25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

日本人にはできなかった

2015年08月21日 | 社会・経済・政治
人のこころを読むということは僕にはできないので、一体何が本心でなにが嘘なのか、読み解くことはできない。
 数人と会話をしていると、黙ってしまう場合がある。そういうときは自分を振り返れば、本心を言うと、時間がかかったり、荒れてしまったりするとか、相手にそんな話をくどくどと話をしてもどうせわかりっこない、などと勝ってにこちらで思ってします。

 フランスではいくら意見が違っても意見を尊重しないが相手を尊重する。日本もこうありたいものだが、日本の場合は声が大きく、頭が粗雑にできている人ほどその場を制圧するような雰囲気がある。

 頭の粗雑な人は、中国政府という国家と中国人を同じようにみる人がいる。韓国政府とい国家と韓国人を同じようにみる。違うことはわかっていてもいざ、尖閣列島だ、南シナ海だ、となってくると、「中国人嫌いさ」などと平気で言う。「中国政府が嫌いだ」と本当は言いたいと思うのだが、それが言えない。中国人観光客のマナーの悪さをあげつらうテレビ報道もある。
 僕が40年ほど前にモスクワからロンドンへの飛行機に乗ったとき、飛行機の中の日本人のマナーの悪さといったらなかった。ステテコになって座席に立ち、前の仲間に話しかける、飲めや歌えの大騒ぎをする。
 今でも路上に痰を吐くものもいるが、経済が豊かになってくるとマナーもよくなってくるものなのだ。同様に、経済が発展してくるといま中国で起こっている要人の賄賂も、次には合法的な天下り法人みたいになるのである。

頭の中にもってしまっている偏見、あるいは癖。これはなんとかならないものか。選挙になっても自分で考えない人がいる。血縁だから地縁だから、頼まれたから、まだ日本はその程度の国のように思える。近代化で失ったものも大きく、得たものも大きかったのだろうが、前近代をそのままひきついでいる精神というのもある。個人主義や自由主義、議会制民主主義や三権分立。まだ馴染んでいない。一家心中とてまだ残っている。

米国の進駐軍がこなかったら、おそらくは農地解放も、財閥解体もできなかったに違いない。これも頭の中にもってしまっている偏見や癖と同じようなものだ。日本人ではできなかった。