タイの混乱が治まらない。22日夜には70人以上の死傷者を出した爆発事件があったし、未だにタクシン派による反政府デモ、バンコク中心部での占拠が続き、まさに一触即発の状態である。現に軍が強制排除に出るとの噂もあるようだ。
もう記憶が薄れているかもしれないが、2006年、タイではちょうど今と逆の動きがあった。当時のタクシン政権への反対デモが起こり空港が占拠された。そして、遂にクーデターでタクシン政権は倒れたのであった。詳しくは、2006.3.16『タクシン政権の行方、更に・・・・』と2006.9.24『タイのクーデターに想う』に書いたのでご覧頂きたい。
このときはプミポン国王がクーデターを承認し混乱は治まった。以前の政変の際と同じ、国王による調停、いわば鶴の一声である。しかし、今回はそうはいかない。王室は現政府寄り、と見られているからだ。中立な仲裁者にはなれない。現政府と現政府を支持あるいはタクシンを非難する都市の中産階級層に対し、タクシン元首相とそれを支持する農村の貧困層、この対立は根深い。調停役不在で出口が見えない。
ところで、昨日(4月25日)、イギリスの小説家、アラン・シリトーが亡くなった。『長距離走者の孤独』で知られる作家だ。82歳。また懐かしい作家が一人この世を去った。
新聞に彼は労働者階級の出身だと書かれていた。地位的にも金銭的にもフラットに近い日本の社会ではあまりピンと来ないが、彼は紛れもなく「労働者階級」の出身であり、そして、これまた紛れもなくイギリスは階級社会なのである。
僕自身、階級など普段はほとんど意識しないが、タイの中産階級と下層階級の対立を考えていたとき、ふと彼の死亡記事を見たことから、階級について考えさせられた。
イギリスの階級は大きく、上流、中流、下流=労働者の三つに分かれる。上流は貴族や地主など、地位も名誉もあり、かつお金もある人。必ずしも大金持ちとは限らない。中流は弁護士、医師、大学教授などの専門職やホワイトカラーのイメージ。成功の度合い、裕福さ等により、中流の上・中・下などに細分化される。最後の労働者階級、これはブルーカラー、つまり工場労働者、肉体労働者のイメージ。
さて、これだけだと別にどこにでもありそうな話に聞こえるが、凄いのはここから。三つの階級間での移動は極めて少ない。いや、移動どころか交流すら少ないのである。階級が違えば、住む場所も、通う学校も、読む雑誌も、よく行くレストランも、服装も、皆違う。そして、工場労働者の子供は工場労働者に、金持ちの子供は金持ちに、ごく当たり前になって行くのである。
例えば、日本だとこんなケースも考えられる。社長と社長の車の運転手、ともに子供がいる。社長の子供は出来が悪く3流の大学に、運転手の子供は大変優秀で東大に行ったとしよう。とすると、両者の子供の代で立場が逆転することも十分考えられる。子供は親の職業に関わらず社長になるチャンスがあるが、逆に社長の子供だからといって必ず社長になれるわけではない。が、イギリスでは運転手の子供はやっぱり運転手、社長など到底考えられないのである。
ただ、階級間で強い対立があるわけではない。それなりに居心地の良い生活ができれば他人など関係ないのだろう。ジョン・レノンは“Working Class Hero”という曲でイギリス社会を痛烈に皮肉ったが、イギリス人の多くは“Let It Be”(あるがままに)の境地のようだ。
翻ってタイの話。愛される王室があるのはイギリスと同じだが、イギリスと違い、階級間の対立が激しい。もっともイギリス人のように大人になれと言っても今はまだ無理であろう。やはり生活の安定がないと民心は安定しない。
というとタクシン寄りに聞こえないでもないが、タクシン元首相には、まず一族の資産760億バーツ(約2200億円)を貧しい人のために役立てては、と言いたい。タイそしてタイ国民のため、何をすべきかを考えて欲しい。争いでないことだけは確かだ。
もう記憶が薄れているかもしれないが、2006年、タイではちょうど今と逆の動きがあった。当時のタクシン政権への反対デモが起こり空港が占拠された。そして、遂にクーデターでタクシン政権は倒れたのであった。詳しくは、2006.3.16『タクシン政権の行方、更に・・・・』と2006.9.24『タイのクーデターに想う』に書いたのでご覧頂きたい。
このときはプミポン国王がクーデターを承認し混乱は治まった。以前の政変の際と同じ、国王による調停、いわば鶴の一声である。しかし、今回はそうはいかない。王室は現政府寄り、と見られているからだ。中立な仲裁者にはなれない。現政府と現政府を支持あるいはタクシンを非難する都市の中産階級層に対し、タクシン元首相とそれを支持する農村の貧困層、この対立は根深い。調停役不在で出口が見えない。
ところで、昨日(4月25日)、イギリスの小説家、アラン・シリトーが亡くなった。『長距離走者の孤独』で知られる作家だ。82歳。また懐かしい作家が一人この世を去った。
新聞に彼は労働者階級の出身だと書かれていた。地位的にも金銭的にもフラットに近い日本の社会ではあまりピンと来ないが、彼は紛れもなく「労働者階級」の出身であり、そして、これまた紛れもなくイギリスは階級社会なのである。
僕自身、階級など普段はほとんど意識しないが、タイの中産階級と下層階級の対立を考えていたとき、ふと彼の死亡記事を見たことから、階級について考えさせられた。
イギリスの階級は大きく、上流、中流、下流=労働者の三つに分かれる。上流は貴族や地主など、地位も名誉もあり、かつお金もある人。必ずしも大金持ちとは限らない。中流は弁護士、医師、大学教授などの専門職やホワイトカラーのイメージ。成功の度合い、裕福さ等により、中流の上・中・下などに細分化される。最後の労働者階級、これはブルーカラー、つまり工場労働者、肉体労働者のイメージ。
さて、これだけだと別にどこにでもありそうな話に聞こえるが、凄いのはここから。三つの階級間での移動は極めて少ない。いや、移動どころか交流すら少ないのである。階級が違えば、住む場所も、通う学校も、読む雑誌も、よく行くレストランも、服装も、皆違う。そして、工場労働者の子供は工場労働者に、金持ちの子供は金持ちに、ごく当たり前になって行くのである。
例えば、日本だとこんなケースも考えられる。社長と社長の車の運転手、ともに子供がいる。社長の子供は出来が悪く3流の大学に、運転手の子供は大変優秀で東大に行ったとしよう。とすると、両者の子供の代で立場が逆転することも十分考えられる。子供は親の職業に関わらず社長になるチャンスがあるが、逆に社長の子供だからといって必ず社長になれるわけではない。が、イギリスでは運転手の子供はやっぱり運転手、社長など到底考えられないのである。
ただ、階級間で強い対立があるわけではない。それなりに居心地の良い生活ができれば他人など関係ないのだろう。ジョン・レノンは“Working Class Hero”という曲でイギリス社会を痛烈に皮肉ったが、イギリス人の多くは“Let It Be”(あるがままに)の境地のようだ。
翻ってタイの話。愛される王室があるのはイギリスと同じだが、イギリスと違い、階級間の対立が激しい。もっともイギリス人のように大人になれと言っても今はまだ無理であろう。やはり生活の安定がないと民心は安定しない。
というとタクシン寄りに聞こえないでもないが、タクシン元首相には、まず一族の資産760億バーツ(約2200億円)を貧しい人のために役立てては、と言いたい。タイそしてタイ国民のため、何をすべきかを考えて欲しい。争いでないことだけは確かだ。