25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

百田尚樹の小説

2015年08月10日 | 文学 思想
小説を書いているとあっという間に時間が過ぎる。書いていないときはあれこれと書いたものを思い起こしたり、文に不自然さがないかとか、あの部分は余分かなとかいろいろ考えている。
 風景や情景の描写は難しい。もちろん比喩も難しい。比喩ノートでも日々作っておかないといけないのではないか、それも仕事のひとつだと思うようになる。
 もちろん僕は素人で、これからいろいろな賞に応募しようと思っている。年の差もある。
 例えば、百田尚樹は作家を廃業してしまった。僕から言えば、良い時期だったと思う。「永遠のゼロ」「ボックス」のデビューあたりの作品は構成上も、文も相当に練れていた。
 それが「海賊と呼ばれた男」や「錨をあげろ」あたりではもう文に筆力がなかった。ただ出来事とストーリーを書いているだけだった。週刊誌に連載しているものも目にするが、指示言語の羅列で文学の深みもなかった。だから小説家としては引退するべき時期に来ていたのだと思う。
 そして「つまらぬ」発言を繰り返した。普通、小説家の発言は思想的に十分に考え抜かれたことを発言するものである。それは死んだのちも残るのだから、十分に論拠を示して発言するか、沈黙かである。彼は沈黙も言葉だと考えている節はなかった。テレビにでる。政治の勉強会で講師を務める。NHKの委員になる。小説で自分の存在を示し、現在を掘り下げ、読者に共感を与えていればよかった。彼は書く力を削いでしまった。
 「幸福な生活」のようなあっと驚かす現代というものの不気味さもう書けないかもしれない。調子こき過ぎたのだと思う。
 と人のことを言っていてもしかたがない。世阿弥の能の言葉に「老いて花」という言葉がある、不思議なもので、日本の音楽も40代はまだ丁稚みたいなもので、歳を重ねれば重ねるほど、技能が冴えてきて、60代や70代は極みの時期である。西洋は反対のように思える。僕も「老いて花」になりたいものだと願うのだが、こころの持ち方こそが深みを増すものだと思ってやっている。成功するかどうはどうだってよい。