25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ロヒンギャ問題の難しさ

2018年11月17日 | 社会・経済・政治
 ひと動きすると汗が出る。不慣れなことをすると汗が出る。さっさとやり終えてしまいたいと思うと汗が出るのだ。汗って本当に新陳代謝の代物だろうか。神経のような気がする。
 それはともかく、一応床張りを終えた。ざっくりと。あと細かいところがあるので、それはやる気をみて。たいしたことではないとぼくは思うが完璧症の人なら、さぞかしイライラすることだろうと思う。
 汗をかくとすぐに急速に体が冷えてくるので油断してはならない。汗を拭き取り、下着も替えよう。
 テレビをつけると、アウンサン・スーチーミャンマー最高顧問女史がいろいろな賞を剥奪されている、とあった。ロヒンギャ民族への迫害、虐待により、彼らはバングラデシュに逃げて、難民キャンプにいる。ミャンマーは帰って来いよ、というが誰一人帰らないそうである。ミャンマーの大方の人は仏教信者で、ロヒンギャはイスラム教徒である。宗教対立である。スーチー女史もどうするこもできない。軍事政権ならなんとか抑え込めたかもしれないが、統制が緩み、急速に民主主義となると、難しいのだろう。
 こころを救済するということでは仏教もイスラム教も、キリスト教も同じだ。宗教とはそういうものだ。それが喧嘩、対立、殺戮となるのだから、この共同幻想恐ろしい。人類はいつになったら宗教共同幻想を抜け出ることができるのだろう。宗教を否定するつもりはない。集団のあり方であり、宗教という共同幻想の自己コントロールの仕方の獲得が必要なのである。この問題が解けない限り、宗教的対立はなくなるはずもない。
 共同幻想の構造と自己幻想、対幻想との関係。吉本隆明が明らかにしたが、彼の考察はまだ普遍化していない。共同幻想論を易しく読み解ける具体的テキストがほしいくらいだ。
 ロヒンギャはミャンマーには戻れないだろう。周辺のイスラム教国が面倒みるしかなかろう。
 宗教とは罪なものだ。まったく個人の中で共同幻想と自己幻想が一致と逆立が同時起こっている。大矛盾である。