歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

普遍の教会(カトリック教会)について

2005-04-13 |  宗教 Religion
今日は、いつもの様に全生園の愛徳会で主日のミサに参列したが、今年の二月に刷新された使徒信条の新しい口語訳をプリントしたものを戴いた。ここの信徒さん達の平均年齢はほぼ80才、アヌイ神父などパリミッションの司式を覚えている世代は、まだラテン語でミサを唱えていた時代だから、隔世の感があると思う。旧い世代にとって、典礼の言葉が変化するとなかなかそれに適応するのが難しい。還暦まであと二年の私自身もまた、口語訳にはなじめず、旧い文語訳の方がずっとよいという感情がある。それはともかく、日本のカトリック教会では、新しい世代のために典礼の言葉も平易な口語訳へと刷新していく方針のようだ。言葉がラテン語から文語訳に代わり、それが口語訳になり、そしてさらに平易な口語訳になるのは時代の趨勢だから、そのことに反対はしない。まだ、明治時代の文語訳を越える様な訳は出ていないと思うが、口語訳でも魂のこもった訳は可能であると思うから。

もともと新約聖書や使徒信条のような初代教会の文献は、当時の被植民地の民衆の共通語で書かれたものだ。いってみれば、今日のラテンアメリカやアフリカの人々が英語で書物を書く様なものであった。新約聖書はコイネー(当時の世界共通)の平易なギリシャ語で書かれていた。だから、生粋のギリシャ人の語る古典ギリシャ語ではない。それにもかかわらず、私は、プラトンやソフォクレスのような生粋のギリシャ人の書くギリシャ語にはない魅力を感じる。簡潔で力強いヘブライ語法のはいった独特の表現が多いが、そのなかに民族精神を越える普遍性を認める。後世のラテン語の典礼訳は西洋世界の文語訳で格調が高いと言われているが、よく調べてみると、それはギリシャ語聖書からの直訳に近いものである。そして、近代ドイツ語や英語に影響を与えたルターのドイツ語訳も英語の欽定訳も、現在の訳文にくらべれば、その簡潔さと力強さにおいて、はるかに原語に忠実な直訳である。

日本語訳の場合も、訳文は出来る限り原語にそっておこない、一字一句ゆるがせにせずに内容を理解することがが大事だろう。今日は、キリスト教の原点に立ち返って、使徒信条の内容を理解するために、翻訳の日本語だけで満足するのではなく、原文と複数の翻訳を参照しつつ、とくに「カトリック教会とは何か」という問題を考えてみたい。

使徒信条は、父と子と聖霊の三位一体の神への信仰を宣言したものだが、その三番目の、聖霊への信仰を宣言する箇所で、「聖なる普遍の教会」という言葉が出てくる。新しい口語訳では、次の様になっている。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
原文のギリシャ語、ラテン語訳、そして英訳を併記すれば次の通り。
原文(ギリシャ語) Pisteuw eiV to PNEUMA TO AGION, agian kaqolikhn ekklhsian, agiwn koinwnian, afesin amartiwn,sarkoV anastasin. zwhn aiwnion, Amhn.

ラテン語典礼訳 Credo in Spiritum Sanctum; sanctam ecclesiam catholicam; sanctorum communionem; remissionem peccatorum; carnis resurrectionem; vitam æternam. Amen.

英訳 I believe in the Holy Ghost; the holy catholic Church; the communion of saints; the forgiveness of sins; the resurrection of the body; and the life everlasting. Amen.
まず、注意すべき事は、この信仰宣言の人称性である。それは、「私は信じる」と述べるものなのであって、決して「我々は信じる」ではない。常に「一人称単数」で宣言するところに、信仰告白(Credo=I believe)の特徴がある。それは、集団の信仰共同体の中に個性を埋没させることではなく、あくまでも「一個人に徹する」ことを通じて、「普遍の教会」を信じることを宣言するのである。

次に、「聖霊への信仰」が、同時に「聖霊のうちにある信仰」であること。聖霊こそが、そこにおいて「私は信じる」という信仰の生起する場所なのである。そして聖霊の場に於いて「聖なる普遍の教会」すなわち「カトリック教会」への信仰が生起する。

日本語訳の「聖なる普遍の教会」は英訳では、 the holy catholic church すなわち「聖なるカトリック教会」と訳されている。この点では、日本語訳の方が、良いと思う。ここでのカトリックとは、プロテスタントを排除するものではないからだ。アメリカのプロテスタント教会では、the holy Christian Churchと訳して、catholic という語を避ける場合もあるし、日本のプロテスタント教会では、「聖なる公同の教会」と訳すことが多い。ようするに、カトリックとは、公同的、普遍的といのが原義なのだ。

私自身は、「カトリック」という言葉を使うときは、いつでもこの、「普遍の教会」という原点に立ち返って考えている。けっしてプロテスタントに対するカトリックという意味に特殊化しない。プロテスタント教会もまた、使徒信条を自らの信仰の拠り所としている限りでは、カトリックでなければならない。ローマン・カトリック=カトリックと考える人もいるが、真に普遍的なものに、西も東もなく、ローマも東京もない。ラテンアメリカの人も、アフリカの人も、ヨーロッパの人に劣らずカトリック的であり得るのだ。

だから、カトリックとは民族という特殊性から自由でなければならないし、特定の教派の教会組織からも自由でなければならない。普通、ローマカトリックと呼ばれている教会組織もまた「真にカトリック的であること」が課題として与えられている-私は、こうなふうにカトリックという言葉を使っている。

さらにもう一歩を進めて、私は、日本の無教会主義のキリスト教、とくにその原理を旧約聖書にまで遡って理解しようとした関根正雄の「無」教会思想のなかに本来的な意味でのカトリックの原点を見ている。ここにいう「無」は単なる教会の否定ではない。「無」教会とは教会を否定することによって、それを復活させることに他ならないからだ。「無教会」の「無」の場所に徹するところに聖霊への信仰があり、聖霊の内にあることこそ、まさに誕生しようとしている教会の原点なのだから。
Comments (7)
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