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昨年「今年も咲きました(3月15日)」と日記にした。
そして、今年も我家の庭の”木瓜”は花を附けた。
人間は”暦”を発明し、体感だけでなく”季節柄”を暦によって生活の基礎としている。
植物は時期が来れば花を咲かせ、子孫継承の行為等が終われば花を落とす。
繰り返される年によっては、寒暖の差などから”時期”に変動があったとしても、有史という世界観からすれば”無”に等しい。
植物の身に備わったものであったとしても、正確な時計・暦ではなかろうか!?
私の庭に”視覚的に春の到来を知らせる”木瓜の花が咲いた事によって、昨年と同時期に日記として残すことが出来ました。
生活する上で造り出した”環境を壊す種”は、造り出したモノ自身が、無くさなければ、動植物たちは不満に思っていることでしょう。
私たち(動植物)も、この世に生活していますよ!
貴方(人間)達の都合で造り出した気温の上昇や土壌の変質(酸性雨・放射能汚染)などで棲家を追われることは嫌ですよ!
私たちの生活を守って・・・!と、言っているのでしょうね。
この場合の”棲家”は生存できるサイクルであるかも知れない。
サイクルが遮断された場合、私の”来年も咲く”と言う想いと違って、我家の木瓜は咲かないかも知れない。
永年的に”例年どおり咲きましたね!”と云い続けられることを、願いたいものである。