”もう献立に困らない” その5ーなぜ献立フリーにこだわるのか
41.365日連泊の客には、献立フリー
家庭料理は365連泊のお客相手に献立をつくるようなもの。わが家では家人を ”連泊様”
と呼んでいる。 しかも、朝・昼・晩となれば、1095食つくることになる。献立をいちいち
あらかじめ考えてなぞしてはいられない。日々、体調・季節・天候などによって食欲は変わる。
その中で栄養・カロリーを勘案しなくてはならない。どんなに美味い料理・献立だって飽き
も来る。家庭料理は出たとこ勝負に勝るものはない。食べたいときに食べたいものを食べる
に越したことはない。
42.献立は買い物に始まるーーー素材あっての献立フリー
どんなに腕があっても、食材がなければ料理は出来ない。米など主食食材、野菜・魚・肉
などの生鮮食材、乾物などの補助食材、調味料・香辛料など。だから、家庭料理の献立は、
買い物に始まるといってよい。必要と思われる食材をいかに適切に調達・用意するかにかかっ
ている。献立名人は買い物名人といって過言ではない。沢山のレシピを覚えるよりも、食材
選びが優先される。
43.買い物で、栄養管理フリー
魚・肉・葉物野菜・根菜・大豆食品・海藻類など、栄養素を按配して食材を用意しておけば
栄養管理は出来たようなものだ。用意した食材を使い切ればよいのだから。始めに献立あり
きで食材を拾い出すのは大変な作業であることは容易にわかるはずだ。
44.野菜・魚は旬で買うーーー選択フリー
野菜は出盛り(旬)のものを、手当たり次第に買うことにする。自分が使えそうなものを買う。
使えそうもないものを買うと使い残しの原因となる。
魚は鮮度で選ぶ。鮮度さえよければ、生・焼く・煮る・揚げるなど何でもできる。
美味しそうな魚を買えばよい。魚種を先に決めて買いに行くと、鮮度や品質を見落としやすい。
失敗することが多い。
45.買い物は定期的にーーー買い物フリー
買い物に要する時間は馬鹿にならない。出来るだけ少なくしたい。定期的に週1とか、3日に
1度とか。買い物の適量を知ることが出来る。決めた日以外は買い物に行かない買い物フリー。
節約した時間は、保存食・常備菜作りに充てる。
46.総菜・レトルト食品を食べないーーー添加物フリー
市販の総菜・レトルトなど既成食品には添加物は不可欠といえる。添加物は本来の食品では
ないから出来るだけ摂取したくない。添加物に規制があるのは、本来危険性を持つからである。
自分でつくれば、添加物フリー。
47.食べることは生きることーーー労苦フリー
食べることは生きることと実感すれば、台所仕事は労苦にならない。
若いときにはわかりにくいことだが、年をとるとそれが分かってくる。
最近は一人住まいも多い。衣食住は生活の基本。その中でも食は絶対なもの。
調理することが労苦ならば、生きることそのものが労苦となる。
そうなってしまったら仕方がないが、出来るだけそうはしたくない。
生きることは本来喜びのはず。喜びのための食事作りが労苦であるはずがない。
48.食事作りは芸術的ーーーだから献立フリー
食事作りは、建築工程に似ている。
買い物(調達)に始まって、設計・施工・引渡し・管理を行う。
建築と異なるのは、食事作りは調達から始まるというのが自説。
食事作りの凄いことは、この一連の作業を毎日繰り返すことだ。
しかも、建築は建物が残るが、食は跡形もなく消えてしまう。
この消えることを繰り返すのだから凄い!
画家は絵を残すが、音楽家は演奏した後は音の記憶しか残さない。
食事は美味しさの記憶と、健康に蓄積されることになる。
49.生き物としての人間に帰りたいーーー人間フリー
人が、野菜や肉・魚と同じ生き物だ思うこと、実感することは余りない。
老いを感じる年齢とともに、老病死がいやでも身に迫ってくる。
管理社会から離れて、自然人として生きたいと思うようになる。
一人の自然人として何が出来るのかを試してみたくなる。
自分の食べるものは自分でつくれるようになりたい。
自然界では、自ら食を得られないことは死を意味するのだから。
50.縄文人になりたいーーーもう献立に困らない
縄文人は献立を考えてから狩りに行ったわけではない。
獲れたものを食べる。とれないものは食べない。
食べたいものは獲りに行った。獲れるかとれないかは別にして。
今様縄文人は、買い物に行ってから食べ方を考える。
縄文人はわれわれよりも豊かに食を楽しんでいたかも知れない。
、”始めに買い物ありき”ということのために、こんなに長々と
理屈をこねてしまった。
”あなたはもう献立に困らない” 50話終わり。
41.365日連泊の客には、献立フリー
家庭料理は365連泊のお客相手に献立をつくるようなもの。わが家では家人を ”連泊様”
と呼んでいる。 しかも、朝・昼・晩となれば、1095食つくることになる。献立をいちいち
あらかじめ考えてなぞしてはいられない。日々、体調・季節・天候などによって食欲は変わる。
その中で栄養・カロリーを勘案しなくてはならない。どんなに美味い料理・献立だって飽き
も来る。家庭料理は出たとこ勝負に勝るものはない。食べたいときに食べたいものを食べる
に越したことはない。
42.献立は買い物に始まるーーー素材あっての献立フリー
どんなに腕があっても、食材がなければ料理は出来ない。米など主食食材、野菜・魚・肉
などの生鮮食材、乾物などの補助食材、調味料・香辛料など。だから、家庭料理の献立は、
買い物に始まるといってよい。必要と思われる食材をいかに適切に調達・用意するかにかかっ
ている。献立名人は買い物名人といって過言ではない。沢山のレシピを覚えるよりも、食材
選びが優先される。
43.買い物で、栄養管理フリー
魚・肉・葉物野菜・根菜・大豆食品・海藻類など、栄養素を按配して食材を用意しておけば
栄養管理は出来たようなものだ。用意した食材を使い切ればよいのだから。始めに献立あり
きで食材を拾い出すのは大変な作業であることは容易にわかるはずだ。
44.野菜・魚は旬で買うーーー選択フリー
野菜は出盛り(旬)のものを、手当たり次第に買うことにする。自分が使えそうなものを買う。
使えそうもないものを買うと使い残しの原因となる。
魚は鮮度で選ぶ。鮮度さえよければ、生・焼く・煮る・揚げるなど何でもできる。
美味しそうな魚を買えばよい。魚種を先に決めて買いに行くと、鮮度や品質を見落としやすい。
失敗することが多い。
45.買い物は定期的にーーー買い物フリー
買い物に要する時間は馬鹿にならない。出来るだけ少なくしたい。定期的に週1とか、3日に
1度とか。買い物の適量を知ることが出来る。決めた日以外は買い物に行かない買い物フリー。
節約した時間は、保存食・常備菜作りに充てる。
46.総菜・レトルト食品を食べないーーー添加物フリー
市販の総菜・レトルトなど既成食品には添加物は不可欠といえる。添加物は本来の食品では
ないから出来るだけ摂取したくない。添加物に規制があるのは、本来危険性を持つからである。
自分でつくれば、添加物フリー。
47.食べることは生きることーーー労苦フリー
食べることは生きることと実感すれば、台所仕事は労苦にならない。
若いときにはわかりにくいことだが、年をとるとそれが分かってくる。
最近は一人住まいも多い。衣食住は生活の基本。その中でも食は絶対なもの。
調理することが労苦ならば、生きることそのものが労苦となる。
そうなってしまったら仕方がないが、出来るだけそうはしたくない。
生きることは本来喜びのはず。喜びのための食事作りが労苦であるはずがない。
48.食事作りは芸術的ーーーだから献立フリー
食事作りは、建築工程に似ている。
買い物(調達)に始まって、設計・施工・引渡し・管理を行う。
建築と異なるのは、食事作りは調達から始まるというのが自説。
食事作りの凄いことは、この一連の作業を毎日繰り返すことだ。
しかも、建築は建物が残るが、食は跡形もなく消えてしまう。
この消えることを繰り返すのだから凄い!
画家は絵を残すが、音楽家は演奏した後は音の記憶しか残さない。
食事は美味しさの記憶と、健康に蓄積されることになる。
49.生き物としての人間に帰りたいーーー人間フリー
人が、野菜や肉・魚と同じ生き物だ思うこと、実感することは余りない。
老いを感じる年齢とともに、老病死がいやでも身に迫ってくる。
管理社会から離れて、自然人として生きたいと思うようになる。
一人の自然人として何が出来るのかを試してみたくなる。
自分の食べるものは自分でつくれるようになりたい。
自然界では、自ら食を得られないことは死を意味するのだから。
50.縄文人になりたいーーーもう献立に困らない
縄文人は献立を考えてから狩りに行ったわけではない。
獲れたものを食べる。とれないものは食べない。
食べたいものは獲りに行った。獲れるかとれないかは別にして。
今様縄文人は、買い物に行ってから食べ方を考える。
縄文人はわれわれよりも豊かに食を楽しんでいたかも知れない。
、”始めに買い物ありき”ということのために、こんなに長々と
理屈をこねてしまった。
”あなたはもう献立に困らない” 50話終わり。
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