昨日は新暦のお盆のはじまり。
夕刻には、迎え火を焚き御先祖様をお迎えするのである。
美しい日本の風習である。
ぼくの田舎では、旧暦のお盆だから、一カ月後となる。
「おがら」に火をつける。
柔らかい火が、御先祖様をお迎えする。
「おがら」は、朝の木の皮を剥いだものである。
手に持てば分かるけれど、軽やかな白い木である。
「迎え火やふるさと放れはや六十路」
その「おがら」を足にして動物を作って供える。
材料はきゅうりと茄子。
きゅうりが馬で茄子が牛を模す。
ご先祖様が、お疲れになったら乗られるのだ。
心を籠めて、作ったものだ。
けれど、迎え火を焚く場所が無くなって・・・そんな美しい風習が都市部では無くなりつつある。
寂しい。
「ご先祖様は、何を便りに来るのだろう!」などと思うのは、単なる回顧主義者の戯言か。
ぼくたちが子どもだったころ、小さくても良い水の流れるその畔で火を焚いた。
迎え火の後、花火をしたりして楽しんだものであった。
こうした、美しい風習がいつまでも人の習いとして続く事を願う。
もし、焚か無くても良い。
人の記憶に残っていて欲しいものである。
荒 野人
夕刻には、迎え火を焚き御先祖様をお迎えするのである。
美しい日本の風習である。
ぼくの田舎では、旧暦のお盆だから、一カ月後となる。
「おがら」に火をつける。
柔らかい火が、御先祖様をお迎えする。
「おがら」は、朝の木の皮を剥いだものである。
手に持てば分かるけれど、軽やかな白い木である。
「迎え火やふるさと放れはや六十路」
その「おがら」を足にして動物を作って供える。
材料はきゅうりと茄子。
きゅうりが馬で茄子が牛を模す。
ご先祖様が、お疲れになったら乗られるのだ。
心を籠めて、作ったものだ。
けれど、迎え火を焚く場所が無くなって・・・そんな美しい風習が都市部では無くなりつつある。
寂しい。
「ご先祖様は、何を便りに来るのだろう!」などと思うのは、単なる回顧主義者の戯言か。
ぼくたちが子どもだったころ、小さくても良い水の流れるその畔で火を焚いた。
迎え火の後、花火をしたりして楽しんだものであった。
こうした、美しい風習がいつまでも人の習いとして続く事を願う。
もし、焚か無くても良い。
人の記憶に残っていて欲しいものである。
荒 野人