連歌の十体
連歌の付句の分類は様々な観点から行うこととができます。
心敬の分類は、定家の十体論を連歌に適用したものですが、後世の付け句の分類が言葉のつながりだけに着目した技術的なものが多いのに比べると、句の「心」を重視している点に特徴があります。付句の分類といっても、たとえば二条良基の分類もまた後世に大きな影響を与えましたが、それは様式の上の分類であって、価値評価の基準が明示されていません。(平付けや四手、余情、本説など、その後の連歌論や俳論にも引き継がれましたが)どのような付けが理想とされるかという問題が歌学の根本であるとすると、単なる付句の分類だけでは連歌の美学としては物足りない物があります。それに比べると、心敬の分類は、明確に価値基準にコミットしている点でより自覚的な物であるといえましょう。
幽玄体(ゆうげんてい)
「わかれ思へば涙なりけり」に対して
松風の誰がいにしへを残すらむ 救済
幽玄体は疎句づけでなければなりません。前句は、将来の別れのつらさを詠んだものであるが、それを付句では、「いにしへ」即ち過去の物語(源氏物語「松風」の別れか)を面影にしてつけています。松風の音が過ぎゆくように、すべては跡形もなく消えてしまうであろう、という意味。この述懐は、将来と過去とを現在において同時に見るような視座に移ることによって、「時の無常」そのものを詠んでいると解釈できましょう。
有心体 (うしんてい)
「主こそ知らね舟のさほ川」に対して
奈良路ゆく木津のわたりに日は暮れて 救済
有心とは、広い意味では優れた連歌のすべてについて云われますが、十体のひとつとしては、前句の心を良く汲んでつける親句をさします。掲句では、佐保川→奈良路 と場所の一致を重んじ、自分も前句に最もふさわしい夕暮れ時を配することによて、捨て舟にふさわしい情趣をかもしだしています。
長高体(ちゃうかうてい)
「かぞふばかりに露結ぶなり」に対して
春雨にもゆる蕨の手を折りて 順覺
長高体は基本的に疎句付けです。前句の露(秋)を、春の蕨の新芽に結ぶ露に取りなした句。転換の妙と共に、前句の「かぞふ」に「手を折る」によって応じた句。連歌の第三に要求される「たけの高い」句の体です。
麗体(うるはしきてい)
「月こそ室の氷なりけれ」に対して
三熊野の山の木枯吹きさえて 良阿
ここで云う種類の「麗体」とは、冬の「寒く痩せた風体」のもつ美のことです。これはむしろ心敬自身の「さび、ひえ、こほりたる」風情の美学とも関係します。
ここでは、通俗的な「春の花」、「秋の月」の美しさではなく、冬の月、山の木枯のもつ「麗しさ(詩情)」が、心敬によって発見されたということに注意したい。
濃体(こまやかなるてい)
「水やのぼりて露となるらむ」に対して
玉だれの小瓶にさせる花の枝 信昭
濃体は親句付けで、前句とともに繊細にして典雅な風情を与えるものを指します。
面白体(おもしろきてい)
「心たけくも世を逃れぬる」に対して
みどりごの慕ふをだにもふりすてて 良阿
これは、物語的な面白さを本説とする句を指すようです。
掲句の場合は、西行の出家に関する説話をふまえているのでしょう。
一節体(ひとふしのてい)
「心よりただ憂きことに塩じみて」に対して
入り江の穂蓼からき世の中
は「ひねり」の利いた句をさします。機知ないし頓知の働いた付句。
事可然体(ことしかるべきてい)
「人に問はれむ道だにもなし」に対して
花の後木のもと深き春の草 良阿
「なるほどもっともである」と納得させる付句。
前句との関係が云われてみれば、非常に筋道が通り説得力がある付句です。幽玄体や麗体とはちがって、情趣よりも理性に多く訴える付句です。
写古体(しゃこてい)
「上下をさだむる君がまつりごと」に対して
絶えず流るる賀茂川の水 善阿
これは、伝統を尊ぶ内容を持つ句です。かならずしも言葉遣いが古風である句に限定されません。掲句は、前句の上下を賀茂川の上下の神社に取りなして、伝統の重さを詠んでいます。
強力体(がうりきてい)
「ふしおがむより見ゆる瑞垣」に対して
これぞこの神代ひさしき宮柱
これは麗体が女性的なのに対して、男性的な力強い付句です。
掲句はさらに荘厳なイメージが伴いますね。
心敬の独自性は、これらの十体のすべてに通じていなければならないということを強調している点です。どれか一つの体を特別視するのではなく、様々な前句に対して、融通無碍に対応できる柔軟な心を重視したことの現れといえるでしょう。
連歌の付句の分類は様々な観点から行うこととができます。
心敬の分類は、定家の十体論を連歌に適用したものですが、後世の付け句の分類が言葉のつながりだけに着目した技術的なものが多いのに比べると、句の「心」を重視している点に特徴があります。付句の分類といっても、たとえば二条良基の分類もまた後世に大きな影響を与えましたが、それは様式の上の分類であって、価値評価の基準が明示されていません。(平付けや四手、余情、本説など、その後の連歌論や俳論にも引き継がれましたが)どのような付けが理想とされるかという問題が歌学の根本であるとすると、単なる付句の分類だけでは連歌の美学としては物足りない物があります。それに比べると、心敬の分類は、明確に価値基準にコミットしている点でより自覚的な物であるといえましょう。
幽玄体(ゆうげんてい)
「わかれ思へば涙なりけり」に対して
松風の誰がいにしへを残すらむ 救済
幽玄体は疎句づけでなければなりません。前句は、将来の別れのつらさを詠んだものであるが、それを付句では、「いにしへ」即ち過去の物語(源氏物語「松風」の別れか)を面影にしてつけています。松風の音が過ぎゆくように、すべては跡形もなく消えてしまうであろう、という意味。この述懐は、将来と過去とを現在において同時に見るような視座に移ることによって、「時の無常」そのものを詠んでいると解釈できましょう。
有心体 (うしんてい)
「主こそ知らね舟のさほ川」に対して
奈良路ゆく木津のわたりに日は暮れて 救済
有心とは、広い意味では優れた連歌のすべてについて云われますが、十体のひとつとしては、前句の心を良く汲んでつける親句をさします。掲句では、佐保川→奈良路 と場所の一致を重んじ、自分も前句に最もふさわしい夕暮れ時を配することによて、捨て舟にふさわしい情趣をかもしだしています。
長高体(ちゃうかうてい)
「かぞふばかりに露結ぶなり」に対して
春雨にもゆる蕨の手を折りて 順覺
長高体は基本的に疎句付けです。前句の露(秋)を、春の蕨の新芽に結ぶ露に取りなした句。転換の妙と共に、前句の「かぞふ」に「手を折る」によって応じた句。連歌の第三に要求される「たけの高い」句の体です。
麗体(うるはしきてい)
「月こそ室の氷なりけれ」に対して
三熊野の山の木枯吹きさえて 良阿
ここで云う種類の「麗体」とは、冬の「寒く痩せた風体」のもつ美のことです。これはむしろ心敬自身の「さび、ひえ、こほりたる」風情の美学とも関係します。
ここでは、通俗的な「春の花」、「秋の月」の美しさではなく、冬の月、山の木枯のもつ「麗しさ(詩情)」が、心敬によって発見されたということに注意したい。
濃体(こまやかなるてい)
「水やのぼりて露となるらむ」に対して
玉だれの小瓶にさせる花の枝 信昭
濃体は親句付けで、前句とともに繊細にして典雅な風情を与えるものを指します。
面白体(おもしろきてい)
「心たけくも世を逃れぬる」に対して
みどりごの慕ふをだにもふりすてて 良阿
これは、物語的な面白さを本説とする句を指すようです。
掲句の場合は、西行の出家に関する説話をふまえているのでしょう。
一節体(ひとふしのてい)
「心よりただ憂きことに塩じみて」に対して
入り江の穂蓼からき世の中
は「ひねり」の利いた句をさします。機知ないし頓知の働いた付句。
事可然体(ことしかるべきてい)
「人に問はれむ道だにもなし」に対して
花の後木のもと深き春の草 良阿
「なるほどもっともである」と納得させる付句。
前句との関係が云われてみれば、非常に筋道が通り説得力がある付句です。幽玄体や麗体とはちがって、情趣よりも理性に多く訴える付句です。
写古体(しゃこてい)
「上下をさだむる君がまつりごと」に対して
絶えず流るる賀茂川の水 善阿
これは、伝統を尊ぶ内容を持つ句です。かならずしも言葉遣いが古風である句に限定されません。掲句は、前句の上下を賀茂川の上下の神社に取りなして、伝統の重さを詠んでいます。
強力体(がうりきてい)
「ふしおがむより見ゆる瑞垣」に対して
これぞこの神代ひさしき宮柱
これは麗体が女性的なのに対して、男性的な力強い付句です。
掲句はさらに荘厳なイメージが伴いますね。
心敬の独自性は、これらの十体のすべてに通じていなければならないということを強調している点です。どれか一つの体を特別視するのではなく、様々な前句に対して、融通無碍に対応できる柔軟な心を重視したことの現れといえるでしょう。