25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

日本人のもつ潜在的なもの

2018年11月27日 | 社会・経済・政治
 高千穂も惨殺事件もいわば一家心中事件のような感じで、この潜在的な無意識は何であるか、まだ日本人の中から払拭できないものかと思ってしまう。柳田国男が集めた「山の人生」に、一家が食えなくなって、男が妻と子供らを殺し、自分も死のうとするが死ねなかった話がでてくる。今年の前半にも、去年もまさに同じような事件があった。
 この日本的一家心中に、異論を挟んだのは宮沢賢治だった。「グスコーブドリの物語」で、食えなくなった一家は父親、母親があるだけの食糧を残して家を出て行く。兄と妹が残されるが、やがて他人と出会うことになり、その男によって養われ、火山学者になる。
 両親の身を捨てての慈愛と他人との縁による人生を言い、子供は我が子と言えども殺されるべきではない、と物語では主張したにちがいない。
 グリムの「ヘンゼルとグレーテル」は子供らが家から追い出されることになる。子供は社会に入っていき、いろんな経験をして一人前になっていくのだと、言っているようである。つまりは早く自立させる、という意識なのだろう。
 
 ぼくには一家心中というような潜在的な無意識もないように思う。子供は別の人格であり、別の人生をもつ存在である。
 高千穂の事件は中上健次の小説「火祭り」に似ているような雰囲気がある。村落の中で生きる若者に村落の強い血の関係や息苦しい空間が一人の猟銃をもった男に憑いたのだった。

 日本の殺人事件の半分は家族内だという。日本人のもつ貧困な心根が出てくる土壌を家族が作っている。
 高千穂事件では殺人者と見られる次男も自殺に成功したが、日本人の多くは警察も、検察も、裁判所も一家心中には同情的であるような気がしてならない。死にきれなかった男に、つい「可哀想に」と思ってしまうはずだからである。

 春でもなく、蠢くものも眠ろうとしている秋の空の下で、何があったというのだろう。