連歌の付合の根本精神
「親句は教、疎句は禅」とは心敬の言葉ですが、この言葉のあとに、教と禅の一致という思想を付け加えるならば、それこそが連歌の付合の根本精神を要約したものとなるでしょう。心敬の時代に流行していた連歌の特徴は、投句するものが前の句のことを考えずにそれぞれ身勝手な自己主張を展開するものであったと思われます。各人が派手な素材を好み、技巧を凝らして付け句をするが、前句を投じた人の心を無視している。そのために、連歌の技法のみが発達して、付合の心が無視される結果となりました。
「昔の人の言葉をみるに、前句に心をつくして、五音相通・五音連聲などまで心を通はし侍り。中つ比よりは、ひとへに前句の心をば忘れて、たゞ我が言の葉にのみ花紅葉をこきまずると見えたり。されば、つきなき所にも月花雪をのみ並べおけり。さながら前句に心の通はざれば、たゞむなしき人の、いつくしくさうぞきて、並びゐたるなるべし。」
前句の人の心に通い合うものがなければならない-この考え方は、後世の人によって「心付け」とよばれるようになりますが、心敬の場合には、それは必ずしも「意味が通う」ということだけではなく、内容的にも言葉の上でも「響き合う」ものがなければならないということを意味していました。
五音相通・五音連聲とは「竹園抄」という歌論書によると、和歌や連歌の音韻的なつなぎ方の親和性を表現する用語です。「響き」の親句のうち、子音が響き合うものを五音相通、母音が響き合うものを五音連声と呼んだようです。たとえば、「やまふかき霞の...」はK音が響き合うので五音相通、「そらになき日陰の山...」はI音が響き合うので五音連声です。
前句の人の心につけるという場合、心敬が念頭に置いていたのは、新古今集の和歌の上の句と下の句のような一体性であったと思われます。ただし、ただの三句切れの和歌を合作するというのでは、付け句の独立性は失われ、前句の解説をするような従属的な関係になりますから、付け句は独自性と独立性を保ちながら、前句と親和しなければなりません。
心敬が理想とする連歌は、疎句付けでありながら、前句と響き合う付句です。新古今集の秀歌は、定家に典型的に見られるように、疎句表現のものが圧倒的に多いという特徴を持っています。それゆえに、疎句付けとは何か、どのような疎句付けが連歌に生命を与えるかということが心敬の議論のなかで重要な意味を持ってきます。
前句の心を承けることと並んで、前句の何を捨てるか、ということも連歌にとっては大切です。
「つくるよりは捨つるは大事なりといへり」
「捨て所」という言葉がありますが、付け句は、前句のすべてを承けてはならない、のです。(すべてを承けるのは四手といって、連歌の流れをとめてしまう危険がある)かならず、前句の中のあるものを捨てて、新しい風情を付け加えなければならない。そうすることによって、前句から離れることによって、かえって前句の心を生かすことができる、というのが心敬の議論のポイントでしょう。
心敬がもっとも重んじた歌人は定家とその影響下にあった正徹でした。疎句表現を内在させた和歌が、優れた連歌の規範となっていたということをお話ししましたが、それを裏付けるために「ささめごと」の本文から離れて、藤原定家の和歌を考察しましょう。
若き日の定家は和歌に様々な革命的手法を持ち込んだために、当時の人々にはなかなか理解されず、彼の歌は「達磨歌」(禅問答のような歌)だといって非難されました。一首の上句と下句が一見するところ直接的関係を持たずに別のことを述べているようでありながら、その実、両者の対比のなかで、独特の新しい詩情が成立するごとき歌をかれはたくさん残しています。形式的には、575+77の三句切れであったこれらの歌に内在する対話性が、のちに連歌の付合として生かされていくようになります。いくつかの事例をあげましょう。
仁和寺宮50首から
春の夜の夢のうきはしとだえして
峰にわかるるよこぐもの空
今よりは我月影と契りおかむ
野はらのいほのゆくすゑの秋
わたのはら浪と空とはひとつにて
入日をうくる山のはもなし
木のもとは日数ばかりをにほひにて
花も残らぬ春の古里
これらは、定家の同時代の歌人にはなかなか理解されませんでしたが、連歌が成立したあとの時代を知っている我々からすれば、定家のこういう作品は、まさしく連歌の上句と下句の付合を一首のなかに内在させている歌だということが分かります。それは歴史の順序にそって考えるならば、定家の歌の持っていた対話性、問答性が、後に連歌という形で顕在化したのだといっても良いでしょう。
定家といえば百人一首の選者でもありますが、この百人一首に選ばれた歌の多くは、上句と下句の間に対話性があることに気づかれるでしょう。そのゆえに多くの人に愛唱され、また歌歌留多のゲームとして愛好されました。上句を聞いて下句の札をとるというゲームには、どこか連歌の付合ににた呼吸が感じられます。
新古今集は、それ以前の歌集と比べて三句切れの歌が多いのが特徴です。そして疎句表現の歌に秀歌が多く、それらは連歌のなかで本歌として引用されるようになります。
たとえば、式子内親王の
時鳥そのかみやまの旅枕
ほの語らひし空ぞ忘れぬ
とか、藤原良経の「祈恋」の名吟
幾夜われ波にしをれて貴船川
袖に玉散るもの思ふらむ
などの和歌こそが後の連歌の背景をなす世界であったといえましょう。
三句切れ疎句表現の和歌は決して新古今集のような王朝時代の作品に限ったことではありません。現代短歌でも、たとえば斎藤茂吉の次のような作品はどうでしょうか。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて
たらちねの母は死に給ふなり
死に近き母に添寝のしんしんと
遠田のかはづ天に聞ゆる
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと
剃刀研人は過ぎゆきにけり
これらはすべて上句と下句が疎句付けになっている短歌です。
最後に、寺山修司の若いときの短歌
マッチするつかの間海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや
をあげましょう。これは寺山の代表作ですが、上句はある雑誌に出ていた俳句を寺山が借用したというので問題になりました。私の見るところでは、この短歌はもとの俳句とは別のものとして鑑賞されねばなりません。この短歌の詩情は、上句だけにあるのでも下句だけにあるのでもなく、両者がある緊張をはらんで対峙している疎句付の関係にあります。 こういう種類の詩情こそ、連歌が追い求めているところのものに他ならないのです。
「親句は教、疎句は禅」とは心敬の言葉ですが、この言葉のあとに、教と禅の一致という思想を付け加えるならば、それこそが連歌の付合の根本精神を要約したものとなるでしょう。心敬の時代に流行していた連歌の特徴は、投句するものが前の句のことを考えずにそれぞれ身勝手な自己主張を展開するものであったと思われます。各人が派手な素材を好み、技巧を凝らして付け句をするが、前句を投じた人の心を無視している。そのために、連歌の技法のみが発達して、付合の心が無視される結果となりました。
「昔の人の言葉をみるに、前句に心をつくして、五音相通・五音連聲などまで心を通はし侍り。中つ比よりは、ひとへに前句の心をば忘れて、たゞ我が言の葉にのみ花紅葉をこきまずると見えたり。されば、つきなき所にも月花雪をのみ並べおけり。さながら前句に心の通はざれば、たゞむなしき人の、いつくしくさうぞきて、並びゐたるなるべし。」
前句の人の心に通い合うものがなければならない-この考え方は、後世の人によって「心付け」とよばれるようになりますが、心敬の場合には、それは必ずしも「意味が通う」ということだけではなく、内容的にも言葉の上でも「響き合う」ものがなければならないということを意味していました。
五音相通・五音連聲とは「竹園抄」という歌論書によると、和歌や連歌の音韻的なつなぎ方の親和性を表現する用語です。「響き」の親句のうち、子音が響き合うものを五音相通、母音が響き合うものを五音連声と呼んだようです。たとえば、「やまふかき霞の...」はK音が響き合うので五音相通、「そらになき日陰の山...」はI音が響き合うので五音連声です。
前句の人の心につけるという場合、心敬が念頭に置いていたのは、新古今集の和歌の上の句と下の句のような一体性であったと思われます。ただし、ただの三句切れの和歌を合作するというのでは、付け句の独立性は失われ、前句の解説をするような従属的な関係になりますから、付け句は独自性と独立性を保ちながら、前句と親和しなければなりません。
心敬が理想とする連歌は、疎句付けでありながら、前句と響き合う付句です。新古今集の秀歌は、定家に典型的に見られるように、疎句表現のものが圧倒的に多いという特徴を持っています。それゆえに、疎句付けとは何か、どのような疎句付けが連歌に生命を与えるかということが心敬の議論のなかで重要な意味を持ってきます。
前句の心を承けることと並んで、前句の何を捨てるか、ということも連歌にとっては大切です。
「つくるよりは捨つるは大事なりといへり」
「捨て所」という言葉がありますが、付け句は、前句のすべてを承けてはならない、のです。(すべてを承けるのは四手といって、連歌の流れをとめてしまう危険がある)かならず、前句の中のあるものを捨てて、新しい風情を付け加えなければならない。そうすることによって、前句から離れることによって、かえって前句の心を生かすことができる、というのが心敬の議論のポイントでしょう。
心敬がもっとも重んじた歌人は定家とその影響下にあった正徹でした。疎句表現を内在させた和歌が、優れた連歌の規範となっていたということをお話ししましたが、それを裏付けるために「ささめごと」の本文から離れて、藤原定家の和歌を考察しましょう。
若き日の定家は和歌に様々な革命的手法を持ち込んだために、当時の人々にはなかなか理解されず、彼の歌は「達磨歌」(禅問答のような歌)だといって非難されました。一首の上句と下句が一見するところ直接的関係を持たずに別のことを述べているようでありながら、その実、両者の対比のなかで、独特の新しい詩情が成立するごとき歌をかれはたくさん残しています。形式的には、575+77の三句切れであったこれらの歌に内在する対話性が、のちに連歌の付合として生かされていくようになります。いくつかの事例をあげましょう。
仁和寺宮50首から
春の夜の夢のうきはしとだえして
峰にわかるるよこぐもの空
今よりは我月影と契りおかむ
野はらのいほのゆくすゑの秋
わたのはら浪と空とはひとつにて
入日をうくる山のはもなし
木のもとは日数ばかりをにほひにて
花も残らぬ春の古里
これらは、定家の同時代の歌人にはなかなか理解されませんでしたが、連歌が成立したあとの時代を知っている我々からすれば、定家のこういう作品は、まさしく連歌の上句と下句の付合を一首のなかに内在させている歌だということが分かります。それは歴史の順序にそって考えるならば、定家の歌の持っていた対話性、問答性が、後に連歌という形で顕在化したのだといっても良いでしょう。
定家といえば百人一首の選者でもありますが、この百人一首に選ばれた歌の多くは、上句と下句の間に対話性があることに気づかれるでしょう。そのゆえに多くの人に愛唱され、また歌歌留多のゲームとして愛好されました。上句を聞いて下句の札をとるというゲームには、どこか連歌の付合ににた呼吸が感じられます。
新古今集は、それ以前の歌集と比べて三句切れの歌が多いのが特徴です。そして疎句表現の歌に秀歌が多く、それらは連歌のなかで本歌として引用されるようになります。
たとえば、式子内親王の
時鳥そのかみやまの旅枕
ほの語らひし空ぞ忘れぬ
とか、藤原良経の「祈恋」の名吟
幾夜われ波にしをれて貴船川
袖に玉散るもの思ふらむ
などの和歌こそが後の連歌の背景をなす世界であったといえましょう。
三句切れ疎句表現の和歌は決して新古今集のような王朝時代の作品に限ったことではありません。現代短歌でも、たとえば斎藤茂吉の次のような作品はどうでしょうか。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて
たらちねの母は死に給ふなり
死に近き母に添寝のしんしんと
遠田のかはづ天に聞ゆる
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと
剃刀研人は過ぎゆきにけり
これらはすべて上句と下句が疎句付けになっている短歌です。
最後に、寺山修司の若いときの短歌
マッチするつかの間海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや
をあげましょう。これは寺山の代表作ですが、上句はある雑誌に出ていた俳句を寺山が借用したというので問題になりました。私の見るところでは、この短歌はもとの俳句とは別のものとして鑑賞されねばなりません。この短歌の詩情は、上句だけにあるのでも下句だけにあるのでもなく、両者がある緊張をはらんで対峙している疎句付の関係にあります。 こういう種類の詩情こそ、連歌が追い求めているところのものに他ならないのです。