エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

石田波郷俳句大会

2013年07月26日 | ポエム
石田波郷といえば、まず東京都江東区が想起される。
だがしかし、東京都清瀬市もまた、波郷ゆかりの地なのである。



ここには、結核研究所があって、昔の縁を見せてくれる。
石田波郷は、ここに入院療養生活を送ったのであった。

波郷は「結核」という病を得たのであった。
彼が、ここで暮らした時期この病院は「国立東京療養所」と言った。







「病を得波郷の視線やムクゲ咲く」







いまは、財団法人「複十字病院」である。
現在は総合病院として、地域医療に貢献している。

何故、ここ清瀬市に来たのかと言うと「石田波郷俳句大会」の投句締切が月末に迫ったからである。
清瀬の自然を詠み込んだ一句を投句したいからでもある。



従って「金山緑地公園」にも足を伸ばした。
子どもたちが川遊びをしている。

昔のぼくたちのように、川で遊んでいる。
楽しそうであった。



この公園には、湿地帯があってそこには木道もどきのコンクリート舗道が渡されている。



ぼくの大好きな「ガマノホワタ」もあった。
緑と穂の茶色がマッチしていて、なんともいえない風情がある。



ここには「カワセミ」も飛来するらしく、カメラを抱えた人々がシャッター・チャンスを狙っているのであった。



水と光の織りなす風景は、心和むのである。

因みに石田波郷を簡単に紹介すると、1969年11月21日午前8時30分、肺結核で病没した。
韻文精神に立脚した人間諷詠の道を辿り、中村草田男、加藤楸邨とともに人間探求派と呼ばれたである。

となる。



         荒 野人

實俳句の海へ・・・6

2013年07月25日 | ポエム


實さんは、予科練航空隊で終戦を迎えられ、23年4月に京王帝都電鉄に入社。
管理畑を歩いてこられた。
退職時は、高幡不動駅に管理官として常駐、重きをなしたのであった。


實俳句
 「墨絵その色彩との会話」



Ⅲ 秋  いわし雲





物置けば生まれる翳に秋の声  實


 秋・・・秋思の侯である。
 人影にも、ものの翳にも秋が潜んでいる。
 その翳には、秋の声が畳みこまれており、踏んではならない翳である。
 哀しみとか、可笑しみとか、人の一つ一つの所作に生まれる翳こそが本質なのだと言っている。





野仏に添いてぽつりと彼岸花  實


 野仏は、田園地帯のいたるところに安置されている。
 山道、杣道にだって石の仏がある。
 自然を畏怖し自然と生きてきた人々の証である。
 穏やかで心やさしい人々は、野仏に手を合わせ健やかなることを祈る。
 野仏は、畦道の交差する場所にも多く、手を合わせていると否が応でも畦道に咲く彼岸花が視野に入って来る。
 正に赤一点である。




 
川底の石語り出す秋の水  實


 秋の水は鮮烈でいながら、柔らかい。
 とりわけて丹沢の伏流水は鮮烈でいながら、尖っていない。
 秋・・・その水に洗われつつ、川底の石が一斉に語り出す。水が掻き乱され泡立つ。
 その白い泡が流れに沿って下流に向かう。
 故郷の水は、やはり旨い。





晩秋や白菜洗う指の先  實





 晩秋、白菜を洗う指の先が見えたのであるから、その指はさらに白くなければいけない。
 きっとプラチナのように輝いていたに違いない。
 その指の持ち主は、夫人であることは誰が読んでも分かる。
 それを臆面もなく俳句にしてしまう。
 羨ましい限りである。





山路来て枯れゆくものの音を聞く  實


 秋、山の径は生きとし生けるものが枯れていく。
 その枯れるという行為には、次の新たな命を育む作業でもある。
 必然であって、必要不可欠。
 生きるための必要十分条件なのだ。
 その山路を歩いていて、枯れゆく音を聞いたのだ。
 その茶色に枯れる音は、静謐の音である事は間違いない。




半分は夕焼けが喰う子守柿  實




 美しい日本の習い。
 この季節、どこに出かけても柿の木の上に赤く熟した柿が残されている。
 子守柿だ。
 その子守柿が、赤い夕陽に染まって消えていくようだ。
 そう、夕焼けに食べられてしまったのだと感じたのだ。
 小さな命への愛情の深さに感服する。
 昨秋の柿が熟れる時期、ぼくはその柿を啄ばむ烏と天使に分け前として与えるといった俳句を詠んだ。
 實さんは、夕焼けに差し上げたのだ。





          荒 野人

實俳句の海へ・・・5

2013年07月24日 | ポエム


実直で、優しそうな写真である。
シャープな眼差しである。
植物が大好きで、花の名前も良く知っていた・・・夫人のお話である。
小さな生き物に注がれた視線は、暖かかったに違いない。

今日は、夏の句を紹介する。


實俳句
 「墨絵その色彩との会話」



Ⅱ 夏  大けやき


一瞬の光残して青蜥蜴  實


 青蜥蜴、ぼくは爬虫類を読むのは苦手だけれど、實さんは金属的な光を帯びた青蜥蜴の背を見ているのだ。
 石壁かあるいは土塀に溶け入るように消えた青蜥蜴の色が印象深かったのだろう。
 一瞬の事であったけれど、記憶の中に残されたのは光である。
 その光は青である。


声までも若やぎみせて藍浴衣  實


 藍浴衣。
 きっと奥さんの浴衣姿なのだろう。
 藍浴衣を着た妻は、声までも若やいでいる。
 嗚呼、この妻で良かった!そう感慨に耽っている。
 藍色と妻の肌が溶け入るように優しい。
 安らぐ時間である。




旅帰り肥えいし茄子の艶をもぐ  實


 きっと、夫人と共に数日間旅に出ていたのだろう。
 出かけるときは、小さな実だったのに、帰宅してみると大きくなっている。
 大きくなって、茄子紺の色も鮮やかである。
 ほっておいてすまん!そう言葉をかけながら肥えてしまった茄子を捥ぐ夫婦の姿が浮かんでくるではないか。


湿生花園傘の花咲く青嵐  實


 湿生花園、箱根であろう。
 秦野からもそれほどの遠出ではない。
 水生植物が木道の両脇に植栽されている。
 静かな場所である。
 湿生花園からは、芒原が望見できる。
 散策をしていると俄かに緑雨があった。
 途端に傘の花が開いて、あたかも湿生花園に彩り豊かな花が咲いたようであった。


羅で女ざかりをつつみけり  實


 うすもの・・・。その着物に袖を通した女一人。
 それは誰であろうか?女ざかりと云う實さん。
 奥さんへの追想であろうか、はたまた通りすがりの女であろうか。
 薄い皮脂を纏った、朧たけた女である。
 触れれば、フッと吸い込まれそうなほど艶やかな肌である。




焦点をバラに取られて写さるる  實


 この薔薇は何色だったのだろうか?
 カメラのピントがどうしても被写体に合わない。
 それほどのインパクトのある薔薇。
 あるいは、淡い色の薔薇とも読める。
 やはり赤色だったのだろうか。
 それとも、遺句集の写真の背景に咲く紫系の薔薇だろうか?
 きっと若かったころ情熱を注ぎ込んだ奥さんとの追憶の赤だったのだと思う。




病葉の落ちて一つの音を聞く  實


 病葉が落ちて、静かな音を立てる。
 静謐で寂しい感性である。
 きっと、病葉に自分を投影させて詠まれたのだろうと推し測る。
 病葉が落ちたとて、音が聞こえる訳もないけれど實さんには確かに聞こえたのだ。
 緑の葉、繊細な葉脈。健康な葉を、茶色に蝕んだ虫の仕業を憎むと云うよりも愛おしんでいる。
 實さんの包容力のある視点が感じられる句である。






              荒 野人

百日紅

2013年07月23日 | ポエム
夏の日。
暑さが体全体を包むかのように感じる日。

喘ぐような日である。
百日紅の赤が、目に痛い日である。



とりわけ、そんな日の午後は、ぐったりしてしまう。
中村草田男が名句を残している。


さるすべり
 ラヂオのほかに
  音もなし
       草田男

うだるような夏の日。
何処からか、ラヂオの音が聞こえてくる。
ラヂオ以外、誰がこんな暑さの中で活動すると言うのだ。







「百日紅雲の湧き出る音を聞く」







花言葉は「愛嬌」「不用意」「世話好き」「雄弁」「活動」とある。
花のイマージュとは合わない。
もっと世話好きであって、煩わしさを感じるほどの花である。



      荒 野人

實俳句の海へ・・・4

2013年07月22日 | ポエム
俳句鑑賞のつづきである。



實さんは、カラオケが大好きだった。
そう夫人が述懐されておられた。

18番は「山茶花の宿」であったと云う。

實俳句
 「墨絵その色彩との会話」



Ⅰ 春 草萌ゆる
のつづきである。





陽炎を咀嚼しており放し牛  實


 陽炎を咀嚼する牛。
 面白い景色である。
 陽炎が、下萌の草と重なって牛の健康体が見えてくる。
 霞むようにみえる牛だけれど、その遠因は、陽炎を食むからだと言っている。



夕ぐれや野焼きの匂いすれ違う  實


 夕暮れに野焼きの匂いと擦れ違った。
 未黒野になった野原。草の燃えた芳しい春の匂いである。
 野焼きによる命の再生、ただ黒いだけではない命の萌芽が鮮やかに網膜に映るのだ。


あるかなしの風を育てて雪柳  實


 實俳句には、頻繁に猫柳、雪柳が登場する。
 この句もその一つである。
 雪柳の銀色に光る枝が目に浮かんでくる。
 しかも、その雪柳は風を育てているというのだ。
 風の色は銀色。
 やがて、白く熟成した色に変わっていく。





浮き沈むおたまじゃくしの四分音符  實


 おたまじゃくしを四分音符に置き換えた。
 すると忽ち音楽が實さんの頭に浮かんできた。
 童謡だろうか、それとも唱歌、あるいは歌曲だろうか。
 どちらにせよ、自然の中に色を見、音楽を感じる感性の實さんである。



写真を探している。
ぼくの写真は、概ね30万枚を超える。
ここ数年間の写真でも、5万枚を超えるのである。
適当ん写真が見つからないのだ。
見つかったら、改めてアップする。
お待ちいただければ幸いである。



      荒 野人