カズオ・イシグロの第一作「遠い山なみの光」を読み終えた。比喩表現は一切なく、地の文は風景の様子と動作だけで、あとは会話であった。おもしろかったか、と聞かれれば、面白くなかったと答えるだろう。登場人物らの会話にズレがあったりしたが、人物像も描きがたく、時代が転換したあとの1952年頃の長崎での第一子妊娠時代にであ出会った佐知子とその娘万里子に気にかかり、戦前は校長をしていた義父を登場し、その時期の記憶をたどる、という話だった。佐知子はのちの主人公を思わせ、万里子はその頃お腹にいた景子とダブらせるところに小説的な技法があった。醸し出してくる風景の色合いは薄墨色で、特に「うまいなあ」というのでもなかった。それが英国王立文学協会で賞をとったということに違和感があった。
よく考えてみると、これは元々は英語で書かれた小説である。ぼくには、会話での言葉使いが妙に奇妙で、粘着質的な会話にどうしてもなじめなかった。英語で読んでいるとどうなるのかそこは目を通してみたい気がする。
奇をてらい、ストーリーを重視するわけではない。わざと淡々と書いているようであった。
物語全体が比喩だと言うこともあり得るので、考えてみた。確かに記憶が現在の主人公の比喩にはなっていた。でもそれだけ。小説のテーマはテーマになり得ない時代の急激な変化を思ったのだった。