25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

革命

2017年05月09日 | 文学 思想

 日本全体が冷戦終了以後、右寄りになってしまった。それは共産党とて同じである。共産党員は結構裕福な生活をし、労働組合の組合員も裕福そうに見える。離婚をしてしまって母子家庭となる。その母は日夜働いて子供を養う。男は養育費を滞らせる。労働者も株主となり、小資本家となる。ヤクザが阪神淡路大震災のとき、すぐに救援に向かう。自衛隊よりも速かった。

 貧困児童が三人に一人いるという。教育の格差が定着してきている。一億総動員労働である。子育てに集中しなければならない女性も、働け、働けである。みなちょとでも楽な生活がしたいから、子供を犠牲にしてまでも働け、働けである。きっと真面目な女性の中には体を壊す人もでてくるはずだ。特に、子宮、卵巣が傷みやすい。

 一ケ月のバカンスなど働く人にはあり得ないのは日本だ。フランスはずっと前から一ケ月のバカンスがある。

 こんなに日本人は働いて、借金が1000兆円を超える。だから税金や保険料などを上げる。それでも追いつかない。会社の利益は一部株主にも配当される。けれど、東電を見てもわかるように株主は責任をとらない。

 だんだんとムチャクチャな社会になっている。一億総中流社会は終わってしまった。

 革命の軸というものもなくなった。革命は不断の日常の中でやっていくしかないようになった。

 例えば、尾鷲市は一万くらいの人口でこころ豊かに暮らしていこう。高速もあるし、買い物は他所でもネットでもできるのだから。酒でどんちゃかやりたかったら持ちまわりで家でするとか。価値観の転換をしてしまうとかである。

 原発問題だけで革命はできない。憲法改正で革命はできない。悪政がはびこり、働く人が馬鹿を見、人間が深く傷つき、真っ当とする理念がなければ革命はあり得ない。革命という言葉が死語になりつつある現状であることよ。

 


尾鷲市

2017年05月08日 | 社会・経済・政治

 尾鷲は近い将来、みじめなものになる。尾鷲社会を支える人材がいない。それは介護や看護に影響する。働く場所がないから、どうしようない。それに先見性のない市長や議員達。発想が古く、漫然とどの業界にも気を使っているよう見える。

 地場産業を叫ぶ。ところが地場産業は衰退一方をたどる。四次産業には理解する能力がない。

 次期市長がどんな考えをみっているか興味がある。今度市庁こそ尾鷲市の行く末を決める。

 ぼくは人口が増え、経済が活発になればよいと言っているわけではない。

 どこでも乗れて、どこで降りられるミニバスがあるとか、旬の野菜や魚を売る場所があるとか、荒れ地が市民に開放されるかとか、人口1万八千人で豊かに暮らしていける案だすかである。相変わらず地場産業振興だの、公共工事誘致だの、そんな発想を続けていたらダメだということだ。

  民間企業の育て方はいくらでもあるものだ。現代は潮目なのだ。個人で、グループでいくらでも企業できる。その経験がないものに、新規の発想が生まれるはずもないから想像力を駆使するしかない。その想像力とは何かがわからないようでは政治家として話にもならない。

 その意味で、多くの政治家候補者が立候補するのはよい現象である。これまでの常識ではほとんど死に体の尾鷲市である。価値観を変えれば、より安穏とした尾鷲市も想像できる。最低限必要な物は何か。そこを考えれば、人口1万人とて大丈夫である。

 

 


憲法

2017年05月07日 | 日記

 憲法関連で、ついにNHKが日本会議に言及した。この日本会議を実質支え、リードしているのが日本背年会議である。青年でなんでもない。ただ団塊世代だというだけだ。中心メンバーは谷口雅春の哲学を尊崇する元生長の家原理主義者たちである。この人たちは現政権の中枢に、入り込み、首相補佐官をやっている。彼らは今、元生長の家の政治活動を続け、現生長の家は政治活動からは遠ざかり、むしろ安部政権を批判する宗教団体になっている。谷口雅春の言葉を尊崇し、親が信者であった当時の右派学生は長崎大学で学生自治会を制したのだった。この出来事は九州一円、四国にも、全国大学に飛び火した。

 僕が大学一年生の11月、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で、自衛隊員に向かって演説した。自衛隊員はその演説をやじり、三島を相手にしなかった。三島も谷口雅春を慕っていた。母から三島を奪った祖母は谷口の著書を枕頭においていた環境で育ったのである。三島が主宰する楯の会のメンバーも多くは生長の家原理主義若者だった。

 彼らは何を熱望しているか。まず、大権をもつ天皇の復権である。国民主権ではない。天皇主権である。つぎに重要なことは家族の絆である。現代家族への違和感である。次に天皇に忠心することである。そうすると憲法う改正しなければならない。また国防軍をもつことである。

 日本会議は宗教団体、学者、文化人を取り込み、百田直樹のように、朝日新聞や琉球の新聞を目の敵にする。

 不思議なのは天皇を世界一の支配者といいながら、天皇は靖国神社にいかないことだ。靖国神社は日本会議のメンバーであるにかかわらず。

 また歴史的にも天皇が平和を願い、たらたらして進まない憲法審議会に、マッカーサーが危機感を抱いて、平和を祈る天皇を南北各国が戦争責任を追及したことから救ったことだ。マッカーサーがいなければ谷口も、どんな右派も天皇を救えなかった。だから僕には日本会議などちゃんちゃらおかしいと思うのだ。でも社会党浅沼委員長を殺したの当時生長の家の若者であった。だから右派というのは気持ち悪いのである。何されるかわからない。

 この気持ち悪さが言論の自由を萎縮させているのが日本だ。

 地道な右派の草の根運動が、50年経って、政権の中枢を構成している。

 明治憲法にもどすなんて、訳がわからない。アナクロ過ぎる。憲法は権力を縛るものであって国民を縛るものではない。

 自民党の憲法草案などわけわからん。押し付けられた憲法などと言う人がいる。しかこの憲法には議会も、首相も天皇賛成したのだった。国民の多くも歓迎したのだった。もう二度と戦争いやだとおもったはずである。

 アメリカから押し付けられた憲法。だから自主憲法と叫ぶ。ぼくなどはだれが作ろうがぼくらにとってよい憲法がよい。ぼくらにとってよい政府がよいということだ。


ブッチャードガーデン

2017年05月04日 | 日記

 本を読むペースが落ちてきた。次に読みたい本が順番待ちしているのに、昭和史(半藤一利)の続編が終わらない。昼読んでいる世界史(祝田秀全)も終わらない。

 これらはどれも二度目の再読である。頭の悪いのにはあきれる。多くのことを忘れている。まあ、それが専門でもないのだから覚えないのか、話す相手がいないから使わずじまいで記憶から、去っていくのか、脳のできが悪いのか、どれかなのだろう。

 元々記憶力がよくない。何の必要があっておぼえなければならないかが納得するまで、勉強することはなかった。

 自分の身体に言葉を身に付けようと自覚したのは大学に入ってからだった。

 まだ使われていない脳細胞がいっぱいあるというのに、すでに稼働している細胞は死につつあるようである。

 このところ「花」に凝っている。今、花水木が満開である。クチナシ、椿、大手鞠、そして石楠花を増やし、カリフォルニアローズとカサブランカは鉢植えにした。夏がきたら睡蓮を買って金魚も、買おうかと思っている。毎日い通る八百屋のオヤジさんbが、金魚を飼っていて、もうすぐ赤ちゃんが産まれるのではないか、と言う。それをあげるよ、というので、待ち遠しい。五月も下旬になったら、薔薇を見に行こうとおもっている。

 昔、カナダのビクトリアにあるブッチャードガーデンに行ったことがある。それがメインの場所であるが、ビクトリアの町は花でいっぱいだった。レストランも天上から、壁まで花だった。老後をビクトリアで暮らしたいという人が多く、人気No.1だということだった。尾鷲の天狗倉山は尾鷲市から見れば南向きだから、ブッチャードガーデンみたいにすればいいのに、と思ったりする。

 ところで、花に凝ると花の名前をおぼえて忘れない。奇妙なものだ。日本史にも世界史にも興味があるのに。