一致しその別を見ざるなり。(『靈符疑解』)

 資料3ー藤樹の摂理論:誠敬の心によって、先天的あるいは後天的な宿命を人は此の世で変化させ消滅することができるし、かりに此の世できなくとも来世で必ず幸福を受ける。

禍福壽夭皆一定の命有って、人を以て変ふべからず。然れども正あり変あり而して又始生の初に受けたる者有り、生后の行に由って受くるものあり。…天定の禍災と雖も、亦変消すべし。もし変消すること無ければ、必ず身后の幸あり」(『靈符疑解』)

 資料4ー藤樹の「陰隲(いんしつ)」論―隠れたる神の仁愛の働き

心を無聲無臭の仁に居(をき)て毛頭の盲心雑念なく、真実無妄に人を利し物をあはれむことを行ふを陰隲となづく。たとひ人を救ひ物を助くる行ありとも、心を仁にたてず、妄心雑念あらば誠の陰隲にあらず。故に心を仁にをくを陰隲の大本とす。遇に随ひ感に応じ分の宜をはかって民を仁し物を愛するのことを行ふを陰隲の末とす。本末一貫真実無妄なるが陰隲の正真なり。この陰隲は百福の基本にして、禍を転じ福となすの妙術なり。(全集2巻ー藤樹書簡集より)

 中江藤樹の儒教的な観点から再解釈され道徳化された神道は、八百万の神々を統合する唯一神、全知、全能、全善の至上至靈の神を、その隠された仁愛の働きに感謝しつつ礼拝するものであった。それは非人格的な宿命論から人を自由にする教えであり、天の仁愛のなかに自己の心につねに置くことによって、人と物(生きとし生けるもの)を愛することを教えるものであった。

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

儒教とキリスト教ー2- 「文明」とは何か:「南洲翁遺訓」より

2019-02-04 |  宗教 Religion


儒教とキリスト教ー2- 「文明」とは何か:「南洲翁遺訓」より

 明治維新と共に「文明開化」の時代が始まるが、官軍に敗れた荘内藩士たちが、敗者に名誉を与えた西郷隆盛の遺徳を偲んで記録した文書「南州翁遺訓」には「まことの文明とは何か?」という根本的な問いが含まれている。

 中村敬宇はすでに「西洋文明の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳に通じたものでなければならない」と論じていたが、佐藤一斎の『言志四録』を座右の書としていた西郷の文明論には、「文明開化」の名のもとに無批判的に西欧文明を模倣する明治新政府への批判と共に、西洋文明を支えてきたキリスト教倫理から学ぶべき積極的な「善」への評価がある。

 西郷によれば、文明とは普遍的な「道」が民によって実践されることを意味するのであって、物質的繁栄を意味するのではない。西欧諸国の文明も、その基準によって判断すべきであって、慈愛をもととして解明に導かず未開の国を暴力によって植民地化した西欧諸国は「野蛮」である。たとえば、遺訓第1条で、南州は、物質的な文明、すなわち経済的な繁栄のごとき「外観の浮華」は「文明」の名に値しないというという儒教の伝統にしたがいつつ、次の如く平易な言葉で西洋的「文明」の偽善を指摘している。

「文明とは道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」

 西欧列強が、非西欧諸国にたいして「未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利する」というのは歴史的事実であり、それこそ文明の対極にある「野蛮」に外ならないという西郷の指摘である。しかし、彼は、かかる西欧列強の植民地主義を非難するだけで終わっているのではない。西洋の「刑法」の人道的な性格について西郷は次のように述べる。

「西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑑誠となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥いるを恤ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。」

 西郷は、ここで、西洋の刑法は、我が国の儒教の教えを我が国以上に実践している物であり、真に文明の名に値する、と述べるのを忘れていない。
 犯罪人に対する過酷な取り調べと刑の執行の残虐さは、儒教の精神に反する物であるにもかかわらず、四書五経の訓詁注釈にかまけてきた儒者たちは、過酷な刑法を人道的なものとする努力を怠ってきた。これこそ、まことの文明として西欧から学ぶべきであるという指摘である。

 そして、西郷は、論語「子罕」編の「絶四(恣意・無理押・固執・我意の四つの執着を絶つ)」の言葉を引用し「敬天愛人」が天地自然の道に従って、我意を離れた講学の道なることを説いた後で、次のように述べている。

「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。」

「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」に要約される西郷の思想と実践について、内村鑑三は、『代表的日本人』のなかで、預言者の精神とキリストの教えに合致する「偉大な西郷の遺訓」がどこから由来するのか、知りたいと思うものがいるだろう、とコメントしている。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

儒教とキリスト教 -1- 「敬天愛人」の由来

2019-02-03 |  宗教 Religion

「敬天愛人」という言葉を最初に使った日本人は中村敬宇(正直)(1832-1891)である。慶応二年(1866)幕府の命により英国に留学した当時の彼は昌平黌の主席教授(御儒者)であった。日本を代表する儒者であった敬宇が、なぜわざわざ外国に留学したのか、その志は「留学奉願候存寄書付」(志願して留学する中村の意見書)につまびらかに書かれている。

その第一段で「儒者の名義を正す」として、「天地人に通ず、これを儒といふ」とし、学問は支那一国に限らぬ普遍的なものであると再定義した。

第二段で、アヘン戦争後の中国の先例に触れ、西洋との交渉は通訳任せであってはならず、和漢の学に通じた者が留学すべきであると説いた。第三段で、中村の考えていた西洋の学問について次のように述べる。
 
「西洋開化の国にては凡その学問を二項に相分け申し候様に承り申し候。性霊の学、即ち形而上の学、物質の学、即ち形而下の学、とこの二つに相分け申し候ふ。文法の学、論理の学、人倫の学、政治の学、律法の学、詩詞学律絵画彫像の藝などは性霊の学の項下に属し申し候。万物窮理の学、工匠機械の学、精錬点火の学、本草薬性の学、稼穡樹芸の学は物質の学の項下に属し申し候。」

これまで蘭学者達が西洋から学んできたものは、専ら科学技術(物質の学・形而下の学)であって、実用的な利益を上げるための手段智にかぎられてきた。学問の根幹をなす倫理道徳の道(性霊の学・形而上学)、人倫の学、政治学、法学を学ぶためには、少年生徒による留学生では不十分であり、西洋の倫理の善悪を熟慮考察し、その正邪得失を判断するためには、東洋の道徳の基礎に通じたものでなければならない、と論じている。

いわゆる「和魂洋才」とか「東洋道徳西洋芸術」(佐久間象山)のごとき立場を越えて、西洋の物質文明の根底にある、人倫と政治の学問に関心を持った敬宇は、ミルの「自由論」(帰国後、敬宇はそれを「自由之理」として邦訳する)を読み、西洋民主主義の根本思想を学ぶ。

帰国後(明治元年)に書いた西国立志編の『緒論』では、
「君主の権は、その私有にあらざるなり」
と述べ、
「君主の令するところのものは、国人の行んと欲するところなり。君主の禁ずるところのものは、国人の行ふを欲せざるところなり」
と、君主を馬車の乗客、国民を馬車の乗客に譬えている。
どちらに進むべきかは乗客の意向で決まるのであり、御者である君主は客の意向に従い車を走らせれば良いと云うのであ。

敬宇は、英国下院(House of Commons)を「百姓の議会」上院(House of Lords)を「諸侯の議会」、国会議員を「民任官」と翻訳し、理想的な国会議員を、

「必ず学明らかに行ひ修まれるの人なり。天を敬し人を愛するの心ある者なり。多く世故を更へ艱難に長ずるの人なり」

と規定した。

〇「敬天愛人」とは、このように明治元年、中村敬宇によって、人民によって国会議員に選ばれた者の心得という文脈で、日本で初めて使われたのである。

静岡の学問所で敬宇の講義を聴いた者の中に、薩摩藩士の最上五郎が居た。彼は敬宇の思想を西郷南州に伝え、西郷はそこにみられた思想に共鳴し、「敬天愛人」の書を多く遺すことになったのである。

 静岡時代に敬宇の書いた『敬天愛人説』では、はじめに儒教の伝統の中で「敬天」と「愛人」に関する諸説を引用したうえで、それをキリスト教の倫理にも通じる普遍的な道徳であることを論じている。

①「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり。人は吾と同じく天の生ずる所なるは、乃ち吾兄弟なり。天それ敬せざるべけんや、人それ愛せざるべけんや。」

②「何ぞ天を敬すると謂ふ。曰はく、天は形無くして知る有り。質無くして在らざる所無し。その大外無くその小内無し。人の言動、その昭鍳を遁れざること論なし。乃ち一念の善悪、方寸に動く者、またその視察に漏れず。王法の賞罰、時に及ばざる所有り、天道の禍福、遅速異なると雖も、而モ決シテ愆る所無し。」

③「蓋し天は理の活者、故に質無くして心有り。即ち生を好むの仁なり。人これを得て以て心と為せば、即ち人を愛するの仁なり。故に仁を行へば、則ち吾心安じて天心喜ぶ。不仁を行ヘば、則ち吾心安ぜずして天心怒る。」

④「それ天は肉眼を以て見る可からず、道理の眼を以てこれを観れば、則ち得て見るべし。天得て見るべくば、則ち敬せざらんと欲するも、何ぞ得べけんや。」

⑤「古より善人君子、誠敬を以て己を行ひ、仁愛を以て人に接す。境地の遇ふ所に随ひ、職分の当然を尽す。良心の是非に原き、天心の黙許に合ふを求む。」

⑥「故に富貴を極めて驕らず、勲績を立てて矜らず。窮苦を受けて憂へず、功名に躓きて沮らず。禍害を被リ阨災を受くると雖も、快楽の心、為に少しも損せず。これ豈に常に天の眼前に在るを見るに由るに非ずや。天道の信賞必罰を信ずるに由るに非ずや。」

⑦「若しそれ天を知らざる者、人と争ふを知るのみ、世と競ふを知るのみ。知識広ければ、則ち一世を睥睨し、功名成れば、則ち眼中人無し。願欲違へば、則ち咄咄空に書す。禍患及べば、則ち天を怨み人を尤む。自私自利の念、心胸に填塞して、人を愛し他を利するの心毫髪も存せず。これ豈に天を知らざるの故に非ざるか。」

⑧「是に由りて之を観るに、天を敬する者、徳行の根基なり。国天を敬するの民多ければ、則ちその国必ず盛んに、国天を敬するの民少なければ、則ちその国必ず衰ふ。」

「天は我を生ずる者、乃ち吾父なり」以下の文では「天」は人格的な性格が顕著であり、儒教の「天」よりもキリスト教のHeaven(=God)に近い用法である。敬宇は、帰国途上で読んだSamuel Smiles のSelf-Help(自助論)をのちに「西国立志編」として邦訳したが、そこでの「天はみずから助くるものを助く」の自主独立の精神の根底にあるものは儒教的な語で書かれたキリスト教倫理ともいえるものであった。

この「敬天愛人論」を呈された大久保一翁 は中村敬宇にあてた書簡のなかで、この言葉が、当時の蘭学者に知られていた聖書の漢訳に由来する者であることを指摘している。

しかし、一翁 は、当時禁教であったキリスト教の聖書に由来すると云っても、そこに書かれていることは儒教の教えと変わりなきものだから、これを刊行しても一向に差し支えないとして、次のように云っている。

「旧新約書中の語にても御稿の趣にては聊か嫌疑も有之間敷候、何の書出候とも其辺は唐土二帝孔夫子も同様と存候、……既に敬天愛人と四字並候西洋物漢訳書中より鈔し置き事に候。且御文の趣にては何の嫌疑も有間敷存候。」

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」(1658)を読むー「棄教」後のキリスト信仰と聖母の祈りについて

2019-01-22 |  宗教 Religion


遠藤周作の「沈黙」の主人公ロドリーゴ神父のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父の墓碑が2016年1月26日に調布市の有形文化財に指定された。当時のカトリック新聞
「キアラ神父は(棄教)後にキリスト教の教えを説く本(現在行方不明)を書かされました」という記事があった。しかし、キアラ神父が「棄教」後に書いたこの本は「行方不明」ではなく、新井白石の「西洋紀聞」に抜粋があり、更に詳しい内容は、姉崎正治の「切支丹宗門の迫害と潜伏」(大正14年刊行)から知ることができる。
 これらの文献を読む限り、神父を拷問にかけ、踏絵で「ころばせる」ことを職務としていた「宗門改」の役人に倣って、キアラ神父を「棄教者(ころび伴天連)」と呼ぶことが、どれほど浅薄なものであったかと思わざるを得ない。
 キアラ神父の「宗門大要」は、17世紀ころの迫害のさなかを生きたキリスト者の信仰の内容を当時の日本語で忠実に伝えてくれる第一級の資料である。
  たとえば当時の切支丹は「十戒」をどのように理解していたか。「宗門大要」は次のようにそれを伝えてくれる。
〇十箇条のマンタメント(Mandamento)はデウスよりの御掟の事
第一、 御尊体のデウスを万事に越えて御大切に存じ、尊み奉ること
第二、 デウスの尊き御名にかけて、空しき誓すべからず候こと
第三、 御祝日をつとめ守るべきこと
第四、 父母に孝行にすべし
第五、 人を殺すべからず
第六、 他犯すべからず
第七、 偸盗すべからず
第八、 人を讒言すべからず
第九、 他の妻を恋すべからず
第十、 他の物を猥に望むべからず
右十箇条はすべて二箇条に極まる也
一には、御一体のデウスを万事に越えて御大切に存じ奉ること。
二には、わが身の如くに、他人を思ふべき事是れなり

「宗門大要」では、現代では「愛」と訳す言葉を「御大切」と訳している。これは、現代の私たちにも心にしみる訳語ではないだろうか。たとえば、「汝の敵を愛せよ」というよりも「汝の敵を大切にせよ」と言うほうが、生きた翻訳のような気がするがどうであろうか。

また、「主の祈り」(おらしょ=Oratio)も、当時の生きた言葉で翻訳されている。

〇 天にまします我らが御親、御名をたつとまれたまへ、
御代きたりたまへ。天に於て思召ままなる如く、地に於てもあらせたまへ。我らが日々の御やしなひを、今日我らにあたへたまへ。我ら人にゆるし申すごとく、我らが科(とが)をゆるしたまへ。我らをテンタサンにはなし給ふことなかれ、我らを今日悪よりのがしたまへ。アメン。

この「主の祈り」の翻訳は、「われらの父」ではなく「われらの御親」と訳すところなど、先行する「どちりな・きりしたん」の「ぱーてる・なうすてる(pater noster)」と基本的にかわらないが、「隣人」を表すポルトガル語の「ぽろしも」を「ひと」と訳すように、外来語の音写をやめて、当時の日本人に耳で聞いてわかる言葉に、できる限り近づけようとしている工夫がみられる。

「どちりな・きりしたん(キリストの教え)」によれば、「我らの御親」の「我ら」は貴賤を問わぬすべての人をさす言葉であり、(異教徒も含めて)万人はみな同じ親を持つ兄弟姉妹であるというキリスト教の普遍的なメッセージを伝えている。それは「父」と訳すよりも「御親」と訳すことによってよりよく伝わる。「日々の御やしない」は、(聖体拝領の時に唱える場合)、朽ちる身体ではなく朽ちない心(アニマ)を養う霊的な糧であり、(毎日の食事の時に唱える場合)、われらの身体をやしなう物質的な糧でもある。心と身体の両方の糧を表す語として「御やしなひ」を当時の切支丹は理解していたと思う。

「宗門大要」では、「サンタマリア」の祈りは次のように訳されている。

〇ガラサ(Gratia)みちみちたまふマリアに御礼をなし奉る。
御主は御身と共にまします女人のなかに於て、わきて御果報いみじきなり。また御胎内の御身にてましますゼズスはたつとくまします。デウスの御母、サンタマリア、今も我らがさいごにも、我等悪人の為に頼みたまえ。アメン。

「宗門大要」には「雪のサンタマリア」についての伝承も記録されている。この伝承については、私のブログでも前に触れたことがあるが、潜伏切支丹の大切な遺産となった「雪の聖母」の絵姿とともに「宗門大要」のアヴェ・マリアの祈りが一つなって聞こえてきたような気がした。

遠 藤周作の「沈黙」の最後の場面は、仏教の葬儀儀礼に従って棺桶に入れられたロドリーゴ神父の持っていた懐剣が、十字架に変容するシーンである。これはスコセッシ監督のこの映画にこめたもっとも重要なメッセージである。
  浄土真宗の門徒として埋葬されたキアラ神父の墓碑は、1943年におなじイタリア人のタシナリ神父によって発見され、サレジオ修道会に大切に保管された。
 そのとき、この墓碑銘の「入専浄眞信士霊位」は、仏教の戒名から、キリスト教の「浄い真の信仰を示す墓標に変容したのではないだろうか。
 キアラ神父がその生まれ故郷で「殉教者」として絵に描かれていることも、決して誤解によるものではなく、通常の意味での殉教とは違った意味に於て、真実を語っているものだと私は思う。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栁瀨睦夫先生の帰天十周年記念フォーラム

2018-12-09 |  宗教 Religion

栁瀬睦夫先生の帰天十周年記念フォーラムが土曜日の午後上智大学でありました。

 私が栁瀨先生とはじめてお目にかかったのは、昭和45年に東大駒場に新設された大学院に非常勤講師として出講され、「科学基礎論(量子力学の観測問題)」の演習を担当されたときのことでした。この演習は、おなじく非常勤講師として駒場に出講されていた本郷の哲学科の山本信先生、そして東大物理学科で栁瀨先生と同期だった大森荘蔵先生も参加され、院生達と三人の先生方による白熱したdiscussionが続いたのを覚えています。

 当時、私は、栁瀬先生の演習の他に、伊東俊太郎先生の「プラトンの講読」、山崎正一先生の「カント講読」「道元<正法眼蔵>講読」をとっていた記憶があります。

  栁瀨先生がカトリックの司祭、山崎正一先生は谷中の興禅寺のご住職でしたので、お二人とも哲学の道の出発点にキリスト教と仏教という普遍的な世界宗教がありました。

  今になって回想すると、科学・哲学・宗教の三つの領域の交差する場所で仕事をしてきた私は、様々な形で両先生の影響を受けていたのだなと実感します。

  私が『科学基礎論研究』に発表した最初の論文は「アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンの議論とベルの定理ー量子論における分離不可能性」(Vol.19 No.3)、二番目の論文は
「アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンの相関と相対性理論」(vol.19 No.4)でした。

 これは、当時話題となっていたベルの不等式の反証という実験的事実が意味するものは、量子力学の完全性をめぐるボーアとアインシュタインの論争点に決着をつけたものではなく、「局所的実在の分離不可能性」であるというのが私の第一論文の主題、そして「局所性の破棄」と相対性理論との関係が私の第二論文の主題でした。

「実在とはなにか」、と言う根本的な問いを回避せずに、分離不可能な全体をテーマにするという考え方、量子論と相対論を統合する(将来の)物理理論の基礎となる実在論はどのようなのとなるか、という問いかけを、私は、栁瀨先生と共有していました。

山崎正一先生は、日本哲学会の会長でしたが、のちに下村寅太郎先生等と共に「日本ホワイトヘッド・プロセス学会」を創設され、その初代会長となりました。数学者、理論物理学者、科学哲学者、宗教哲学者、刷新されたプラトン主義に基づく文明論にいたる形而上学の道を歩んだホワイトヘッドを私が大学院での研究テーマに選んだこと、また私が、山崎先生が創設された「ホワイトヘッド学会」の現在の会長を務めていることにも、先生との出会いという不思議な縁を感じます。

 12月8日のフォーラムでは、稲葉肇、江沢洋、村上陽一郎、小沢正直、青木清、の諸先生の後で、私も、
『「隠された実在論」と「永在場」ー 栁瀨睦男先生の遺著『神のもとの科学』を読む』という主題の講演をしました。

「隠された実在論」とは、私の理解するところでは、
「隠れたる神」が、科学・哲学・宗教(無神論者も含む)の立場の違いを超えて、万人にとって共通の実在であるという前提のもとに、万人に対して開かれた議論をしようという栁瀨先生の実在論の態度表明です。

それは「真か偽か、中間はない」という二値の形式論理を越えて、日常生活に於ける言語の曖昧さないし両義性を許容し、全ての他者とのコミュニケーションの共同体をめざす考え方と言えるでしょう。

そして、栁瀬先生は、スコラ哲学の硬直した形式主義を越えて、理性と神秘の間にたって思惟したトマス・アクイナスの原点に還って、刷新されたトマス的実在論の哲学ーそこでは超自然は自然を破棄せずに完成するーをご自身の哲学の立場とされました。とくに、宇宙に於ける人間の位置を、永遠と時間の中間にある「永在場」と捉えられたところにその実在論の特徴があります。

 『神のもとの科学』には栁瀬先生の自伝的な回想も含まれていますが、そのなかでも広島の原爆をきっかけとして物理学者からカトリック司祭の道を歩まれるようになった栁瀬先生のプリンストンでのオッペンハイマーとの交流、またキューバ危機の後に「地上に平和を」という回勅を出されたヨハネ23世教皇に触れている箇所が印象的でした。

ヨハネ23世は第二バチカン公会議を招集され、戦争の危機の時代に於けるカトリック教会の現代的刷新を開始された教皇でした。次いで教皇となられたパウロ6世の「我々の時代に nostra aetate」という宣言はユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教と云った諸宗教の垣根を越えてカトリック教会が宗教間対話の重要性を認めるきっかけとなりました。このような諸宗教の立場を越えてすべての地上の人々に開かれた教会こそが、まことに「普遍の教会」の名に相応しいでしょう。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「世界難民移住移動者の日」に寄せて

2018-09-24 |  宗教 Religion

 9月の第4日曜(今年は9月23日)を、カトリック教会は、「世界難民移住移動者(Migrants, Refugees, and People on the Move)」の日としている(1970年以降)が、「聖書と典礼(教会暦)」の「年間第25主日」が「世界の難民のために捧げられた日」となったのは、「国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにすること」を重んじたパウロ6世教皇の考えに基づくものであった。それは第二バチカン公会議の精神に沿うものであり、宗教間対話の原則を確立した「我々の時代に(nostra aetate)」の宣言とともにカトリック教会の刷新を意味している。
 ユダヤの民は何度も亡国の危機に遭遇し、その民は世界各地に離散した。詩編には、そのような難民となったイスラエルの民の祈りの歌ともいうべきものがたくさん収録されている。バビロン捕囚以後、祖国に帰還したユダヤ人達は、エルサレムの神殿を再建し、音楽の伴奏をつけた詩編を歌った。詩編の前書きには、音楽上の指示と思われる言葉が数多く残されている。ユダヤ民族の難民としての苦しい経験から生まれた詩編と、亡国をもたらした為政者を呵責なく批判する預言書、さらに「ソロモンの智慧」のようなギリシャ語で書かれた智慧書が、新約聖書とそれにもとづくキリスト教の典礼に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
 たとえば、9月23日の典礼で、入祭唱(introitus)、憐みの賛歌(Kyrie)、栄光の賛歌(Gloria) のあとで朗読される旧約聖書は「ソロモンの智慧(智慧の書)」の「義人の苦難」の預言であるが、それはあきらかに福音書の受難物語に呼応するものである。「ソロモンの智慧」は(原文がヘブライ語ではなくギリシャ語で書かれているため)ユダヤとプロテスタントでは残念ながら正典に数えられていないので、その朗読箇所を引用しておこう。そこでは、「主に逆らう者達」の言葉として、
「本当に彼が神の子なら助けてもらえるはずだ。敵の手から救い出されるはずだ。暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために、彼を不名誉な死に追いやろう。」
(智慧2:17-19)
  キリストの受難・死・復活の物語を基軸とする典礼のなかで、このようにそれを預言する旧約の「智慧書」の一節が朗読されること、そしてそれに続いて、「上から出た智慧」の「純真・温和・優雅・従順」の心にもとづく「正義の果実」は、「平和を実現する人によって平和の内に蒔かれる」と述べる使徒ヤコブの手紙、「人の子は引き渡される。いちばん先になりたいものは全ての人の後となり、すべての人に使える者となりなさい」というマルコ福音書のイエスの言葉が朗読される。
  この日の典礼では、「智慧書」朗読の後の昇階唱Graduale では、「まことをもって主を呼ぶすべての人の近くに主はいます」と答唱詩編がうたわれる。各人の「自己よりも近くにいます主」に呼びかける歌である。「すべてのひと」が異邦人を排除しないことに注意しなければなるまい。
 現在のフランシス教皇もまた、この「世界の難民と教会との連帯」を強く訴えている。たとえば、2015年の「すべての人の母である国境のない教会は、受容と連帯の文化を世界樹に広める」というメッセージ、2018年の「移住者と難民に対する受け入れ、保護、促進、共生」への呼びかけが記憶に新しい。 

おりしも9月23日の「世界難民移住移動者の日」に朝日新聞は朝刊に昨年度日本における難民申請者二万人に対して認定されたのはわずかに20名にすぎなかったこと。それとともに長期にわたる「不法滞在者」が急増し、彼らは劣悪な環境に置かれているために自殺者も出ているといういう記事を掲載していた。記事には「不法滞在者」とあったが、これは差別語ではないだろうか。カトリック教会では「非正規滞在者」と呼ぶが、そこには、やむを得ぬ事情で「移住移動」してきた異邦人を隣人とみなす視点がある。2018年の教皇フランシスのメッセージでは「共生(integration)」を同化(assimilation)と明確に区別して、異邦人を日本人に同化するのではなく「他者」の多様性を尊重しつつ共に生きる道が勧められている。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法然上人絵伝を読む

2018-07-07 |  宗教 Religion

秋学期(十月四日開講、連続八回)の上智大学公開講座のテーマは「キリスト教と日本人の心」とする予定です。春学期の公開講座「仏教と日本人の心」のほうは昨日終了しましたが、春秋両学期とも受講を希望される方もいらっしゃるので、春学期の最終日の講義は「法然上人絵伝」の人物像をテーマとしました。私は、井上洋治神父の「法然ーイエスの面影をしのばせる人」に共鳴するところが多いので、日本人の心に深く記憶されている法然上人の伝記、教説と説法、門弟達の行伝、階級差別を乗り越えて感化を受けた民衆の物語りのなかに、イエスと「使徒のはたらき」、病を癒やされた民衆の純一な信仰など、新約聖書の様々な物語の面影を求めてみました。
 「絵伝」の第一巻に、父に遺恨を持つ者の夜襲を受け、重傷を負い、死の床で法然(幼名勢至丸)に遺した言葉が記されています。「敵を決して恨んではいけない、敵討ちをして遺恨に遺恨を重ねる世界に救いはない、それよりも仏門に入って此の世から解脱して父の菩提を弔ってほしい」という父の遺訓ー隣人も仇敵も、善人も悪人も差別せずに、その一人一人を愛する精神ーに従い、様々な...法難に遭遇しても自分を迫害した者を少しも恨まなかった法然のなかに、井上神父は、福音書の伝えるイエスの面影を見ています。
 「絵伝」には、当時の保守派の仏教徒たちの念仏停止の訴状に対する法然の弁明と門弟達への誡めも収録されています。「他宗派の誹謗中傷をせず、宗派的論争を避けるべき事、信心は一人一人の人間を大切にすることであり、「群集」は闘諍の因縁となる」という現代にも通ずる法然の遺訓が収録されています。 選択本願念仏の「選択」とは、ただひと筋の道に専念することですが、それは理論ではなく実践の問題であり、各人の自由な選択の事柄だというー宗教的な「選択」と他宗派への「寛容」を同事に主張するー考え方が、晩年の法然によって明確に述べられています。
 「絵伝」には、様々な階層の人にあてた法然の書簡と説法も収録されていますが、讃岐国に流罪が決まった法然が、弟子達の別れに際して、「自分に身に降りかかったことを少しも不幸とは思っておらず、自分に危害を加えようとした者こそ、むしろ哀れむべきだ」とのべるあたり、獄中のソクラテスが弟子達に語った言葉を想起させました。京都ではなく田舎の人々に念仏の教えを説くことこそ平素からの念願であったから、自分にとって流罪は恩恵のようなものだと語る法然の言葉どおり、「絵伝」は、船旅で四国に向かう途上、漁師の夫妻と「室の遊女」の求めに応じて法然の行った説法を記録しています。鈴木大拙は、『日本的霊性』のなかで、法然と遊女との出会は、「日本霊性史の上に記録すべき一事である」と述べていました。女人成仏は、法然の教えの根幹にあり、法然は式子内親王(正如房)や北条政子にも説法の消息を書いていますが、「絵伝」は、そのような天皇の息女や武家の頭領という身分の高い「女人」だけではなく、最も差別されていた女人ー遊女ーが、法然の親身な説法によって、一向専心に念仏することを教えられ「臨終正念」を得て、浄土に往生したことを伝えています。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法華経の統合思想ー上宮王私集 法華義疏を読む

2018-06-12 |  宗教 Religion

 

 法華経の統合思想ー上宮王私集「法華義疏」を読む
 
「法華義疏」は、上宮王(かむつみやのみこ=聖徳太子)の真蹟が皇室の宝物としてほぼ完全な形で伝承されている。この書の成立は古事記や日本書紀よりも古い。おおよそ1400年も前に書かれたこの太子真筆の書を現在の我々が閲覧できることは奇蹟的であり、日本文化の貴重な遺産と言って良いであろう。(書かれた時期からすれば「勝鬘経義疏」のほうが古いが、現在は古写本のみが残存している)「法華義疏」は、「勝鬘経義疏」とおなじく、同時代の三韓と中国の代表的な注解(本義)、様々な対立する諸解釈を適宜に取捨選択したうえで、太子自身の主体的な意見(私見)を随所に記した簡潔ながらも優れた注解書である。
 
 法華義疏には後世の伝承者の但し書きが付記されていて、そこには「此は是、大委国上宮王(やまとのくにかむつみやのみこ)の私集(わたくしにあつむるところ)、海彼(わたのあなた)の本にはあらず」とある。「私集」という位置づけは、内容的に見て非常に剴切だと思った。
 
 推古天皇を始とする皇族達に講義するための覚え書きが義疏の原型であろう。様々に異なる注解の伝承をふまえ、適切な配列によって簡潔に要約したうえで、自己の主体的な解釈を述べるというのが太子の著作の作法(エクリチュール)である。太子以後の日本人がこの書を伝承するに際して、この「私集」が、海の向こうの本ではないと言ったとき、その心はやはり、「ここはこれまで次のように解釈されてきた。しかし私は・・・と考える」というこの義疏の独特の主体的なエクリチュールに感銘を受けたからに外ならない。
 
この自信に満ちたスタイルは、遣隋使を派遣するときに、朝貢国としての臣下の礼をとらず、隋と日本の「天子」を対等に見る国書をもたせたのと同じ精神の所産であり、世俗の皇帝に優先する普遍的な「仏法」を重んじた太子の思想からすれば、中国大陸を治める唯一無二の皇帝である煬帝も、日出る国の天子も、統治者としては対等でなければならない。このあたりが普遍的な世界宗教の立場に立つ仏法の力なのである。
 
それと同事に聖徳太子の時代にシルクロードを経由して中国と日本に伝えられた大乗仏教そのものが、すでに当時の諸宗教を統合する世界性をもっていたことにも注意すべきであろう。アレキサンダー大王のインド遠征は紀元前三二七年のことであったが、それ以降数百年に及ぶインドとギリシャとの交流は、貨幣の流通のような経済面のみならず、文化的宗教的な相互影響をもたらした。紀元前二世紀後半に成立した『弥蘭王問経』はギリシャ人の弥蘭王(メナンドロス)と仏僧那先比丘(ナーガセーナ)との間でなされたプラトンの対話篇を想起させる経典であり、おそらくこの経典の原典はギリシャ語で書かれ、それがパーリ語に訳されたものらしい。漢訳された「那先比丘經」は日本にも伝えられている。
 
上智大学哲学科で長らく仏教思想を担当していただいた河波昌教授の『形相と空』によれば、大乗仏教は、どこまでも釈尊以来の伝統的な『仏教の基盤にたちながらも、他方において全面的にギリシャ文化、あるいはペルシャを含むヘレニズム文化の交流を通じて発展していったのである。ギリシャの形相主義はキリスト教のうちに統合されて「キリスト教的プラトン主義」を生み出したが、おなじ形相主義が、インド仏教と接触することによって「高次の形相主義」とも言うべき大乗仏教を生み出したのである。
 
智慧の完成行(般若波羅蜜)の智慧とは、自己自身を知る覚知にほかならないが、それはまさにソクラテス以来、ギリシャ哲学が目指していたものに外ならない。また小乗仏教の説一切有部の存在論は、涅槃を永遠なる有(無為法)として対象化して捉える点で二世界説をとり、生死輪廻の世界から永遠なる世界の覚知によって解脱することをめざして修行する点で、プラトンのイデア説と同じ二世界説の世界観を採用していた。このような考え方が、後期プラトンの対話篇「パルメニデス」やアリストテレスによって批判され、それが新プラトン主義を経由してキリスト教に大きく影響したことは西洋哲学史ではよく知られている事実であるが、仏教の発達史を見ると、それと並行的な現象がプラトン主義の批判的摂取というかたちで大乗仏教の「高次の形相主義」に現れている。すなわち、身心の実体的分離の教説や二世界説は、龍樹以後の大乗仏教のなかでは絶対否定され、「般若波羅蜜」の智慧は、「色即是空、空即是色」の「即」に要約される身心一如を根本とするようになった。矛盾的相即 すなわち対立者の一致こそがクザーヌスのキリスト教的プラトン主義においても法華経と龍樹の思想に立脚する天台教学においても、普遍的な世界宗教としてキリスト教と仏教の核心を表す思想なのである。
 
般若心経の「色即是空。空即是色」はサンスクリット語では、rūpam śūnyatā śūnyatāiva rūpam であるが、それはrūpa=śūnyatāの等式の単なる倒置的反復ではなく、後半部分は「空なればこそ色なれ」と訳すのが剴切であり、そこには空の場において積極的に色を生かす「高次の形相主義」の主張が表明されている。仏舎利を礼拝する仏塔の建造は原始仏教以来行われていたが、大乗仏教はその礼拝をさらに推し進めて、仏像の製作と礼拝に意義を見いだすようになるが、そこには、有限な像を通じて無限なる法身である仏陀の現前を体験するという経験があった。この見仏(観仏)の経験(初期大乗経典では般舟三昧とよばれる)が、「空」(かたちなきもの)の場において色(かたちあるもの)を生かす大乗仏教へと発展していったのである。
 
--------------------------------------------------------------------------------
 
法華義疏第一 (影印の和訳)
 
姚秦の三蔵法師鳩摩羅什詔を奉じて訳す
 
此は是、大委国上宮王(やまとのくにかむつみやのみこ)の私集(わたくしにあつむるところ)、
海彼(わたのあなた)の本にはあらず
 
【総序】夫れ妙法蓮華経とは、蓋し是れ總じて萬善を取りて、合して一因と為るの豊田、七百(年)の近壽(『首楞嚴經』の説)轉じて長遠と成るの神薬なり。若し釈迦如来の此土に応現(機に応じて身を示現)したまえるの大意を論ずれば、将に宜く比経の教を演べて、同歸(万善同じく一如に帰す)の妙因を修し莫二(一乗平等)の大果を得せしめんと欲してなり。但し衆生の宿殖の善(前世からの善の種子)は微かにして神(精神)は闇く根は鈍く、五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)は大機(大乗の機根)を障へ六弊(慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡)は其の慧眼掩うを以て、卒かに一乗因果の大理(大乗の真理)を聞べからず。所以に如来は時の宜きに随ひ、初は鹿(野)苑(ムリガダーバ。今のベナレスの北方のサルナ―ト)に就いて三乗の別疏(声聞・独覚・菩薩の三乗の別々の道)を開いて各趣の近果(手近な悟り)を感ぜしめたまえり。此従り以来、復た平しく無相(空)を説いて同く(三乗の人が)修することを勧め、或は中道を明して褒貶(大乗を褒めて小乗を貶す)したまえり雖ども、猶を三因別果(三乗の因も、果も、各別なりと)の相を明かして物(衆生)の機(機根)を養育したまえり。是に於て衆生は年を歷て月を累て教を蒙り修行して漸漸に解を益し王城(王舎城、すなわち法華経説法の場所)に於て始て一(同一)の大乗の機(機根)を發すに至り、如来出世の大意にかなえり。是を以て如来は即ち萬徳の厳軀を動して眞金の妙口を開き、廣く萬善同歸の理の明かして莫二の大果(同一の大果)を得せしめたまえり。
 
【經題釈】<妙法>とは、外国には薩達摩(サッダルマ)といふ。然るに「妙」とは是れ麤(粗雑)を絶するの號(となえ)にして、法とは即ち此の経の中に説く所の一因一果(因も一乗、果も一乗)の法なり。言うこころは、此の経のなかに説くところの一乗因果の法は、超然として昔日の三乗因果の麤を絶するがゆえに、妙と称するなり、と。蓮華とは外国には分陀利華(プンダリーカ)という。この物の性たるや、花と実と倶に成(有)る。此の経は、因と果とならべて明かすこと、義は彼の花に同じ。故にもって譬えとなすなり。経とはこれ聖教の通名にして、仏語の美(別)号なり。
 
(花山信勝校訳 岩波文庫による)

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝鬘経義疏と聖徳太子ー菩薩の大いなる願い

2018-06-08 |  宗教 Religion
勝鬘経義疏と聖徳太子ー菩薩の大いなる願い
 
 古書店で花山信勝校訳の勝鬘経義疏を入手。聖徳太子千三百六十年御忌、花山聖徳堂建立二十周年記念の栞があり、著者の自筆の献本署名が入っていた。はしがきに「終戦の詔勅によって、明治以来の武の日本が崩壊した。新しい日本の基盤は文でなければならぬと考える。そこで終戦の翌日から、わたくしはわが国最初の著書である勝鬘経義疏の校訳に微力を傾倒し始めた」とあった。
 吉川弘文館から昭和52年に刊行された花山先生の校訳本の優れたところは、敦煌本『勝鬘経義疏本義』慧遠撰『勝鬘経義記』、吉藏撰『勝鬘宝崫』などの当時の大陸の釈義との綿密な比較作業を経たのちに、上宮王、聖徳太子の自筆と推定される文章を選び出しているところにある。和訳は、現代語訳ではなく、漢文を大和言葉に読み換える伝統に沿った独特の書き下し文で非常に格調の高いものであった。勝鬘経義疏の素晴らしさは、日本書記や古事記よりも前の著作だという古さだけにあるのではなく、時代を超えて現在の我々の状況を照明する古典であることによる。
 内戦と海外出兵に起因する万民の苦しみ、百済の滅亡に伴う大量の難民の渡来、大国の隋と唐による帝国支配に抗して如何に自主的な対等外交を展開すべきかーこういう課題は太子の時代と現在に共通するのではないか。四天王寺に設置された悲田院を始めとする太子の社会福祉の理念は叡尊や忍性によって受け継がれた。仏教的な社会奉仕の原点は菩薩行であるが、そこにも「自分行」と「他分行」がある。菩薩の十の段階のうち八番目以上の段階は、自力でできるものではないので、仏の行としての慈悲行と即ち他分行と位置付けられている。浄土真宗の絶対的な本願他力の思想はまだないとはいえ、エゴイズムの克服を目指す菩薩行が、自然な人間の本性を超えるものから来るという思想は既に現れていると思った。17条憲法の精神も勝鬘経の十大受章、三大願章を抜きにしては十分に理解できないのではないだろうか。
 勝鬘経は、女人成仏を明確に説いている点で、大乗経典の平等思想を男女差別を超えて徹底させた経典として読むことができる。勝鬘夫人は将来、仏となって全ての人を救済する仏国土を建立するだろうということが釈尊によって保証される。仏教用語で受記とよばれるこの保証は、法華経でも重要な意味を持つ思想であるが、全ての衆生を仏としたいと言う心底からの願いが根底にあるに相違ない。これを本覚思想とか如来蔵思想などと言う後世の註釈家の用語でまとめる前に、テキストそれ自身をよく読む必要があるだろう。勝鬘経で「物」と言う語は「衆生」を意味していることに注意したい。したがって万人を救済することは万物を救済することにつながるのである。そこには、被造物の全てを救済しようとする新約聖書と東方キリスト教の教えに通底する救済観がある。如来が胎児のように我々のうちにあるという教えは、わたしには受胎告知と同じく、男性優位の社会で成立した宗教では奇跡としか言いようがない福音だったのではないだろうか。世俗の煩悩にまみれた身体の中の種子のごとき如来が、泥池の白い蓮のように花を咲かせ身を結ぶと言う教えは、世俗の只中に福音を見る教えでなくてなんであったのだろうか。
 勝鬘経の「一体三宝論」は、仏法僧の三宝のどれにも他の二つが内在するが故に一つのものであるという論であって、それはキリスト教の初代教父たちの論じた三位一体論に照応する仏教的な三一論として、非常に興味ふかい議論であった。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」

2018-05-14 |  宗教 Religion
「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」
 
 五月一三日、「聖グレゴリオの家」のミサに参列。「主の昇天」の主日のミサの説教の後、ベネディクト会の「オブラーテ(献身者)」の入門式と誓願式が、来日中のドイツ聖オッティリエン大修道院のラバヌス・ペトリ神父の司式で行われました。オブラーテとは「聖ベネディクトの戒律」の精神に従って献身的な生活をする在俗の信徒のことをさします。 オブラーテの誓願式では、ベネディクト会の「戒律(regula=rule)」を記した書とともに、司祭から誓願者へと蝋燭の灯火を手渡す儀式が行われました。
 このところ、道元についてFBで書いてきましたが、道元には、主著『正法眼蔵』とおなじく和文で書かれた重要な著作として『永平大清規』があります。
 「清規」とは「修道者が守るべき規則」のことで、「清」とは「清衆」つまり修行道場の雲水のこと。
『永平大清規』と呼ばれる一連の著作を成立順に列挙すると、
1 「典座教訓」2 「対大己法」3 「辨道法」4 「知事清規」5 「赴粥飯法」 6「衆寮箴規」
で、道元三七歳の深草興聖寺に始まり、帝都を離れて山林に修行場を求めた道元が、越前吉峰寺、大仏寺、大仏寺改め永平寺にて著述した最晩年のものまで含みます。
 「聖ベネディクトの戒律」が単に修道会の規則にとどまらず、今日のカトリック教会では在俗信徒が、世俗の中の福音を実践するためにも良く読まれています。それと同じく、道元の「清規」もまた、出家者だけでなく、在家にあって「菩薩行」をおこなう人の生活の指針として読まれてきました。
 私は、とくに「典座教訓」という「永平清規」に惹かれます。道元の禅においては、料理や食事と云った日常生活の「作法」がそのまま仏道であるという教えが説かれています。入宋時の道元自身の体験を踏まえた大切なエピソードがあり、「修道」とはなにか、「文字とは何か」についての道元と老典座との対話問答が記されています。これについては、改めて次に、私なりに考えてみたいと思います。
 
===========================
 
 「聖ベネディクトの戒律(古田暁訳)」はドン・ボスコ社からポケット版で、「典座教訓」は、故秋月龍珉老師の解説付きで大法輪閣または講談社学術文庫で読むことができます。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄泉に下る菩薩―道元の遺偈についての考察

2018-05-12 |  宗教 Religion
黄泉に下る菩薩―道元の遺偈についての考察
 
前に法華経の行者としての道元について語ったときにも言及したが、入滅を前にして道元は法華経神力品の一節を唱えながらそれを柱に記した。その翌朝、道元は居ずまいを正して次の遺偈(遺言としての詩)を弟子達に残したと云われている。(建撕記)
 
五四年第一天を照らす  この𨁝跳を打し大千を触破す
咦、渾身もとむるなし  活きながら黄泉に陥つ  
 
道元禅師の遺偈の遺偈、とくに「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)の結びの言葉についていささか私見を述べたい。
 
生前に悟りを開いた人ならば、肉体の死は「無余涅槃」に入ることを意味するのだから、輪廻転生の世界から完全に解脱するはずである。浄土を信ずる他力門の人ならば、肉体の死後極楽往生が決まっているはずであるから、地獄に落ちる心配など無いであろう。それでは、道元禅師の遺偈の「活きながら黄泉に陥つ」とは何を意味するのであろうか? 
 
道元の遺偈は単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察するのが妥当であろう。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。
 
如浄ー道元ー懐奘 と受け継がれたものは「菩薩戒」による仏道の実践であったと思う。菩薩の道は、「一切の衆生を救済しようという」大悲の誓願に基づく。如浄から嗣法した道元の仏道とは「見性成仏」だけの「禅宗」という宗派ではなく、菩薩道の実践としての大乗禅であった。
 
「黄泉に陷つ」とはマイナスのイメージを持つ言葉である。端的に言えば「地獄に落ちる」ことであり、悟りを開いた人が行くべき処ではないであろう。鈴木大拙によれば、「凡ての人を救うためならば、自分はたとえ地獄に落ちてもかまわない」という心構えが菩薩道だとのこと。上求菩提下化衆生の菩薩の誓願をさらに徹底した禅師の言葉として道元の遺偈を読み直してみたい。
 
「五十四年 照第一天 打箇𨁝跳 觸破大千」
 
大千とは三千世界のことで、法華経の行者でもあった道元は、第一天から地獄に至るまで、一瞬にしてこの世界すべてに触れ、それらを突破したであろう(一念三千の徹底)。
 
「渾身無覓 活陷黄泉」
 
菩薩はあえて涅槃に入らず、地獄に落ちた罪人を救うために自ら黄泉に下っていく。「無覓」とは「求むること無し」という意味であるが、それは「自分一身の幸せを求むること無く」と解したい。
 
「渾身」という言葉は、「身の全体をあげて」という意味であるが、道元の「正法眼蔵」の「摩訶般波羅密」で引用されている如浄禅師の「風鈴頌」のキーワードでもある。道元はこの詩について「これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり。渾他般若なり。渾自般若なり。渾東西南北般若なり」と云っている。般若心経の「般若」とは仏の智慧を意味するが、単なる分別知などではなく、「一切の苦しみを度する智慧」「一切を差別せずに救済する知恵」であり、菩薩道では「大悲」となって働く。
 
如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。これは罪の懺悔であるが、菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する。それこそが縁起(自己と無関係なものは何一つない相互依存性)を活きる菩薩の実感なのであろう。
 
如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元の遺偈を、この意味で「黄泉に下る菩薩」のことばとして読むのが妥当であろう。
 
============================
  如浄禅師の遺偈
 
六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 
咦 従来生死不相干
 
  道元禅師の遺偈
 
五十四年 照第一天 打箇𨁝跳 觸破大千 
咦 渾身無覓 活陷黄泉  
 
  孤雲懐奘の遺偈  
 
八十三年如夢幻   一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去  
虚空踏翻没地泉
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について

2018-05-12 |  宗教 Religion
仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について
 
建長五年(一二五三)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。
 
「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」
 
僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、転法輪の場所であり、完全なる涅槃に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。
 病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。
 晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。
 
道元禅には菩薩道の実践という意味があったことは、「傘松道詠」所収の次の和歌からもうかがわれる。
 
 愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん
 草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん
 
道元の師、如浄禅師もまた、「座禅の中において衆生を忘れないこと」一切の衆生を慈しみつつ座禅の功徳を廻向する」ことの大切さを説いている。
 
「いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の諸仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。」
(『宝慶記』ー入宋沙門道元自身が記録した如浄との問答記録ーによる)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元の男女平等観ー「礼拝得髄」再読

2018-05-12 |  宗教 Religion
道元の男女平等観ー「礼拝得髄」再読
 
「平等」は「博愛」と「自由」とならんでフランス革命以後の西欧近代の人権思想を特徴付ける基本語であるが、その意味するところが真に理解されているとは言いがたい。人権思想はキリスト教に由来する欧米の価値観の表現に過ぎず、それ以外の宗教を背景に持つ東洋の文明には無条件で適用できないということが、日本の伝統思想を重んじると自負する人から語られることが多い。しかし、日本思想を形成した仏教の古き伝統にさかのぼることによって、「平等」「博愛」「自由」という三つの基本語の意味するものに、単に西洋近代にのみ限定された特殊なイデオロギーではなく、古今東西を超えた普遍思想を見いだすことはできないであろうか。
 
まずはじめに「平等」について、それも最近問題となっている「女人禁制」の宗教的制度の批判や仏教に於ける「男女平等」について考えてみたい。
 
道元は正法眼蔵の「礼拝得髄」の巻で次のように「女人禁制」の「結界」を批判している。
 
「日本国にひとつの笑ひごとあり。いはゆる、あるいは結界の地と称し、あるいは大乗の道場と称して、比丘尼・女人を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、ひとわきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。あるいは権者の所為と称し、あるいは古先の遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人の腸もたえぬべし。権座とはなにものぞ。賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か。また、ふるきををあらためざるべくば、生死流転をば捨つべきか」
 
女人禁制は、「邪風(誤った風習)」であるにもかかわらず、長い間おこなわれているために何人もその間違いを知らず、「稽古の人(伝統を考慮する人)」も改正せず、博学達識の人が考慮も論議もしないのは、腸がよじれるほど可笑しなこと、古くからのしきたりであると言うだけで現状維持に甘んじてそれを変革しないというのは、生死流転の世に執着してそれを捨てないのと同じだ、という道元の舌鋒は鋭い。
 
 男性中心的な価値観の浸透した社会で制度化された仏教には様々な女性差別が行われてきたことは歴史的事実であるが、道元は、「極位(最高位)の功徳は(男女)差別せず」
とのべたあとで、優れた女人の仏弟子の実例を挙げ、「阿羅漢(聖者)となった尼僧は多く、女人が既に仏となったときには、その仏の功徳は世界中に充満しただろう」とまで言っている。
 
 最近、相撲の土俵の上に女性をあげることの是非が新聞を賑わせたが、相撲はもともと「神事」であり、レスリングのような単なる格闘技ではない。土俵の上は聖なる空間と俗なる空間を区別する「結界」の意味がある。したがって「結界」の持つ宗教的意味を考慮しないで単に世俗の男女平等倫理だけで女人禁制について論じることはできないであろう。それでは仏教者として男女平等論を説く道元は、「結界」についてどう言っているのか。
 
 道元は「諸仏の結びたもう結界に入る者が諸仏も衆生も大地も虚空もあらゆる繋縛から解脱して諸仏の妙法に帰源すること」を重視し、結界という小世界のみを清浄な場所として女人を排除するのではなく、「一方や一区域を結するときは宇宙全体が結せられる」ことをわきまえ、「済度摂受に一切衆生みな化を蒙らん功徳を礼拝すべし」と結んでいる。
 
 「諸仏の妙法」という根源に帰ったところから看れば、結界に女人を入れないという差別思想が入り込む余地はない。
 
 以前、道元から深く学んだ岡潔の思想について述べたときにも言及したように、「無差別智」をもって真智とし、差別構造を生み出す「分別知」を妄知として退ける仏教的智の伝統を我々は思い起こす必要があるだろう。それこそが、男女の平等を実践する宗教的基盤を与えていると思う。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿闍世王の懺悔と救済の物語

2018-03-26 |  宗教 Religion

宗教哲学フォーラム
ー日本の宗教思想と宗教的思惟からの霊性ー

シンポジウム提題:田中 裕  (2018/3/25 於上智大学)

阿闍世王の懺悔と救済の物語

考察の課題―五逆の罪を犯したり、正しい仏法を誹謗した者にも救済はあるか。

『無量寿経』の第一八願の願文の末尾に「唯除五逆誹謗正法」とあり、これは従来「ただ五逆の罪と誹謗正法の罪だけは救いの対象から除外する」という排除規定として読まれてきた。そうすると摂取不捨という弥陀の本願と矛盾しないだろうか?

伝統的解釈

すでに曇鸞の時代に、この問題は意識され、道綽の安楽集では、の第一八願趣意では、排除規定は省略されている。善導は、これを排除の意味ではなく如来の願いを込めた抑止門とされ(謗法・闡提・廻心皆往)未造の者に対する抑止、已造の者は廻心さえすれば救うという意味に解釈する。除外規定は教育的配慮として付加されたというのが伝統的解釈では支配的である。

新しい読み方―本文批評にもとづき罪悪と罪を犯した人を区別する

「五逆」も「誹謗正法」も犯した人をいうのではなく、「罪そのもの」を指す。したがって、この文は「五逆と誹謗正法の罪を犯した者を救いの対象から除外する」という排除規定ではなく「五逆と誹謗正法の罪そのものを取り除く」と理解する。観無量寿経に

「除八十億劫生死之罪」「除無量億劫生死之罪」「除却千劫極重悪業」・・・の文があり、多く「除・・」は極悪人を救いから排除するという意味ではなく、罪そのものを端的に除くという意味である。[1]

親鸞の解釈

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふ言葉なり、五逆の罪人をきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんためなり。(『尊号真像銘文』)

五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪をけすまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらしめんがためなり。(『唯信証文意』))

『教行信証』は信巻の根本テーマとして、「逆謗摂取釈」を取り上げている。そして、浄土三部経だけでなく涅槃経の「阿闍世王懺悔」の物語を長文に亘って引用している。

それ仏、難治の機を説きて、涅槃経に云わく。迦葉、世に三人あり、その病治し難し。一には謗大乗、二には五逆罪[2]、三つには一闡提[3]なり。かくのごときの三病、世の中に極重なり。悉く声聞縁覚菩薩のよく治するところにあらず。善男子、譬えば病あれば必ず死するに治することなからんに、もし瞻病・随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病[4]随意の医薬なからん、かくのごときの病、定めて治すべからず。まさに知るべし、この人必ず死せんこと疑わず。まさに知るべし、この人必ず死せんこと疑わずと。善男子、この三種人、またまたかくのごとし。仏菩薩に従いて聞治を已りて、すなわちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。(『涅槃経』現病品からの引用)

阿闍世王の物語の引用

また言わく、その時、王舎大城に阿闍世王あり。その性弊悪にしてよく殺戮(せつろく)を行ず。口の四悪[5]、貪・恚・愚痴を具して、その心、熾(し)盛(じょう)なり。….しかして眷属のために現世の五欲の楽に貪著するが故に、父王、辜なきに横ざまに逆害を加す。父を害するに因りて、己が心に悔熱を生ず。…..時に大臣あり、名付けて月称という。王の處に往至して、一面にありて立ちて申さく。大王、何が故ぞ憔悴して顔容悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん。王臣に答えて言わく、われ今身心に豈痛まざることを得んや。我が父辜なきに、横さまに逆害を加す。われ知者に従いて嘗てその義を聞き「世に五人あり、地獄を免れずと。言わく五逆の罪なり」と。我今已に無量無辺阿僧祇の罪あり。いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医の我が身心を治するものなけん。(「涅槃経」梵行品からの引用)

一 臣下達のアドバイスと当時の「尊師」と評判の高い人たちの教え

月称のアドバイス(尊師 富蘭那を王に推薦)

〇王のようにいつも憂い苦しむものは憂いが増すばかりで無益この上ない。

〇王は地獄に落ちることを恐れているが、地獄とは、だれもそれを見た者はなく、実際には存在しないのに、世の人が勝手に想像しているだけである。だから、地獄落ちを恐れる必要なない。

蔵徳のアドバイス(尊師 末伽梨句賖梨子(まかりくしゃりし)を推薦)

〇 世間の法にも迦羅羅虫や騾馬の子が母親のからだを害して生まれる例があるから、王のしたことを不自然だと言うことはできない。

〇仏法では人間以外の衆生を殺害することでも罪になるが、王法は仏法とは違う。国を治めるものは、父王を殺して王になったとしても王である立場には変わりはない。父王が死んだ後、その子が王になるのは当然である。

実徳のアドバイス(尊師 冊闍耶毘羅緹子(さんじゃやびらていし)を推薦)

〇父王は前世のカルマによってそのような死に方をしたまでであって、阿闍世王が罪を犯したわけではない。すべては前世の宿業によるのだから、阿闍世王は罪の意識を持つ必要はないし、悩み苦しむ必要もない。

悉知義のアドバイス(尊師 阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたししゃきんばら)を推薦)

〇(唯物論の立場から)地獄も餓鬼も天界も存在しない。

〇 前世の業が因縁となって次の世に果報となるなどと言うことはない。

〇 阿闍世王のように父王を殺して王位を継いだ者は過去にも現在にもたくさん居る。だから罪を感じて悩む必要はない。それは世間にはよくあることだから。

吉徳のアドバイス(尊師 迦羅鳩駄迦旋延(からくだかせんえん)を推薦)

〇 大地の一切は破壊されるものだから、何を破壊しても罪にはならない

〇 父は殺害されて天界にいくことができたのだから、それは悪いことではない。

〇 殺生はかえって新しい命を得ることなのだから、罪ではない

〇 有我の立場をとると、自我という実体は永遠不変だから、肉体を殺してもその人の本体は死んでいない。

〇無我の立場をとると、殺す人も殺される人もそもそも存在していないのだから、罪は成立しない。

〇 火が除木を焼き、斧が木を切り、刀が人を殺してもそれらには罪はない。直接に害を加えた者に罪がないのだから、間接に手を下したものに罪はない。

無所畏のアドバイス (尊師 尼乾陀若提子(にけんだにゃだいし) を推薦)

〇 先王は沙門を重んじ婆羅門をうけいれなかったが、王は沙門と婆羅門を平等に受け入れ人民を安んずるために先王を殺害したので、それは罪ではない。

〇 殺害とは寿命を奪うことであるが、命は風気であり、風気の本質は殺害できるものではない。

耆婆のアドバイス (自身が医師であった耆婆が、彼が帰依していた釈尊を推薦)

〇 慚愧こそが人をして人たらしめる。

慚とは自らが罪を作らないこと。愧とは他人に罪を作らせないこと。また

慚とは自ら恥じること、愧とは人に向かって自らの罪を告白することである。また

慚とは人に対して恥じること、愧とは天に対して恥じることである。

慚愧のないものは人とは呼ばず、畜生と呼ぶ。慚愧があるから父母、師や年長の人を敬い、父母、兄弟姉妹の関係も保たれる。

 

阿闍世王の懺悔の物語の構成

〇 耆婆のアドバイスに続き、誹謗正法の重罪を犯した提婆達多の物語が語られる。

〇 亡父 頻婆沙羅(びんばしゃら)の声が天上より聞こえる。

阿闍世の犯した悪業の罪は決して逃れられないこと、速やかに仏陀のみもとにいくべきこと。仏陀以外の誰もおまえを救うことはできない。誤った考えを持つ六人の大臣の言葉に従ってはならない。

〇 涅槃を前にした仏陀の言葉の引用

「善男子、わが言うところのごとし、阿闍世の為に涅槃に入らず。かくのごときの密義、汝いまだ説くこと能わず。何を以ての故に。われ為と言うは、一切凡夫、阿闍世とは普くおよび一切五逆を造るものなり。また為とは即ちこれ一切有為の衆生なり。われついに無為の衆生の為にして世に住せず。何を以ての故に。それ無為は衆生にあらざるなり。阿闍世とは即ちこれ煩悩等を具足せるものなり。」

 

親鸞の教行信証のみならず、道元もまた鎌倉行化に際して書き残した文書、いわゆる「白衣舎の示誡」のなかで涅槃経の上記の部分をそのまま引用している。鎌倉行化の目的は、おそらく北条時頼に菩薩戒を授けるためと想定されるが、時頼もまた阿闍世王と同じく若くして覇権を守るために権力親族を殺害した権力者であった。

 

菩薩行としての道元禅について

いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)

 

道元の道詠歌(一七四六年に面山瑞方が編集した『傘松道詠』所収)

  

愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん

草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん

 

正法眼蔵 「授記」の巻―成仏の保証

 

佛祖單傳の大道は授記なり。佛祖の參學なきものは、夢也未見なり。その授記の時節は、いまだ菩提心をおこさざるものにも授記す。無佛性に授記す、有佛性に授記す。有身に授記し、無身に授記す。……

釋迦牟尼佛藥王に告げたまはく、又、如來滅度の後、若し人有つて妙法華經を聞きて、乃至一偈一句に、一念も隨喜せん者に、我れ亦た阿耨多羅三藐三菩提の記を與授すべし……

我身是也の授記あり、汝身是也の授記あり。この道理、よく過去現在未來を授記するなり。授記中の過去現在未來なるがゆゑに、自授記に現成し、他授記に現成するなり。

 

道元最後の旅―法華経行者としての道元

 

夜もすがらひねもすになす法の道みなこの経の声と心と

道元の伝記である建撕記など道元の和歌を収録した古写本の巻頭にある歌で、「法華経五首」という題が付されている歌の一つである。「夜もすがらひねもすになす法の道(通霄終日作法道)」とは夜も昼も不断に「法道(のりのみち)」を行ずること。この歌は、その行仏が、皆、法華経の語りかける声であり、法華経の心に他ならないと詠んでいる。道元は「行仏」という言葉をよく使うが、それは法華経の言葉を聞くこと、法華経の心に「感応道交」して「仏を行ずる」ことを意味しているようだ。正法眼蔵「唯仏与仏」に「仏の行といふは、尽天地とおなじく行ひ、尽衆生とともに行ふ。もし尽一切にあらぬは、仏の行ひにてはなし」とある。 「行仏」を可能ならしめる根拠は「唯仏与仏」によれば、自己に先立つ現実の「仏の行」である。 「谿声山色」に仏の声を聞き、「而今の山水は古仏の道現成なり」という正法眼蔵のことばが対応している。

 最晩年、道元禅師は療養のために滞在していた京都で、病状の予想外の悪化に直面し入滅の近きを悟り、法華経「如来神力品」の次の句を誦しつつ、面前の柱に書き付けた。(建撕記)

若於園中(もしくは園中において) 若於林中(もしくは林中におおいて) 若於樹下(もしくは樹下において)若於白衣舎(もしくは白衣の舎)若在殿堂(もしくは殿堂にありて)若山谷曠野(もしくは山谷曠野)

是中皆応起塔供養(是の中皆まさに塔を起て供養すべし)

所以者何当地是処(ゆえいかんとなれば、まさに知るべし是の処は)

即是道場諸仏於此(すなわち是れ道場にして、諸仏は此において)

得阿耨多羅三藐三菩提(阿耨多羅三藐三菩提を得)

諸仏於此転於法輪(諸仏はここにおいて、法輪を転じ) 

諸仏於此而般涅槃(諸仏はここにおいて般涅槃す)

 

道元の遺偈

五十四年 照第一天 打箇𨁝跳  觸破大千 咦 渾身無覓 活落黄泉

(五四年第一天を照らす この𨁝跳を打して 大千を触破す 咦(にい)

 渾身もとむるなく 活きながら黄泉に落つ) 

「活きながら黄泉に落つ」の解釈―究極の菩薩道として

「黄泉に下る菩薩」と「地涌の菩薩」(法華経「従地涌出品」)という二つの対比的イメージ

原始キリスト教の使徒信条―「苦しみを受け、十字架につけられて死し、黄泉に下り、三日の後に死者の内から復活するキリスト」を信じる信仰との比較  

  



[1] 北村文雄著『教行信証と涅槃経』、永田文昌堂 参照

[2] 五逆:殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧

[3] 一闡提:icchantika 断善根・信不具足の極悪罪人

[4] 瞻病:看病することまたは看病人 

[5]四悪:妄語・両舌・悪口・綺語

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アウシュビッツ以後の神学―ハンス・ヨーナスとの対話―

2016-03-29 |  宗教 Religion

アウシュビッツ以後の神学―ハンス・ヨーナスとの対話―

田中裕(プロセス思想第16号2014, pp.9-24より転載)

 ハンス・ヨーナスといえば、「責任という原理―科学技術文明のための倫理学の試み」という主著で提示された世代間倫理の提唱者として著名であり、日本でも環境倫理学の文献でよく引用されている。私もまた、二〇一〇年度の本学会シンポジウムで「共生の哲学」をテーマとして発表したときに、生命と環境に関する彼の哲学をホワイトヘッドの有機体哲学との関連において論じた。今回の講演ではその続きとして、ハンス・ヨーナスの思想を倫理学や存在論といった哲学的文脈ではなくて、伝統的には「神義論(theodicy)」として知られている神学的文脈において取り上げたい。

 (一)ハンス・ヨーナスの「アウシュビッツ以後の神概念」について

 ハンス・ヨーナスは、ハイデッガーとブルトマンの指導の下でグノーシス思想の研究で学位を修得したことから知られるように、古代末期のヘレニズム世界の宗教者の生の実存論的分析に通じていた人であったが、日本で紹介されてきた倫理学的著作においては、ユダヤ教やキリスト教の宗教的傳統に明示的に言及することは稀であり、理性的な討議を超えた宗教に関わる事柄には禁欲的な哲学者としての立場を守っていたといえる。しかしながら、その晩年において、強制収容所でなくなったユダヤ教のラビ、レオポルド・ルーカス博士を記念する賞を、チュービンゲン大学より授けられた時に、ヨーナスは、ルーカスの母と同じくアウシュビッツで死亡した自分自身の母親のことを思いつつ、受賞記念講演のテーマに選んだのが「アウシュビッツ以後の神概念―ユダヤの声」であった。その講演の内容はヨーナスから哲学者としての発言を期待していた聴衆を驚かせたが、ヨーナスは、それまで自らのユダヤ教信仰については寡黙であった自分が、敢えてこのようなテーマを選んだ理由について、「アウシュビッツの靈たちが黙せる神に向かってあげた長くこだまする叫びに対して、なにがしかのの答えのようなものを試みる、そのことを断念しないことこそ、その人々に対する責務である」と述べている。[i] 数千年にわたる受難の歴史を持つユダヤ民族にとっても、アウシュビッツの出来事は、先例のない途方もなく苛烈な経験であって、ヨーナスはこの経験が神とどう関わるのかと問わないわけにはいかなかったからである。哲学者として普遍妥当的な論證をすることはカント以後の理論的哲学ではとうに断念されたことではあるが、実践理性に関わる信仰の事柄として、ヨーナスはあえて神学の領域に踏み込んだのである。世俗化した現代においては、哲学者が神について語ることは異例である。しかしながら、理性にもとづく概念的思索が及ばぬ場合であっても、知りうるものの彼岸の領域を前にしてミュトスを語ったプラトンに倣い、ヨーナスは、様々な神話的な象徴を援用しつつ、倫理的実践の指針となるべき理念としては首尾一貫した神概念を提示することを辞さなかったのである。そのような理論理性を超えた領域に踏み込むことを、アウシュビッツの犠牲者たちと同じ時代を生きた一人のユダヤ人の哲学者の義務と考えたことが、ヨーナスがこの記念講演を行った理由であった。

「この世で義しき人、信仰篤き人が受難を被るのはなぜか」あるいは「神に選ばれた民であるユダヤ人がなぜ異教徒に侵略され、虐殺され、祖国を失い、捕囚の屈辱を受け、異教徒のうちにあって隷従しつつ生きなければならないのか」という問は、受難の民と言うべきユダヤ教徒にとっては歴史的なものであった。それは、聖書の諸書、たとえばヨブ記や預言書のなかでアブラハム・ヤコブ・イサクの神への無条件的な信仰、モーゼの律法の遵守という文脈で繰り返し語られたものであったし、ある意味で旧約聖書の根本的主題でもあった。この歴史的な問が、第一次世界大戦以後のドイツにおけるユダヤ人の虐殺という現実を前にして、新たに切実な問いとして蘇る。

ユダヤ教やキリスト教における神義論の歴史を繙いてみれば、我々は様々な解答の試みを見いだすであろう。ユダヤ人の受難は、この民族が神との契約を守らなかったこと、神に忠実ではなかったことの罰として因果応報的に説明されたか、あるいは「もっとも正しく罪のない人が民族の罪を背負って最も過酷な悪を被る」こと、つまり罪なき人の贖罪的な犠牲ないし殉教として説明されてきた。しかしながら、ヨーナスはこのような類型的な説明は、現代人にとっては説得力を失っているという。アウシュビッツという名を持つ出来事は、ユダヤの歴史経験にいまだかつてなかったものを新たに付け加えたのであり、それは従来の神学のカテゴリーでは手に負えぬものであるからである。

とくに真の救済を来世に期待するのではなく此岸に神の創造、正義と救いの場を見ようとするユダヤ教徒にとっては、アウシュビッツそのものが大きな問題となる。神は歴史を支配するものであり、この伝承された神の概念を信ずるものにとっては、厳密な学問的論證はできずとも、神義論の根本的な問いに対して新たな答えを探さなくてはならないからである。

ヨーナスの神学的議論の特徴は、伝統的なユダヤ・キリスト教の神学的な神の概念の一つである「神の全能」を否定することにあった。正統的な神学では異端とも見えるこのような見解を彼が取らなければならないとなぜ考えたのか、それを説明する前に、彼の理性的な議論の根源にあるパトスを端的に表現するものとして、ヨーナスに大きな影響を与えた一つの証言、アウシュビッツの犠牲者の一人であった若きユダヤ人女性、エティ・ヒレスムの残した次のような証言をあげなければならない。

「神が命じるところなら、私はこの地上のどんな場所にも行く。私はどんな状況でも、死に至るまでこう証言する用意がある。・・・」

「神よ、あなたが私をお見捨てにならないように、私はあなたを助けましょう。でも、私はあらかじめ何も保証することができないのです。ただひとつこのことだけが私にはますますはっきりしてきました。あなたは私たちを助けることができず、私たちがあなたを助けなくてはならないということです。そうすることで、私たちはついには私たち自身を助けることになりましょう。肝心なのはただ一つのことです。私たちのうちにあるあなたの一部を救うこと、神よ。・・・・ええ、神様、あなたにしても、この状況の多くを変えることはできないようにみえます。・・・・私はあなたから説明を求めません。あとになって、あなたは私たちに説明を求めるでしょう。ほとんど心臓が脈打つたびに私にますますはっきりしてくるのは、あなたは私たちを助けることができず、私たちがあなたを助けなくてはならないということ、私たちの内にあるあなたの住処を最後の最後まで守らなくてはならないということです。」[ii]

 ヨーナス自身が引用しているこのユダヤ人女性の証言は、我々の外部にあって、世界と歴史を支配する「全能の神」にたいする信仰の告白ではない。その点において、義人の受難という問に対して旧約聖書のヨブ記の作者が与えた解答とは全く異なっている。アウシュビッツという極限的な状況で発せられたこの言葉は、全能の神でなければ信仰に値しないと考える伝統的なユダヤ・キリスト教の神概念では説明ができないであろう。

 エティ・ヒレスムの証言に深く突き動かされたヨーナスは、この信仰のパトスのうちに内在しているロゴスを「アウシュビッツ以後の神学」のなかで展開している。その議論の出発点は、「神の全能」、「神の善性」、そして「神の理解可能性」をすべて認めることは論理的に不可能であるというトリレンマである。全能にして絶対的に善なる存在でありながら、アウシュビッツのような根源悪を前にして沈黙する神は、全く理解不能なものとなるであろう。しかしユダヤ教の教えであるトーラーは、神の理解可能な言葉によって預言者に伝えられたものであり、完璧ではないにせよ、人間が神を理解できるということを前提としている。したがって、神を理解可能であって、善であり、しかも世界にはアウシュビッツのような不合理な災禍が現に存在したということを真摯に認めるならば、神の属性と伝統的に考えられたもののなかで真に否定しなければならないのは「神の全能」という概念である、というのがヨーナスの議論である。

 しかしながら、いかにアウシュビッツが新しい神学的思索を要求するといっても、その神学は、それを語るものがユダヤ教徒あるいは、キリスト教徒であるならば、ユダヤ教やキリスト教の傳統と無縁なものであることはできない。伝承された様々な物語、ミュトスの再解釈ということが必要となるであろう。ヨーナス自身は、もともとグノーシス思想の研究者であったという経歴があるからであろうか、ユダヤ教の「神の収縮Zimzum」[iii]という神話を手掛かりにして、神と世界の関係を次のように説明している。

この仮説的ミュトスによれば、世界を存在せしめるために神は自己の存在を断念し、その完全性をみずから放棄したというのである。つまり世界の創造とは、超越的なる神の自己否定に他ならず、このような神の自己否定によって、世界が存在するのである以上、私たちの世界に対する帰属は、世界の外に立つような「摂理」によっては決して緩和されることのない厳しいものともなりうるのである。このような世界において、人間は世界の外部からの「全能なる神」の超越的救済をあてにすることはできない。本質的に偶然と冒険に支配されたこの苦しみに満ちた世界のただ中において、人間は、被造物としての自己に内在する神に対して責任を負わなければならないというのである。

 ヨーナスはそのようなミュトスから、(1)受苦する神(2)生成する神(3)気づかう神、という三つの神概念を引き出している。最初の「受苦する神」という概念はキリストの受難という概念と類似しているが、救済論ではなく創造論の文脈ですでに語られている点で、伝統的なキリスト教神学とは異なっている。「生成する神」とは「永遠に自己と同一である完璧な存在を所有する代わりに、時間の中で明らかとなる神」という概念である。それは、超時間性、非受動性、不可変性を必然的属性としてもつという伝統的なキリスト教神学の神概念とは矛盾するが、旧約聖書の神概念とは対立しないものである。またこの「生成」という概念は、キリスト教的形而上学に対するニーチェの代替案にほかならぬ「永劫回帰」とも矛盾し、同一事態の反復を決して許さない。神自身が、世界の歴史的過程を通じて冒険を行っている以上、世界と共につねに、否定によって自己の同一性を越えて時間的に進展しゆく存在である。最後に「気づかう神」とは、「遠くに身を置き、自らのうちに完結している神ではなく、自分が気づかうことに巻き込まれてしまう神」であり、「被造物のことを被造物のために気づかう神」であって、それこそが聖書にもとづくユダヤ教の根本信仰の中でもっともよく知られたものである。そしてこの三つの概念によって、聖書の傳統と結びつきつつ、「全能なる神」という絶対的に超越的な力を強調する伝統的な神概念を否定するところにヨーナスの神学的思弁の特徴があると言って良いであろう。

 (二)プロセス神学における神義論について

 ここで、ヨーナスとは独立に、「神の全能」という概念を退けてきた米国のプロセス神学における神義論を参照しつつ、「アウシュビッツ以後の神学」というテーマをヨーナスとは違った観点から再考してみたい。ヨーナス自身は、プロセス神学については全く言及していないし、またプロセス神学者達も、神義論の文脈では、私の知る限りでは、ハンス・ヨーナスの神学的思弁を無視しているようである。そうであるにもかかわらず、前節でのべた神概念の三つの契機と神の全能という概念の否定は、基本的にはプロセス神学の基本的特徴でもある。そしてこの一致は偶然ではなく、両者ともにホワイトヘッドの形而上学的思弁の影響をそれぞれが違った形に於てではあるにせよ受けているからであろう。

 たとえば、チャールズ・ハーツホーンの『全能およびその他の神学的誤謬について』は、ハンス・ヨーナスの「アウシュビッツ以後の神概念」とほぼ同じ時期に出版された著作であるが、その後のプロセス神学の神義論の背景となる神学的な論点を要約したものと言って良い。そこで彼は、従来のキリスト教神学の「誤謬」として(1)神は絶對的に完全であるがゆえに不変である(2)神は全能である(3)神は全知である(4)神の善性は共感を欠いている(5)不滅とは死後に生命の担い手が存続することである(6)啓示は不可謬である、という六つの論点を挙げている。[iv] この本のタイトルにもしめされているように、「神の全能」の否定こそが、彼が提唱するプロセス神学、すなわち「新古典主義的有神論(neo-classical theism)」の根本特徴であるという主張を展開している。また、デイヴィッド・グリフィンの『神、権力、そして悪―プロセス神義論』[v]は、伝統的な「神の全能」概念を前提すれば、悪の實在という経験的な論拠から無神論が帰結するという直截な議論を展開している。それは、神の理解可能性、神の善性、および神の全能という三つの概念は同時に主張することができないという点でヨーナスの議論と同じである。

このようにプロセス神学者達は、伝統的な神学上の概念である「神の全能」を退ける点において、ヨーナスと同じであるが、ヨーナスとは違って、単なる神話的なイメージによって、真実らしき物語として神学的思弁をしているわけではなく、ホワイトヘッドの「過程と實在」の形而上学と「形成途上の宗教」における宗教哲学に依拠しつつ、「新古典主義神学」ないし「プロセス神学」という新しい神学を積極的に提唱している点が異なっている。

ヨーナスにおいては、神の存在の自己否定という出来事―自らの力を放棄して世界に完全に譲渡する神について神話的に語られたために、この神話的な物語において、世界創造以前の神が、「存在するもの」として、依然として前提されている。そのような存在者としての神が「存在」と自らの「完全性」を放棄することによって世界の「創造」という一回限りの出来事が生起し、それ以後は、神は全能をみずから放棄して、世界の進行を世界自身にゆだねるというごとき図式が残存している。これに対して、ホワイトヘッドの「過程と實在」で中心的な位置を占める概念は、「無からの創造」という天地開闢のときにのみ生起した一回限りの出来事ではなく、今この瞬間において、そしていかなる瞬間においても同じように絶え間なく作用している「創造性(creativity)」である。

 「創造性」は如何なる意味でも対象化されざる根源的な活動であり、現実的な存在者としての神よりも存在論的に先行する。時空を越えた無限なる現実的存在者としての神をすら超越する「創造性」は、一性と多性とならび、神と世界とに共通の超越論的述語であり、普遍の普遍(the universal of universals)である。「創造性」は存在と価値に関しては無記であり、それが現実化するために神と世界を共に必要とする。活動的存在(Actual Entity)としての神は、伝統的神学で前提されていたような「全能の創造主」ではないが、決して無力なる存在ではない。そもそも「存在とは力である」というのがホワイトヘッドの存在論の根本的特徴であり、神であれ有限なる活動的生起であれ、およそ現実に存在するものにして無力なるものは何一つ存在しない。ただし、ここでいう力とは、ホワイトヘッドが、プラトンの対話編である『ソフィステース』に登場するエレア派の客人の言葉から取ったものであるが、それは「他者からの影響を受容し、かつ他者に影響を与えることのできる力(デュナミス)」という意味であり、「力」の概念は「他者」を必然的に前提するのである。ホワイトヘッドはこの考え方をさらに徹底的に推し進め、存在者としての自己と他者の相互主体的な関係性を、創造性の活動によって常に新たなる活動的存在が生成していく出来事としてとらえている。すなわち、経験の主體は他者の存在を前提として生成し、自らをあらたなる一つの存在として、他者の新たなる生成のために自己を与える自己超越的主體(subject-superject)でもある。ヨーナスは、唯一回限りの世界創造において神はその力を世界に譲渡したと物語的に語ったが、ホワイトヘッドの場合は、自己の存在の他者への譲渡は、生成する歴史的世界のひとつひとつの存在者の間で各瞬間瞬間において常に生起している根源的な出来事である。いうなれば、それは神話としての物語ではなく、客観的にして主体的な事實そのものである。「創造性」は、さらに「一」と「多」という超越論的述語と組み合わさって究極の範疇(the categories of the ultimate)を形成する。「多」を「一」とならんで超越論的述語とするところに、ホワイトヘッドがプラトン主義の伝統を批判的に継承しつつ、プラトン以後の人類の経験を総括して、世界の多様性を積極的に肯定する独自の形而上学を構想したことを示している。すなわち、自己同一性(self-identity)だけではなく、自己差異性(self-diversity)が創造性の活動に必要であり、自己同一は、「多」と「一」が時間的に相互に創造的に転換するプロセスによって歴史的世界が成立する。それは「多は一となることによって、一によって多様化される(The many become one, and are increased by one)という根本命題によって表現されている。

 ホワイトヘッド哲学における創造性と神の関係は、伝統的なキリスト教神学には見られぬものである。アリストテレスの実体概念を前提すれば、創造性は実体の属性であり、創造性よりも実体という「存在」が優先するであろう。しかるに、「具體的な関係性の事実(Concrete facts of relatedness)を実体よりも根源的と見なすホワイトヘッドにおいては、創造性は、神にせよ世界内存在にせよ、およそ存在するものに先行し、それらを存在せしめる究極の活動であり、それ自身は「存在」ではない。この世界における自由の起源を、存在者としての神を神ならしめる神の根柢に求める点で、形而上学的に究極的なる活動を、存在者としての神から区別している。その点においては、シェリングの『自由論』に於ける「神の内なる自然」と神の関係、ないしベーメの「無底」と神の関係と類似しているように見えるが、「全能」という言葉と伝統的に結合していた「絶対者」の概念をホワイトヘッドが否定する点において、ドイツの理想主義哲学の自由論とは区別すべきであろう。ホワイトヘッドの神概念は、単に全能でないというにとどまらず、「絶対者」としての神という概念を、抽象的な無力な概念として退けている点に根本的な新しさがある。その形而上学の根本原理は、「普遍的な相対性の原理」であって、活動的存在を存在概念の基盤とする「存在論的原理」は、実体概念のラジカルな否認に他ならぬこの「相対性の原理」とともに理解されるべきである。すなわち、創造性と神との関係は、伝統的なキリスト教神学における属性とその基体としての実体という概念ではとらえられず、むしろ「縁起・無自性・空」を存在者の存在よりも根源的と見なし、そこにおいて、かたちある仏の存在を考える大乗仏教の傳統のほうに親和性を持っていることはプロセス神学と仏教との対話において縷々指摘されることである。仏教的にいえば苦悩する衆生の救済を、煩悩に満ちたこの世からの解脱としての涅槃寂静においてではなく、むしろその世界を絶対的に肯定し、言うなれば此岸と彼岸をともに超越して、両者が交互に転化する歴史的な世界の創造性のただなかに求める点が、ホワイトヘッドの宗教哲学の根音特徴である。そこにおいては、輪廻転生する生死の円環的連鎖、永劫回帰する世界(そこには来世においても新しきものは無い)からの解脱ではなく、一回きりのかけがえのない歴史的世界における創造性の活動が根本であり、そこに救済を求める点に、「空性」ではなく「創造性」を超越論的述語とした意味があろう。

神も世界における有限なる存在者も、およそ存在するものはすべて力を持つものであつと前に指摘したが、それと同時に現実に活動している存在者はすべて物質性と精神性を兼備している。このばあい意識を持つ人間だけに精神性があるのではない。すなわち、ホワイトヘッドの語る歴史的世界においては、既在性が物質的世界からの限定を表現するとすれば、将来性が理念的世界からの限定を表現するのである。両者の限定のもとに現在に於いて自己形成を行う主体は、自己創造的被造物(self-creating creature)であり、世界をその都度抱握することによって、世界を内在させ、そのことによってその現実世界を超越する存在として、他者としての諸々の現実的存在に自己を与える。この自己能与の結果が活動的存在の自己超越性(superjective nature)である。

 この意味で、有限なる活動的存在は、物質性と精神性を両極として統合するモナド的な生起であるが、世界を内在させることによって、本質的に新しい未来の世界に向けて自己超越するのである。この点に於いて、個々の活動的生起は、創造的世界の創造的要素として、神と世界との関係を、逆対応的に表現する。すなわち、神に於いては、無尽蔵の永遠的形相の理念的評価が先行し、物質的世界によるこれらの理念の世界による制約された実現が後行するのに対し、個々の有限なる活動的生起は、世界に於て既に実現された諸理念を物質的に抱握することから自己形成を開始し、自己の主体性を導く原初の目的因を神より理念的に与えられること(理念的転換)によっての自己をあたらしき存在として既存の世界に与える。神において先なるものは個的実存である活動的生起にとっては後なるものであり、神に於いて後なるものはその活動的生起にとっては先なるものである。このような神と個々の実存者との逆対応的関係によって世界の歴史的過程が成立する。

 (三)不滅性と今日の実存―ヨーナスの神話的象徴の哲学的解釈

  ハンス・ヨーナスの神学的思弁として「アウシュビッツ以後の神概念」とならんで特筆すべきものは、一九六一年に彼がハーバード大学でおこなったインガソル特別講義、「不滅性と今日の実存」である。「不滅性」の世俗的な意味、すなわち「名声や影響の不滅性」が如何に信頼し得えないかということ、また「人格の不滅性」という神学的な観念が、時間的な現象と永遠的なる本質という形而上学的二元論に基盤をおいているかぎり、第二次大戦の瓦礫の中にたたずむ現代人の根本的気分に他ならぬニヒリズムを超克するものとはなり得ないであろう。このニヒリズムを真正面から取り上げた実存哲学の主張にヨーナスは賛同しないが、その精神を共有し、とという二重の無の狭間、時間の中の孤独な足場に身を置いて不滅性を再考することを試みている。

ヨーナスの出発点は、「永続性」とは異なる意味を持つ「永遠」を、持続のうちにではなく、決断の瞬間においてとらえることである。すなわち、「持続というかたちで自己を肯定するもののうちではなく、自己を否定するものの内に、永遠への―まだ確定されていない―関係を探し求める」こと、これが不滅性を再考するときの指針となる。ただし、永遠との接点が瞬間であるといっても、それは神秘主義者が時間の運動からの解放を味わう静止した「今」としての瞬間ではなく、まさに時間の運動を生み出し、それを内奥から動かすものとしての瞬間である。彼は、このような時を生み出す瞬間について次のように語る。

この瞬間は、行為の敷居のところで時間を宙づりにし、私たちの存在を、時間を越えたものに曝し、決断という転回によって私たちの存在を行為と時間へと速やかにもたらす。瞬間は、それが始めた運動にすぐに絡め取られてしまうとはいえ、まさに状況の中の滅びうるものを私たちにゆだねるが故に、私たちが超越に対して開かれていることを示している。あらゆる関心の本質を構成するこの(現世的なものと超越への)二重の開放性において、瞬間は責任を持って行為するものを永遠と時間の間に置く。この二つの狭間から新たな始まりの可能性が、したがって、人格の真の歴史性の可能性が生じる。その際の歴史性が意味しているのは、とへその都度飛ぶようにして舞い戻ることである。[vi]

 ヨーナスがここで問題としている不滅性は、実体的な霊魂や人格の概念にもとづくものではないとはいえ、決断と行為の「瞬間」のうちに永遠なるものとの関係を見いだし、我々の活動的な経験、自由、責任が経験において示唆するものに従いつつ、「正義」という倫理学の中軸的概念に実質的な意味を恢復しようとする試みである。そのために、ヨーナスは、のちに「アウシュビッツ以後神概念」のなかで反復される神話的物語に依拠しつつ、「生命の書」と「超越的な肖像」という二つの象徴を提示している。

「生命の書」とは、元来はユダヤ教の伝承において、我々の名前が功績に応じて書き込まれている天上の台帳を意味していたが、それをヨーナスは、功績の如何に関わらず、我々の時間的行為それ自体が現世に関する永遠の記録簿に登録されるという意味に再解釈する。すなわち、いまここで行われている全てが、時間の因果関係の編み目を通じたその影響と最終的なその消失を超えて、あらゆる未来にわたって超越的な領域に影響を刻印し、存在に関する未完の記録帳書にほかならぬ「生命の書」を常に刷新していくという意味をそこに見いだしている。死すべき定めをもつ私たち自身の時間的世界における運命は不確定であり予測のできない偶然性に曝されているが、それは、永遠なるものの根柢としての神が自己と共に行う冒険にほかならぬという思想がそこで暗示されている。

「超越的肖像」とは、ヨーナスがイラン周辺のグノーシス主義の様々な文献に発見した神話的象徴である。それよると、人は皆天上界に「大切にまもられている」もう一人の私をもちながら、この地上を勞苦しているのであるが、自分の最終的な状態については自らの責任にゆだねられている。このような「超越的な肖像」を、個々人の水準だけでなく人類全體にまで拡大したバージョンをヨーナスは一九三〇年頃にエジプトで発見されたマニ教のテキストにも発見している。それは、世界のプロセス全体にわたって、そしてそのプロセスそれ自体を通じて、徐々に作成される人間の「最後の肖像」であって、不滅でありながら受苦しうる神が起源において有していた全体性を、歴史において具体化し完成するものである。この神は、個々の人間の本来的自己として「原人」とも呼ばれており、それが世界の誕生に先立って自己を生成の暗闇と危険へ委譲することによって、物質的な宇宙が可能となったというコスモロジーがこの神話の背景として考えられるであろう。

「生命の書」と「超越的肖像」という二つの神話的象徴が、現代人に対して有している潜在的な意義を確認するために、ヨーナスは次のような神学的思索を展開している。

束の間のがたえずに貪り食われていく時間をもつ世界の出来事において、一つの永遠の現在が育っていく。その永遠の現在の相貌は、神的なものが時間の中で経験する喜びと苦しみ、勝利と敗北をつうじて描線が刻まれていくにつれて、ゆっくりと姿を現す。それらの経験はこのような仕方で不滅のものとして持続する。絶えず消え去っていく行為者ではなく、彼の行為そのものが生成する神のなかに入り込み、決して確定されることのない神の像を、拭い去れないすがたで形成する。この万有において賭けられているのは神自身の運命なのである。神は自らの実体を、知を欠いた万有の過程にゆだねたのであり、人間は、この最高の、常に見捨てられ得る信託財産の、卓越した管理者となったのである。ある意味で神の運命は人間の手に握られているのだ。[vii]

ヨーナスが神学的思弁の手引きとして依拠している神話的な象徴は古代後期のグノーシス主義であることから、そのような特殊な思索が普遍的な意義を有することに疑義を申し立てることは十分にあり得るであろう。また、神話的な象徴其者は本来概念的な水準で思索すべきものを表象の水準で語っている以上、哲学としては根據を持ち得ないという疑義も考えられよう。しかしながら、宗教哲学においては、個々の実存の宗教的経験の深みの中で経験された事柄が、普遍的な意義を獲得するということが起こりうる。また、事柄が、従来の神学的な思惟では手に負えぬアウシュビッツの体験を踏まえた神学としてヨーナスが提示したものは、実存的経験のただなかにあってそれを超えていく普遍的なる哲学の道を示唆するものでもある。

時間的世界の根本的特徴を「絶えず滅び行く(perpetually perishing)」ととらえたのはホワイトヘッドであるが、そのような生々流転する世界の出来事において、「一つの永遠の現在が育っていく」とヨーナスが言うとき、それはは、まさにホワイトヘッドが「神の結果的本性(the consequent nature of God)」と呼んだものに符合していることに注意したい。この結果的本性を持つことによって、神は生成する神となり、つねに世界のすべての活動的生起の決断による影響を受容する。それは文字通り「受苦する」神でもあるが、このような神の結果的本性は、神の永遠なる「原初的本性」が世界の内に受肉することの結果として世界と共に生成していくのである。この結果的本性と不滅性との関わりについてについてホワイトヘッドは『過程と実在』の結語の部分で次のように言っている。

われわれは、ここに、客体的不滅という学説の最後の適用に達する。時間的な被造物の各々の生命における消滅する諸生起のいたるところにみられる、嫌悪ないし刷新の内奥の源、事物の真の本性から生じてくる審判、救済者ないし災いの女神、それは、神の存在のうちに永続している〔その被造物〕それ自身の変換なのである。このようにして、執拗な渇望は、義とされる- 存在への心からの喜びが、消滅しつつもなお永久に生きるわれわれの直接の行為のつねに現在し衰えることなき重要さによって更新されるように、と願う執拗な渇望が。[viii]

 アウシュビッツはユダヤ民族の絶滅の可能性を示すものであったが、アウシュビッツ以後の人類は、たんにユダヤ民族には止まらないさらなる普遍的な絶滅の可能性に直面している。すなわち人類は、みずからを含む地球の生態系を、人間自身の力によって絶滅させてしまう可能性に直面している。

ヨーナスは、「希望の原理」ではなく「責任の原理」にもとづく倫理学を提唱した。「人類の存続」を定言命法とする彼の倫理学の背景には、このように、自由なる人間に被造物としての責任を問う神学的な思想がある。

ホワイトヘッドはヨーナスに先行する思想家であり、ヨーナス自身がその生命の哲学を構築する際に大きな影響を受けたことを認めている。アウシュビッツの悲劇も核兵器による人類の絶滅の危惧、地球の環境危機などは、基本的にはホワイトヘッド以後の世代において顕在化した問題である。我々は、アウシュビッツ以後の神学のあり方にかんする根本的な問題提起と、責任倫理をあらためてホワイトヘッドの形而上学とそれにもとづく神学思想から捉え直す必要があるであろう。

 



[i]  この受賞記念講演は、のちに論文集 Gedanken über Gott, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main, 1994に収録された。邦訳(品川哲彦)は「アウシュビッツ以後の神」叢書ウニベルシタス924、2009

[ii] エティ・ヒレスム(Etty Hillesum 1914-1943)の日記と書簡は、一九八一年に公刊され、ヨーナスの前掲書の第三章で引用されている。

[iii] ユダヤ教神秘主義者Isaac Luria (1534-1572)の秘伝(カバラ)の神話のなかの中心的概念のひとつ。原初の無限なる神En Ssof が、神ならざるものを自己の内に創造するために、被造物の存在する場所を空けるために自ら収縮すると考えた。

[iv] Charles Hartshorne, Omnipotence and other Theological Mistakes, State University of New York Press, 1984,p.3

[v] David Ray Griffin, God, Power, and Evil-A Process Theodicy, The Westminster Press, 1976, p.9

[vi] Hans Jonas, Das Prinzip Leben, suhrkamp taschenbuch 2698,Erst Auflage 1977, Insel Verlag Frankfurt am Main 1994, S.384
(細見和之・吉本陵訳)『生命の哲学』(法政大学出版局)2008, 四二六頁

[vii] Ibid. S.389

[viii] A.N. Whitehead, Process and Reality, edited by David Ray Griffin、p.351

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする