自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その6~

2024年12月31日 | ⇒ドキュメント回廊

  この1年、能登を何度も往復した中で、よい意味で変わらぬ光景だったのが祭りだった。能登では元日の地震で2万4千棟の住家が全半壊した。それでも、能登の祭りのシンボルでもあるキリコや神輿を出せる町内は出して祭りを盛り上げていた。7月5日に見た能登町宇出津の「あばれ祭」に能登の人々の心意気を感じた。

           逆境にめげず祭りを楽しむ能登人の心意気

  宇出津は港町でもある。元日の地震で沿岸の地盤が沈下して港町の一部では海水面より低くなったところもある。そんな中で祭りの掛け声が響き渡っていた。「イヤサカヤッサイ」。掛け声が鉦(かね)や太鼓と同調して響き渡る。高さ6㍍ほどのキリコが柱たいまつの火の粉が舞う中を勇ましく練り歩く。神輿2基とキリコ37基が港湾側の祭り広場に集った。キリコの担ぎ手は老若男女で衣装はそれぞれ。キリコに乗って鉦と太鼓をたたく、笛を吹く囃子手(はやして)にも女性も多くいた=写真・上=。  

  この祭りにはルーツがある。江戸時代の寛文年間(1661-73)、宇出津で疫病がはやり、京都の祇園社(八坂神社)から神様を勧請し、盛大な祭礼を執り行った。そのとき大きなハチがあらわれて、病人を刺したところ病が治り、地元の人々はこのハチを神様の使いと考えて感謝した。それから祭りでは「ハチや刺いた、ハチや刺いた」とはやしながら練り回ったというのが、この祭りのルーツとされる(日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」公式ホームページより)。逆境に立たされれば、立たされるほど闘争心をむき出しにして元気よくキリコを担ぐ、そのような言い伝えのある祭りなのだ。

  8月24日には輪島大祭の住吉神社の祭りに行ってきた。境内は震災で本殿が全壊し、高さ7㍍もある総輪島塗の山車や曳山も倒壊、鳥居や石灯籠も倒れた。そんな中でも、若い衆がガレキの山をバックに祭り太鼓を披露していた=写真・下=。前日までは人手が足りないのでキリコは出さないことになっていたが、祭り当日になって仮設住宅や金沢などの避難先からキリコ担ぎの仲間たちが続々と集まり、夕方になってキリコも担ぎ出された。「やっぱりキリコが出んと祭りにならん」。祭りを盛り上げたいという若い衆の気持ちが伝わったのだった。

  能登の祭りは地域の参加者だけが楽しむのではなく、参加したい人をどんどんと受け入れ、みんなで楽しむ。逆境にめげずに祭りを楽しむ能登人の心意気が伝わってくる光景だった。

⇒31日(火)夜・金沢の天気   くもり

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☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その5~

2024年12月30日 | ⇒ドキュメント回廊

       能登半島を車で走っていてこの一年変わらぬ光景がある。それは、山頂に並ぶ長さ30㍍クラスの風力発電のブレイド(羽根)が回っていないことだ。日本海に突き出た能登半島は風の流れがよいとされ、ブレイドが回る風力発電は能登では見慣れた風景でもあった。ところが、元旦の最大震度7の揺れ以降、ブレイドがストップした。風力発電が立地する場所は珠洲市が30基、輪島市が11基、志賀町が22基、七尾市が10基の合わせて73基で、その後に再稼働したのは志賀町にある日本海発電(本社・富山市)の9基とほか数基ようだ。

     この一年、ブレイドは回らず 凍える風力発電 

  今月27日に半島の尖端の珠洲市を訪れたときに国道249号の大谷トンネル付近から見えた5基はすべて止まったままだった。山には積雪があり、まるで風車が凍えているかのようにも見えた。同市にある30基の風力発電を管轄している「日本風力開発」(東京)の公式サイトによると、発電所や変電所の敷地内外を徒歩によるアクセスやドローンおよび航空写真で確認した。その結果、1基についてはブレイド1枚の損傷を確認した、としている。「6月10日現在の状況」として、ブレイドの損傷原因を現在も引き続き追究中で、それ以外の風車およびほかの設備についても周辺安全に影響する損壊がないことを確認しながら、具体的な復旧方法や工程を関係機関とともに策定中、とある。しかし、再稼働の日程については公式サイトでの記載はなかった。

  風力発電のブレイドは地震の揺れで自動的に止まるため、メンテナンスを施して再び稼働させる。では、なぜ再稼働がなぜ進まないのだろうか。以下は憶測だ。再稼働させるための器材を積んた車で現地にたどり着くことが困難なのだろう。山の道路に亀裂ができたり、がけ崩れなどで寸断されていることは想像できる。さらに、9月の記録的な大雨で山道そのものが崩れたりと、アクセスがさらに難しくなっている可能性がある。実際、今月27日に同市を訪れた際も、これまで行ったことがある風力発電の場所に車で行こうとしたが、山の道路の入り口に「がけ崩れ危険」と立ち入り禁止のカラーコーンが置かれてあった。

  能登半島では今後さらに風力発電の増設が計画されていて、13事業・181基について環境アセスメントの手続きが行われている。風力発電は再生可能エネルギーのシンボルでもある。以前、珠洲市で現地見学をさせてもらったことがある。風速3㍍でブレイドが回りはじめ、風速13㍍/秒で最高出力1500KWが出る。半島の沿岸部、特に北側と西側は年間の平均風速が6㍍/秒を超え、一部には平均8㍍/秒の強風が吹く場所もあり、風力発電には最適の立地条件にある、との説明を受けた。

  能登での風力発電の立地に地震というネックがあることが露呈した。果たしてこのまま181基の立地計画は進むのか。それより何より山の道路が再び整備され、再稼働が可能なのか。

⇒30日(月)午後・金沢の天気    はれ

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★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その4~

2024年12月29日 | ⇒ドキュメント回廊

  元日の能登半島地震のある意味でシンボル的な光景とされてきたのが、輪島市で240棟余りの商店や民家が全焼し焦土と化した朝市通り、そして、倒壊した輪島塗製造販売会社「五島屋」の7階建てビルだった。その後、朝市通りやビルはどうなっているのか、今月26日に現地を見に行った。

         徐々に進む復旧・復興への足音 震災と洪水の二重災難を超えて 

  倒壊ビルの現場では、パワーショベルなど重機2台が動いていた。行政による公費解体は11月初旬に作業が始まった。2棟ある五島屋ビルのうち倒壊を免れた3階建てのビルは解体が終わり、市道にはみ出して倒壊した7階建てビルは3階から7階部分の解体撤去が終わっていた=写真・上=。工事看板によると、解体作業は来年1月いっぱいまで続くようだ。

  現場では倒壊によってビルに隣接していた、3階建ての住居兼居酒屋が下敷きとなり、母子2人が犠牲となっている。問題視されているのはビル倒壊の原因が何なのかという点に絞られている。一部報道によると、2007年3月25日の能登半島地震でビルが大きく揺れたことから、五島屋の社長はビルの耐震性を懸念して、地下を埋めて基礎を強化する工事を行っていた。それが倒壊したとなると、社長自身もビル倒壊に納得していないようだ。ビルの築年数は50年ほど。基礎部の一部が地面にめり込んでおり、くいの破損や地盤が原因ではないかとも指摘されている。国土交通省が基礎部を中心に倒壊の原因を調べている。なぜ、震度6強の揺れに耐えきれずに根元から倒れたのか。ビル倒壊の原因が分かってくれば、責任の所在もおのずと明らかになるだろう。

  次に朝市通りに行く。軒を連ねていた通りの240棟が全半焼し、4万9000平方㍍が焼け野原となった。現地を眺めると一面に更地が広がっていた=写真・中=。焼け焦げたビルなどの解体撤去もほぼ終えていた。行政としても、朝市通りは震災復旧のシンボルでもあり、力を注いできたのだろう。素人目線ながら、復興に向けて大変なのはむしろこれからだろうと憶測する。被災地でよく問題になるとされるのが、土地の区画整理だ。誰の家がどこにあったかなどを測量して、近隣と合意を得て区画整理していく。これが4万9000平方㍍となると膨大な作業となり、かなりの年数がかかるのではないだろうか。

  地元メディアの報道によると、震災からの復興計画を進めている輪島市の復興まちづくり計画検討委員会は今月20日、計画案をとりまとめ、輪島市長に提出した。目玉となるプロジェクトに「輪島朝市周辺再生」を掲げ、商店街や住まいの共生を目指して市街地整備を行う。これを受けて行政は市民からも意見を求め、来年2月中に正式決定する。復興計画の期間は10年で、2026年度までを上下水道などのインフラ整備などを進める「復旧期」、2030年度までを朝市周辺の新たな街づくりを進める「再生期」、2034年度までを地域資源を活用した新たな観光や産業を創出する「創造期」と定め、復興プロジェクトに着手していく。

  朝市通りから金沢に帰る途中に、48時間で498㍉という9月の記録的な大雨に見舞われ、床上浸水した仮設住宅の宅田町第2団地に立ち寄った。市内中心部を流れる河原田川の氾濫で、団地の一帯が冠水した。住人にとってはまさに震災と豪雨による二重災害となった。豪雨から3ヵ月を経て、仮設住宅の修繕が終わり、住人が避難所から徐々に戻っていた。車に積んだ布団や毛布を住宅に運び込む姿をよく見かけた=写真・下=。本格的な冬に入る。これからは寒波や雪との戦いになるのだろう。

⇒29日(日)夜・金沢の天気    あめ

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☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その3~

2024年12月28日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登半島地震で分断されていた国道249号の復旧工事で、通行止めの最後の区間がきのう27日午後に開通した。さっそく現地に赴いた。塩田村で知られる珠洲市仁江町と観光ホテルなどがある同市真浦町を結ぶ逢坂トンネルは土砂で埋まり通行不能となっていた。ここに国土交通省がトンネルの海側沿いに全長1.7㌔の迂回路を造成した。

  国道249号が全線通行可に
        絶景の迂回路

  道路の幅は1車線分の5㍍ほどで、車の待避スペースも複数設けられている。緊急車両と地元住民のみに通行が制限されているので、迂回路の入り口付近で撮影した。日本海の冬の荒波が岩場に当たって舞い上がり、地震で崩れた山の岩肌がむき出しになった場所を迂回路が通る=写真・上=。素人目線ながら、「絶景」という言葉が浮かんだ。そして、この光景はジオパーク(Geopark)だと。まさに、震災後の光景だ。大地の造形物は何千年、何万年と歴史を刻みながら少しづつ姿を変えきたのだと実感する。

  今月5日には同じく寸断されていた輪島市町野町大川浜の国道249号が開通。また、同市の白米千枚田近くの249号も土砂崩れで埋まったが、地震で隆起した海岸に2車線の迂回路を造成し、対面通行が可能になった。249号の全線開通で地域の復旧・復興の加速を期待したい。

  一方、道路で変わらぬ光景もある。このブログで何度か取り上げたが、金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」横田IC近くの道路盛り土の崩落現場に乗用車が転落している=写真・下=。現場は運転席から見えるので、きのうも確認するとまだあった。年越しの変わらぬ光景なのか。

⇒28日(土)午後・金沢の天気    あめ時々みぞれ

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★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その2~

2024年12月26日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登の光景がダイミックに変わったのは総選挙(10月27日投開票)ではなかっただろうか。「自民党王国」と称されていた石川3区で立憲民主の近藤和也氏が自民の西田昭二氏を破り、4期目の当選を果たした。開票結果は近藤氏が7万7247票、西田氏は6万1308票と、その差1万5939票の大差だった。西田氏は比例復活で3期目の当選となった。

    「なんで選挙、ダラくさい」有権者の気持ちつかんだ立民候補

  「なんで選挙なんかするんや、ダラくさい」。元日の震度7の地震と9月の記録的な大雨に見舞われた能登の有権者の率直な気持ちはこのひと言に象徴されていた。「ダラくさい」は能登の方言でばかばかしいという意味だ。その気持ちは投票行動でも表れていた。石川3区の投票率は62.5%と、前回2021年より3.5ポイント減少した。中でも、地震と豪雨の二重被害となった輪島市では11.9ポイント減の58.9%、同じく珠洲市では9.5ポイント減って62.0%だった。避難者が現地から離れていて、投票に行けなかったというケースもあったろう。それにしても、この減少率は「ダラくさい」の気持ちがにじみ出ているように思えた。ただ、それでも都市部より投票率は高く、金沢市の石川1区は49.5%だった。

  では、なぜ近藤氏が「自民党王国」で勝利したのか。その選挙活動はじつにユニークだった。選挙期間中は防災服姿で、名前入りのたすき掛けもしていなかった=写真・上=。近藤氏は七尾市での出陣式(10月15日)で「与党も野党も関係なく、助け合わなければならない時期。選挙なんてやっている場合か。それが能登の総意だと思う」と憤りの声を上げていた。選挙実施への反発の意味を込め、選挙期間中は防災服姿で、たすき掛けをしないことを宣言した。

  選挙活動は実にアクティブだった。震災後に整備された6000戸余りにもなる仮設住宅を足しげく回り、被災者の声を実際に国会論戦などで反映させていた。地震と豪雨の二重被災の奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)へは選挙期間中にそれぞれの自治体を2回ずつ回った。「まだ能登は大変なんだと全国に訴えていきたい」と述べていた。

      西田氏の選挙演説も聴きに出かけた。輪島市町野町の仮設住宅での遊説だった=写真・下=。防災服姿の西田氏は自らも被災して家族は仮設住宅で生活していると話し、「あまりにも被害が大きく、復旧復興には時間がかかる。どれだけ環境が変化しても、能登に住む方にとってここは大切な場所。安心してふるさとで暮らせるよう、住宅の再建や生業(なりわい)の再生に、『出来ることは全てやる』『やらなければならないことは必ずやる』との強い思いをもって全力で取り組む」と述べていた。

  西田氏の選挙カーのウグイス嬢はマイクのボリュームを低めに「よろしくお願いします」と叫んではいたものの、「被災されお亡くなりになられましたご遺族の皆様へ心よりお悔やみを申し上げます」とのフレーズも何度か入れていた。被災地に気配りをした遊説だった。

      結果的に能登の有権者の気持ちをつかんだのは近藤氏だった。自民党派閥のパーティー収入不記載事件を受け、選挙戦では「政治とカネ」の問題に関心が高まったことが追い風だった。そして、「なんで選挙なんかするんや、ダラくさい」と能登の有権者の気持ちを代弁したことが共感を得たのだろう。

⇒26日(木)夜・金沢の天気    くもり

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☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その1~

2024年12月25日 | ⇒ドキュメント回廊

  きのう(24日)奥能登の地震と豪雨の被災地をめぐってきた。前回行ったのは今月5日なので19日ぶりだった。その間でも随分と様子が変わった被災地の光景もあれば、まったく変わらない光景もある。元日の震災からまもなく1年になる。そして9月21日の記録的な大雨から3ヵ月が経った。能登を中心に被災地をめぐり綴ったブログのこの1年をまとめてみる。題して、「変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨」。

              支援ボランティアをこたつで迎える被災地の心

  きのう訪れたのは輪島市中心部から東方にあり、半島の尖端に近い同市町野町。日本史に出てくる壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れた平家一族の平時忠が能登に流刑となり、時忠の子孫が開墾したと伝えられている平野が広がる。時忠の子孫の時国家(国の重要文化財)は2軒あり、そのうち上時国家は元日の地震で倒壊した。

  時国家だけでなく、町野町の中心部でも地震で多くの住宅が損壊した。そのうちの一つ、鈴屋川沿いに家がある。地震で倒れ、一階部分の駐車スペースに停めてあった車を踏みつぶし、家ごといまにも川に転落しそうになっている=写真・上=。この悲惨な光景を初めて見たのは6月17日だったが、いまも変わっていない。

  町野町は9月の豪雨にも見舞われた。鈴屋川の五里分橋の欄干などに流木がひっかかり、橋がダムのような状態となって周囲の一帯が濁流に飲み込まれた。その中に、被災地の食品スーパーとして元日の地震後も営業を続け、住民を支えてきた「もとやスーパ-」があった。豪雨で店内に土砂や流木が流れ込むなどしたため、一時休業していたが11月に営業を再開。今月5日に行くと「復活オープン」の看板を掲げ営業していた=写真・中=。中に入ると、卵や野菜、総菜や冷凍食品などが並んでいた。そのときに店員から聞いた話が、「売り場を必要最小限にして、店内を支援ボランティアのキャンプ場にする」との内容だった。きのう、そのキャンプ場を見に行った。

  売り場だった場所に緑のカーペットが一面に貼られていた。そして、周囲にはテントが張られ、こたつもあった=写真・下=。キャンプ場の入り口のボードには、「12月26、27日 広島高校ボランティア団体様10名」「12月28、29日 YMCA様10名」と書かれてあった。この場を提供しているスーパーの経営者には直接会えず確認できなかったが、場を無償で提供しているようだ。被災地を支援するボランティア活動は公費解体での運び出しなどさまざまな場面で目にする。能登の冬は寒いのでこたつを用意してボランティアを受け入れる。この光景を見て、被災地の感謝する心に感動した。

⇒25日(水)夜・金沢の天気   はれ後くもり

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★新年元旦に追悼式 能登地震と豪雨で亡くなった514人を弔う

2024年12月24日 | ⇒トピック往来

  けさ金沢でグラリと揺れがあった。午前7時12分すぎだった。気象庁によると、能登半島の西方沖が震源でマグニチュード4.3、志賀原発がある志賀町では最大震度3、金沢は震度1だった。11月26日に震度5弱があった震源地とほぼ同じで、ほぼ毎日のように揺れが起きている。

  元日の能登半島地震、ならびに9月の奥能登豪雨の犠牲者を弔う追悼式が新年1月1日に輪島市の能登空港に隣接する学校法人「日本航空学園」キャンパス体育館=写真=で営まれる。地震による犠牲者は今月19日時点で、直接死が228人、災害関連死(県関係者)が270人となる。豪雨による死者は16人となる。514人の死を弔う。追悼式は石川県が主催し、石破総理ならびに岸田前総理が参列する。式は午後3時35分に開会、地震発生時刻の午後4時10分に出席者が黙祷をささげる。

  輪島市役所に問い合わせると、追悼式の参列は地震ならびに豪雨により亡くなった故人の遺族のみで、それも事前登録制ですでに受け付けは締め切っているということだった。ただ、追悼を希望する市民や町民のために、それぞれの関係自治体が献花台を設置するので、「どなたでも献花をお持ちいただけます」とのことだった。献花台の会場にはテレビモニターを設置する予定で、追悼式の様子をリアルに視聴できるようにするとのこと。献花台の設置時間は午後3時00分から午後5時00分まで。献花台設置の場所は次の10ヵ所。【七尾市】七尾市役所、【輪島市】輪島市役所、門前総合支所、町野支所、【珠洲市】珠洲市民図書館、大谷小中学校、【志賀町】志賀町役場、【穴水町】さわやか交流館プルート、【能登町】能登町役場、【金沢市】石川県庁 行政庁舎1F-101会議室

  追悼式の模様は、「石川県公式YouTubeチャンネル」で生中継され、誰もが映像を通して参加できる。

⇒24日(火)夜・金沢の天気   あめ

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☆北陸は液状化現象の多発地帯 震度5弱以下で電柱傾き、ゆがむ道路

2024年12月23日 | ⇒ドキュメント回廊

  けさの金沢はの冷え込み気温は1度。自宅前の庭や道路には3㌢ほどの積雪となっている。時折、雷鳴がとどろいている。今月6日付のブログでも述べたが、雷が直接落ちなくても、近くで落ちた場合には「雷サージ」と呼ばれる、瞬間的に電線を伝って高電圧の津波現象が起きる。この雷サージが電源ケーブルを伝ってパソコンの機器内に侵入した場合、部品やデータを破壊することになる。何しろ、金沢は全国の都市で年間の雷日数が30年(1991-2020)平均でもっとも多く、45.1日もある(気象庁公式サイト「雷日数」)。雷には注意したい。

  話は変わる。元日の能登半島地震による液状化現象について、けさの朝刊の記事は「震度5弱以下でも液状化多発」の見出しで、能登地震による北陸4県(石川、新潟、富山、福井)での液状化現象は34市町の2114ヵ所で起き、このうち震度5弱以下の箇所で起きた割合が16%におよび、東日本大震災の4%や熊本地震の1%に比べ、4県は液状化しやすい地盤であることが分かったと報じている。日本海沿岸部には液状化が起きやすい砂地が広がっていることが要因とみられる。(※写真は、液状化現状で電柱が大きく傾いた石川県内灘町=1月8日撮影)

  防災科学技術研究所(つくば市)がことし1月から5月に調査を実施。現地で土砂や水が地表にあふれた箇所を確認し、250㍍四方ごとに1ヵ所と数えて集計した。能登地震で起きた液状化の箇所のうち、震度5強の箇所は35%だった。また、半島尖端の震源地から離れた地点では、180㌔南西の福井県坂井市や170㌔東北の新潟市で液状化が確認されている。

  液状化については、金沢市に隣接する内灘町の被災事例をこれまでブログで何度か取り上げてきた。記事では同町の液状化は元日の地震からさらに被害が拡大していると取り上げられている。11月26日に起きた半島西方沖を震源する最大震度5弱の揺れがあり、震度3だった同町では元日に傾いた電柱がさらに傾きがひどくなったことから、被害拡大と分析されている。確かに現地を歩くと、電柱の傾きや道路の凹凸が大きくなっている箇所や新たに電柱が傾斜した場所もあり、被害の範囲が広がったようにも見える。

  そして危惧するのは、このところ能登で発生している地震の震源が元日の半島尖端から南下していることだ。元日の震源は半島尖端の珠洲市だったが、11月26日の地震は半島の西方沖に位置する。地元メディアの報道によると、地震学者のコメントとして、元日の地震で動いた断層とは別の「羽咋沖西断層」が震源の可能性があるとしている。新たな活断層が動きだし、それにともない液状化現象が連鎖するならば、詳細なハザードマップが必要ではないだろうか。

⇒23日(月)午前・金沢の天気    あめ時々ゆき

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★建築家・谷口吉生氏が具現化した禅の研究家・鈴木大拙の言葉「スーッとやるんだ」

2024年12月21日 | ⇒ドキュメント回廊

  館内に入ると「内部回廊」と呼ばれるうす暗く静かな廊下があり、展示室へと伸びている。そして、小さな展示室を抜けると、鈴木大拙館の「水鏡の庭」「外部回廊」「思索空間」のエリアの広がる=写真・上=。水鏡の庭は、コンクリートのプールに水をはったもの。プールには白を基調とした「思索の空間」の建物が映え、風になびく水面に心が打たれる。少しの風でも水面がなびくように設計されているのだろう。

  そして、「思索の空間」の建物には能登でよく見かける白壁の土蔵をイメージする。中をのぞくと、外の風景とまったく別世界の空間が広がる。薄暗い正方形の部屋に木製のベンチが置かれ、畳が敷いてある=写真・下=。どうぞ座禅を試みてくださいと言わんばかりのしつらえなのだ。

  鈴木大拙がよく使った言葉の一つに、「スーッとやるんだ」という短い言葉がある。この場に立つと、その意味がなんとなくわかる気がする。とくに哲学的な意味はないのだろう。風が抜けるようなすがすがしさを感じる心地よい言葉だ。それを谷口吉生氏が建物として具現化したのだろうか、と察した。

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☆来年元日に輪島で二重災害の犠牲者追悼式典 防災力強化へ地域担当を配置

2024年12月20日 | ⇒ドキュメント回廊

  きょうも能登半島の一部が揺れた。気象庁によると、午後0時39分ごろ、能登半島の西方沖を震源とするマグニチュードは3.5の地震があり、海側にある志賀町では震度2が観測された。先月11月26日にはマグニチュード6.6があり、志賀町で震度5弱、金沢は震度3だった。このときは不安が走った。揺れの中心にあたる震央が志賀町にある志賀原発と向き合っている位置にあり、津波は大丈夫か、原発施設への被害はないかと案じたからだ。

  地元紙のきょうの夕刊で、元日の能登半島地震の関連の記事いくつかあった。地震の発生1年となる来年元日に、輪島市で開かれる石川県主催の犠牲者追悼式典に石破総理が出席する、とのこと。式典は午後3時35分開会で、地震発生時刻の午後4時10分に出席者が黙祷をささげる。9月の記録的な大雨による犠牲者も合せて追悼する。地震による犠牲者は今月19日時点で、直接死が228人、災害関連死(県関係者)が270人となる。豪雨による死者は16人となる。514人の死を弔う。

  もう一つの関連記事。政府はきょう、2026年度中を目指す「防災庁」創設を見据え、全閣僚が参加する「防災立国推進閣僚会議」の初会合を総理官邸で開いた=写真、20日付・総理官邸公式サイトより=。47の都道府県を担当する職員として「地域防災力強化担当」を配置し、平時の対策や災害時の情報収集に取り組む方針を確認した。議長の石破総理は「政府一体で本気の事前防災を進める」と強調した。

  内閣府防災部門の定員は現在110人で、災害対応力の強化に向けて、平時は備蓄促進や防災訓練、ボランティア参加などに関して自治体の対応を促す。そして、災害発生時には直ちに現地に駆けつけて災害状況を把握し、避難所の環境の改善など進める。都道府県側にも連携する担当職員の配置を要請する。

  能登半島地震では自治体の対応に関してさまざまな批判が出ていた。住んでいた自治体と避難先の他自治体との相互の情報伝達がなく、被災者に仮設住宅の開設の情報が十分伝わらなかったという事例もある。新設される防災力強化の地域担当には、ぜひ、自治体間のコーディネーター役も期待したい。

⇒20日(金)夜・金沢の天気    くもり  

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