我家の犬くんに関する日記である。
六年程前のある日、娘に「犬を飼いたい!」と私の意思を伝えた。
犬との同居は、中学生の頃、以来であった。
犬種は、息子の処に居るのと同じで!と言う話しがまとまり、娘の友人に”仲人”をお願いした。
やがて生後三ヶ月の子犬と”養子縁組”が決まり、熊本から飛行機で遣って来た。
そして、我家の”次女”となった。
写真による”御見合い”であった。
その映像は鮮明なものではなかった。
どんな子と、期待と不安が交差した。
出迎えた空港で初対面を果たした。
一目惚れであった。
愛しさをおぼえた。
年に一度、予防接種やワクチン接種・フィラリアの予防薬を受けに獣医院に行く位で、世話の懸らない”子”であった。
この様な平穏な日が五年ほど続いた。
この間に、長女は嫁ぎ、此の子は我家の”一人娘”となった。
しかし、今年(平成26年)4月に至って、病気を発症した。
重症であった。
獣医から「何時、如何なる事があって(死亡して)も不思議ではない」と言う言葉を何度と無く聴かされる程度のものであった。
「死なせたくない!」と思ってみても、此ればかりは、人間の”力”だけでは、制御が効かない。
無力を知らされた。
施術の状態をみて、娘は涙ながらに「楽にしてやろう!」と言う場面が、2度ほどあった。
私も、秘かに”その方が良いか?”とも思った。
しかし、奇跡はおきた。
回復の兆しが見え出した時、獣医師が「私の力(医療の施し)ではなかった」と云わしめ、犬くんは”生存を選んでくれた。
振り返って、歴史を検証する。
二つの歴史があったと想定する。
一つは、何事も無く今日まで過ごしてきた架空の歴史。
そして、病という経験を伴う、今回の 実体験の歴史である。
後者の歴史では、犬くんに病気と言う、想いもよらない事件が起きた。
闘病中、娘との感情の葛藤であったり、生きようと努力する犬くんの姿勢を観るに附け、犬くんの死と直面しながら、平常心を装う姿に、愛しさが増幅された様に思える。
生かしてやりたい!と言う想いと願い・・・・
深く関わることで”情が移る”と言うことであろうか?
今は、生きてくれたと言う感謝と伴に、難病を克服してくれた”犬くん”が愛おしく・可愛くて堪らないのである。
二つの想定する歴史の中で、一つ目は実体験でないことから、犬くんに対する感情が”どれ程”のもの定かでない。
だが、後者は、苦しさを経験した分だけ”情”が深くなった事は確かな様である。
この様な事を、経験したことにより「(死なせた悲しさから)犬は飼わまい!」と中学生の頃から思っていた不安や恐怖を克服することが出来た様に思う。
そして、当の犬くんは、この日記を書いている傍で、微かな寝息をたてている。
穏やかな時間の経過である。
追伸
闘病中は、何事にも手助けをしてきたことから”甘え方”を学習したようである。
例えば、スポーツ・ジムに行こうと準備を始めると「私はどうするの?・私も行くのでしょ!」と、思える表情と伴に、甘え声を発し、訴えるのである。
”心を鬼にして!”独り立ち(甘えの解消)出来る状態に戻さなければならない。
此れも辛いよ! ホイホイと、何時ものとおり、甘えさせるほうが楽である。
六年程前のある日、娘に「犬を飼いたい!」と私の意思を伝えた。
犬との同居は、中学生の頃、以来であった。
犬種は、息子の処に居るのと同じで!と言う話しがまとまり、娘の友人に”仲人”をお願いした。
やがて生後三ヶ月の子犬と”養子縁組”が決まり、熊本から飛行機で遣って来た。
そして、我家の”次女”となった。
写真による”御見合い”であった。
その映像は鮮明なものではなかった。
どんな子と、期待と不安が交差した。
出迎えた空港で初対面を果たした。
一目惚れであった。
愛しさをおぼえた。
年に一度、予防接種やワクチン接種・フィラリアの予防薬を受けに獣医院に行く位で、世話の懸らない”子”であった。
この様な平穏な日が五年ほど続いた。
この間に、長女は嫁ぎ、此の子は我家の”一人娘”となった。
しかし、今年(平成26年)4月に至って、病気を発症した。
重症であった。
獣医から「何時、如何なる事があって(死亡して)も不思議ではない」と言う言葉を何度と無く聴かされる程度のものであった。
「死なせたくない!」と思ってみても、此ればかりは、人間の”力”だけでは、制御が効かない。
無力を知らされた。
施術の状態をみて、娘は涙ながらに「楽にしてやろう!」と言う場面が、2度ほどあった。
私も、秘かに”その方が良いか?”とも思った。
しかし、奇跡はおきた。
回復の兆しが見え出した時、獣医師が「私の力(医療の施し)ではなかった」と云わしめ、犬くんは”生存を選んでくれた。
振り返って、歴史を検証する。
二つの歴史があったと想定する。
一つは、何事も無く今日まで過ごしてきた架空の歴史。
そして、病という経験を伴う、今回の 実体験の歴史である。
後者の歴史では、犬くんに病気と言う、想いもよらない事件が起きた。
闘病中、娘との感情の葛藤であったり、生きようと努力する犬くんの姿勢を観るに附け、犬くんの死と直面しながら、平常心を装う姿に、愛しさが増幅された様に思える。
生かしてやりたい!と言う想いと願い・・・・
深く関わることで”情が移る”と言うことであろうか?
今は、生きてくれたと言う感謝と伴に、難病を克服してくれた”犬くん”が愛おしく・可愛くて堪らないのである。
二つの想定する歴史の中で、一つ目は実体験でないことから、犬くんに対する感情が”どれ程”のもの定かでない。
だが、後者は、苦しさを経験した分だけ”情”が深くなった事は確かな様である。
この様な事を、経験したことにより「(死なせた悲しさから)犬は飼わまい!」と中学生の頃から思っていた不安や恐怖を克服することが出来た様に思う。
そして、当の犬くんは、この日記を書いている傍で、微かな寝息をたてている。
穏やかな時間の経過である。
追伸
闘病中は、何事にも手助けをしてきたことから”甘え方”を学習したようである。
例えば、スポーツ・ジムに行こうと準備を始めると「私はどうするの?・私も行くのでしょ!」と、思える表情と伴に、甘え声を発し、訴えるのである。
”心を鬼にして!”独り立ち(甘えの解消)出来る状態に戻さなければならない。
此れも辛いよ! ホイホイと、何時ものとおり、甘えさせるほうが楽である。