自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆人々の死の告知

2010年08月04日 | ⇒メディア時評
 ローカル紙あるいは全国紙の地方版には、新聞社が独自に判断して著名人の死を掲載する記事死亡や、企業経営者ら名士の死を告知する死亡広告とは別に、「おくやみ欄」や「おくやみページ」というものがある。掲載は無料で、短信ながら、市町村別に亡くなれた方の名前や年齢、死亡日、葬儀の日程と場所、喪主、遺族の言葉で構成され、このページのニーズは高い。

 おくやみ欄に目を通すといろいろなことが脳裏をよぎる。若い人の死亡が散見される。20代、30代、40代での死亡は、その死亡原因を想像してしまう。病死か、交通事故死か、あるいは自殺か、と。その喪主が父母だったりすると心中をはかるに忍びない。遺族の言葉に「やさしい子でした」とあると病死か、「精一杯頑張りました」とあると自殺かとつい思いをめぐらしてしまう。喪主が妻だと、妻子の生活や将来を他人ながらつい案じてしまう。

 ことし5月の連休に訪れた沖縄では、地元紙に日々掲載される死亡広告の多さに圧倒された。おそらく、沖縄では名士でなくとも、人の死を電話ではなく、地元紙に死亡広告を出して親族に知らせるのが普通なのだろう。その方が、迅速に広範囲に告知できるからだ。現地で「カメヌクー」と呼ばれる亀甲墓はとにかく大きい=写真=。1000坪の敷地の墓もあると観光ガイトから聞いた。このお墓の大きさからして、確かに数十人の参列の葬儀は合わない。死亡広告でファミリーに広く知らせるのが沖縄流なのだろう。ちなみに、沖縄の亀甲墓の形は母親の胎内を象徴しているのだという。死者は常に産まれた所に還り、ご先祖さまはまたいつか赤ん坊になって還って来るという「あの世観」があるそうだ。

 人の死を告知する「おくやみ欄」は、地方紙の販売戦略という意味合いもあるが、それは別として、この欄があることで、人々の死はオープンであり、身近な存在に感じる。もちろん、遺族によっては掲載してほしくないというケースもあるだろう。ともあれ、朝刊で知って、弔電を打ったり、数珠を持って出社して夕方帰りに通夜に参列したりということも日常である。ところが、全国紙の東京都内版ではこの「おくやみ欄」はない。都内版で「おやくみ欄」を入れると数が膨大でニュースのスペースが圧迫されるからだろう。せいぜいが著名人の死亡記事が散発的に掲載される程度だ。

 ここで、東京・足立区で111歳の男性とみられる白骨遺体が見つかった事件を、「人の死の告知」という観点で考えてみる。地方に住む者にとって、「おくやみ欄」を通じて、人の死は告知されるのが普通と考える。では、都内はどうだろうか。おそらく、人の死の告知は死亡記事で書かれるような名士、つまり上場企業の元経営者、作家、あるはよく知られた芸能人とか限られたケースと考えられているのではないか。

 人の死の告知というシステムがなければ、人の死は遺族が知りえる親戚、限られた友人、知人だけの周知にとどまってしまう。ところが、人生は遺族が知りえるほどの狭さではない。その人に会社というステージがあれば、さまざまにかかわってきた人がいて、喜怒哀楽があったはずである。葬儀場に赴かなくとも、どこかで哀悼してくれる人がいるはずである。自身もそうだ。お世話なった人の名が「おくやみ欄」にあればその場で悼む。

 「111歳の男性」は告知されるどころか、その死すら否定されてきた。その後の報道によると、100歳以上の10数人の生存が確認されていないという。これは氷山の一角だろう。生死観は人間のモラルの原点である。人の死の尊厳とは何か。放置される死もあれば、放置される命もある。生と死に関する人々の関与が希薄になっている。

⇒4日(水)朝・金沢の天気  はれ
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