The record of Shidoti’s trial after Chosuke and Haru’s confession of Christian faith according to the official document, Nagasaki Jitsuroku Taisei 長崎実録大成 (The Great Collection of Nagasaki’s Accurate History) edited by Tanabe Mokei 田辺茂啓(1688-1768).
(Japanese Texts)
宝永五戌子年十一月九日、薩摩より異人送来る。則永井氏、按ずるに、邏媽録に載る注進状によれば、永井讃岐守は此頃在府中なれば、駒木肥後守の誤り也。別所氏立会にて被遂穿鑿処、彼者イタリア国ロウマの者、名ヨアンバツテレス、苗字シロウテ、宗旨キリステアンカツトウリコと云。身の長五尺八九寸、鼻筋高く色白く髪黒し。日本風俗の如く月代を剃り、当六月頃より、薩州領屋久島に来居たる由、書籍の如き物八冊持居る。日本詞を書写したる物と見えたり。日本詞と蛮語取換て云述る。其訳分明に通達し難し。先其身切支丹宗門の由、願かましき事もなく、唯宗門を勧め入る様の事而已を云出す。食物は薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て、飢を凌し由也。長崎来着の後は、和蘭陀人食物の如きを食す。段々御検議の趣、江府言上有之。
一、宝永六年九月二五日、御下知に依て、彼異人牢輿にて、検使両人下役四人、通詞今村源右衛門に外に二人、町使六人、都合二十六人相添う、江府へ差遣さる。於江府小日向に。前々より有之切支丹屋敷に差置かる。彼異人、毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置。按ずるに、外国通信事略に、月俸のことを載せず、こは新井君美が著書なれば、其実を得し事論なし。扨又、附添の人数は、其翌寅三月長崎に帰省す。
二、正徳四年三月、右の異人御咎のことありて詰牢に移さる。その趣、前年牢番の者両人に、切支丹宗門を勧め入れたるよし、御聞に達し、宗門御改、横田備中守警護者数十人引連られ、通事名村八左衛門通弁にて、御書付を以て、只今迄馳走を加え差置る処、御制禁の邪宗門を授けたる段、不届至極なりとて、此度牢詰に移さる。彼異人其年の冬月極寒の砌、凍死せしとなり。
(commentary)
〇資料一から、シドッチの姓をシロウテ、名をヨアンバツテレスと姓名を逆にしてはいるが、彼が「宗旨キリステアンカツトウリコ」、即ちカトリックのクリスチャンであることは正しく理解していることが分かる。「薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て」とあるは聖体のことであろう。
〇資料二から、シドッチは、おそらく新井白石の配慮で、「毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置」という破格の良い待遇をキリシタン屋敷で与えられていたことが分かる。転び伴天連では無いシドッチが、キリスト教を信奉したままで、このような厚遇を以て遇せられたことは、異例であったことがわかる。長助とはる夫妻は、キリスト教の生きた信仰を目の前にして、自分たちが嘗て踏み絵を踏んだことを恥じ、司祭にその罪を告白し、キリスト教に立ち返ったわけである。『西洋紀聞』では彼らが自ら進んで「自首」し、「此ほど彼国人(シドッチ)の、我法(これは夫妻が正しいと思っていた基督の法)のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ(信仰告白)。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」とある。つまり、基督の「法」を受けた以上、それを秘密にして、はっきりと言い顕わさないことは、国家の恩に背くことになるから、あえて信仰告白をして、国家の法によって罰せられることを選択したというのである。
〇資料三から、正徳4年3月に、シドッチを査問したのが、宗門御改 横田備中守であり、通訳が名村八左衛門であったことがわかる。シドッチの死因は、ここでは「凍死」とされている。
〇二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「受戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「受戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。