歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「行人」としてのシドッチー(旅ゆく人にして修行/修証する人)

2019-03-22 |  宗教 Religion
ザルツブルグの国際シンポジウムで私はザビエルとペトロ岐部に共通する精神として Homo Viator (旅ゆく人)の心を指摘した。万里を遠しとせず命がけで伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであった。「普遍のキリスト教」の最初の宣教師ザビエルの「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」という祈りは、西洋の騎士道精神とキリストの出会いの所産ともいうべきものであるが、それは日本の戦国時代、中世から近世へと移行する転換期の武将たちの儒教的な「士道」の精神に直接訴えかけるものであった。
 そして「普遍のキリスト教」をもとめて、ポルトガルやスペインのような大帝国の国家主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めてエルサレム経由でペテロの殉教の地であるバチカンに巡礼の旅をしたペトロ岐部もまた、「旅する人」であった。彼は難民となったキリスト者の日本人であり、マカオで難民生活の苦渋を味わったのちに、ゴアに行き、現地の信徒組織の人々からの支援だけをたよりに、陸路を一人でエルサレムまで旅をした最初の日本人であった。そして彼は、ペテロと同じく祖国日本の迫害のさなかにある切支丹のもとへと帰還の旅に出る。帰国後も国内を潜伏しつつ旅を続け、東北で逮捕され江戸の切支丹屋敷で糾問される。そこで彼は将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守と対面している。岐部は、殉教者として、「キリストの法の真理」を証言するために将軍と対面したのである。
 
 最後の宣教師としてのシドッチもまた、旅する人であり、キリスト教の真理を証言するために殉教した人であった。
 
 新井白石の『西洋紀聞』とあわせ読むべき資料として、徳川実紀ー文昭院殿御実紀(十九世紀前半に編輯された江戸幕府の公式史書 全517巻)がある。その宝永6年11月22日(1709)の条に、シドッチを「行人」と呼んでいる箇所がある。
 ローマ法王の密使としてシドッチは来日したのであったが、途中長崎に立ち寄ったときに、当時ローマ・カトリック諸国と敵対していたオランダ人によって、彼が持っていたローマ法王の署名入りの手紙(通行手形)を没収され、単なる密入国の宣教師として処理されることとなった。そのため、正式の国信を持っていないことが江戸の裁判で問題とされたのである。しかし、白石は、シドッチがみずから「行人」と名乗っていたことに注目し、「行人は、礼に於て誅すべからず。後日其言の徴あるを待て」と幕府に進言した。つまり、「行人」であるシドッチを処刑することは正しくない。シドッチの言葉が真実であることの徴があるまで待つようにと白石が述べたので、シドッチは切支丹屋敷の中で、みずからの信仰を捨てることなく遇されたというのである。
 「行人」とは訓で「こうじん」と読めば、「旅人」であり、「ぎょうにん」と読めば「修行者」を意味するが、シドッチは自らをそのような「旅人であり修行者」であると白石に言っていたらしい。私は、さらに「修証者(あかしをするひと)」という意味を付け加えたい。すなわち殉教を意味するギリシャ語の原義は「証をする」という意味であり、その覚悟がなければ波濤万里を超えて日本まで旅することはなかったであろうから。
 「修証一等」とは、中国にまことの仏法を求めて旅に出た道元の言葉であるが、江戸時代の寺請制度のなかで身分を保障され体制化した仏教には、このような求法/伝法の旅の精神は失われてしまったのではないだろうか。
  ザビエル、ペトロ岐部、そしてシドッチに共通するものは、まさにキリスト教的な「修証一等」の精神であり、国家権力と妥協せずに「キリストの真理」を証しする「旅ゆく人」の精神である。
 
   資料ー「徳川実紀」宝永6年11月22日(1709)の条
 
「我国に其法を施さむと希ふ所は、昔は彼国より常に此邦に来り、其教稍ひろまりしに、中頃我国この教を厳禁ありし後、彼国人こゝにいたることを得ず、むかしは唐にても此禁をごそかなりしかど、今は禁の開たるのみならず、清王使して賜物あるに至り、その外諸国ともに、むかしは禁じたるも、今は用ゆる所少からず。さればいかにもして、こゝに此教を再興せむ事、先師の宿志なりとて、こたび其国主、衆人の中より使とすべきものを薦挙せしめければ、我その選にあたり、万里の風濤をしのぎこゝに渡り来りしは、全く法のために冤を訴ふる所なり。この禁除かれんことは、もとより願ふ所といへども、もし我言の用ひられずして、極刑に処せらるゝとも、そは時の至らざることをしれば、国のため法のため更にうらむる所もなしと申す。君美つばらに共申処の教意、并に地理のことども、二冊に注記し奉りければ、やがて備中守由松、八郎左衛門信尹もて、我国耶蘇の法禁ずること年久し。 今蛮人彼国の使にて、法のために冤を訴ふるよし申すといへども、もし彼国の信使ならば、いかんぞ国信とすべきものを帯来たらず、いつはりて我国人の様をなして来りたるや。たとひいふ所実にもせよ、共事跡はうたがふべし。 しかれども既に行人と称す。行人は、礼に於て誅すべからず。後日其言の徴あるを待て。よろしく処決すべきものなりと諭告せられ。彼者幽閉せられしとなり。」
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Arai Hakuseki and Giovanni Battista Sidoti -2-

2019-03-22 |  宗教 Religion

The record of Shidoti’s trial after Chosuke and Haru’s confession of Christian faith according to the official document, Nagasaki Jitsuroku Taisei 長崎実録大成 (The Great Collection of Nagasaki’s Accurate History) edited by Tanabe Mokei 田辺茂啓(1688-1768).

 (Japanese Texts)

宝永五戌子年十一月九日、薩摩より異人送来る。則永井氏、按ずるに、邏媽録に載る注進状によれば、永井讃岐守は此頃在府中なれば、駒木肥後守の誤り也。別所氏立会にて被遂穿鑿処、彼者イタリア国ロウマの者、名ヨアンバツテレス、苗字シロウテ、宗旨キリステアンカツトウリコと云。身の長五尺八九寸、鼻筋高く色白く髪黒し。日本風俗の如く月代を剃り、当六月頃より、薩州領屋久島に来居たる由、書籍の如き物八冊持居る。日本詞を書写したる物と見えたり。日本詞と蛮語取換て云述る。其訳分明に通達し難し。先其身切支丹宗門の由、願かましき事もなく、唯宗門を勧め入る様の事而已を云出す。食物は薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て、飢を凌し由也。長崎来着の後は、和蘭陀人食物の如きを食す。段々御検議の趣、江府言上有之。

一、宝永六年九月二五日、御下知に依て、彼異人牢輿にて、検使両人下役四人、通詞今村源右衛門に外に二人、町使六人、都合二十六人相添う、江府へ差遣さる。於江府小日向に。前々より有之切支丹屋敷に差置かる。彼異人、毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置。按ずるに、外国通信事略に、月俸のことを載せず、こは新井君美が著書なれば、其実を得し事論なし。扨又、附添の人数は、其翌寅三月長崎に帰省す。

二、正徳四年三月、右の異人御咎のことありて詰牢に移さる。その趣、前年牢番の者両人に、切支丹宗門を勧め入れたるよし、御聞に達し、宗門御改、横田備中守警護者数十人引連られ、通事名村八左衛門通弁にて、御書付を以て、只今迄馳走を加え差置る処、御制禁の邪宗門を授けたる段、不届至極なりとて、此度牢詰に移さる。彼異人其年の冬月極寒の砌、凍死せしとなり。

 (commentary)

〇資料一から、シドッチの姓をシロウテ、名をヨアンバツテレスと姓名を逆にしてはいるが、彼が「宗旨キリステアンカツトウリコ」、即ちカトリックのクリスチャンであることは正しく理解していることが分かる。「薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て」とあるは聖体のことであろう。

〇資料二から、シドッチは、おそらく新井白石の配慮で、「毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置」という破格の良い待遇をキリシタン屋敷で与えられていたことが分かる。転び伴天連では無いシドッチが、キリスト教を信奉したままで、このような厚遇を以て遇せられたことは、異例であったことがわかる。長助とはる夫妻は、キリスト教の生きた信仰を目の前にして、自分たちが嘗て踏み絵を踏んだことを恥じ、司祭にその罪を告白し、キリスト教に立ち返ったわけである。『西洋紀聞』では彼らが自ら進んで「自首」し、「此ほど彼国人(シドッチ)の、我法(これは夫妻が正しいと思っていた基督の法)のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ(信仰告白)。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」とある。つまり、基督の「法」を受けた以上、それを秘密にして、はっきりと言い顕わさないことは、国家の恩に背くことになるから、あえて信仰告白をして、国家の法によって罰せられることを選択したというのである。 

〇資料三から、正徳4年3月に、シドッチを査問したのが、宗門御改 横田備中守であり、通訳が名村八左衛門であったことがわかる。シドッチの死因は、ここでは「凍死」とされている。 

〇二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「受戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「受戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。  

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