25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

久しぶりの感動

2018年11月30日 | 文学 思想
 貧乏のどん底から這い上がってくるとか、生い立ちの異常性が芸術創作への強い動機になるとか、この負の面がエネルギーとなって成功に至っているということはよく目にし、耳にしたことである。
 そんな差異が目立った時期があり、流行のようにもなった。しかしそんな時期がもはや通りすぎたのではないかと思うのはぼくだけだろうか。

 大相撲で優勝した貴景勝の家庭環境を見ていても食費だけでも30万円かかったといっている。卓球の伊藤美誠も母親が特訓をするほどの経済的余裕はあるように思われる。

 美術や文学の世界ではどうだろうか。村上春樹に経済的貧困はなかったようである。ただ父親との関係があまりよくなかったということぐらいは伺える。乳幼児期のことはこころの内に置いておくものだから分かりにくい。しかし太宰治や三島由紀夫のような生い立ちは多くはないような気がする。離婚が増え、母原病も増え、こころのトラウマから起こる事件もときどきあるが、芸術や文学の世界も作品出処は違ってきているように思う。

 昨日テレビで、カナダのトロント出身の若い板前の修行の様子をトロントにいる家族がテレビを通して見るという番組があった。父親はワインの輸入をやっていて、母親は公務員の共働きである。姉はニューヨークでメイクアップアーティストをやっている。
 いわゆる普通の家庭である。父親は料理をするのが好きで息子に料理の話をよくしていた。やがてこの若者は包丁に興味を持つ機会をトロントで得た。日本では食材によって使う包丁が違うことに驚嘆した。そして日本で日本料理を学びたいと思うようになる。
 日本の料理学校に通い、やがて日本料理はカナダにあるものとはずいぶんと違い、奥の深いものだとも知るようになる。1本20万円もする包丁をお金を貯めては買う。もう十本以上の包丁を大事にして持っている。姉は車一台帰るんじゃないの、とテレビをみながら冷やかすが、彼は未来への投資だという。京都の老舗京料理で修行ができるようになった。会社の寮に住み込み、毎日包丁を研ぐのが一種の瞑想のようだ。ハモも切る。スッポンも捌く。ハモもスッポンも難しい。
 ある日屋形船の焼き鮎をメイン料理としてして出す仕事を任される。出すタイミングがとても難しく、船を並列させておもてなしの料理を作るのである。
 トロントの家族たちは息子の日本での生活、仕事ぶりがわかり、母親は20代、30代でしか身に付かないことがある、息子はいまがその時なのだろう、とこころの内を吐露する。
 ぼくは小一時間のこのレポートにひどく感動した。
 日本からフランスやイタリアに料理を学びにいく人がいる。日本にも来る若者がいて、懸命に修行して、一流の腕をもつ人がいるのだ。
 この若者は親から離れたくて日本に行ったのではなかった。自分が追究してみたいことを自分の力量でやったのだった。豊かさの中からやりたいことを追求する若者が育ったのだ。
 ぼくはいつも病気めいた小説のつまらなさを堪能してきたので、こんな出自の話の方が好きだ。