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改元、天皇即位に対する違和感

2019-05-04 01:00:04 | その他
改元、天皇即位に対する違和感

たまには堅いことも書いておきましょぅか。

「令和」だそうです。

まあ、昭和から平成と、元号は年月日表記の際などには当然いつも身近にあったものであり、それが「令和」に変わったことについては特に大きな違和感といったものはありません。同時に、特にこれが「めでたい」ことであるという感覚もほとんどありません。

昨今の、なにか天皇即位による「祝意」と合わせて新元号が語られる状況、しかも、基本的にはそれが礼賛に近いような報道ばかりで、菊タブー的に本質的な問題に迫るような報道やコメントがほとんど見受けられないような状況には個人的には違和感を感じます。

戦前まで、天皇は実態はともかく形としては、宗教的権威と政治的権力を一元化された形で専有する存在であったと言えましょう。
無論、すべての事に対して天皇自身が決定したわけではなく、ほとんどのこと「臣下」のものの「輔弼」によるところが多かったのでしょう。

しかし、昭和天皇に対しては、その存在のあり方の根本からして戦争責任が問われるのは当然のことであり、むしろそれがなされないとすれば、戦前の天皇制のあり方を否定することにもつながるのではないかと思います。

現在の憲法下での「象徴」としての天皇のあり方は、相当程度、戦前の天皇のあり方を「反省」した上に成立しているものでしょう。

が、国政に関する国事行為までを行う現在の「象徴」のあり方というのが果たして適当なのかどうか、また「国民主権」「基本的人権の尊重」をその基本理念とする憲法の精神と比較して、現在の天皇、皇族のあり方はそれに反したものになっていないか、例えばこうした視点でのコメント、記事、報道といったものはほとんど見かけることはありません。

法律の規定はあるにしろ、例えば、天皇、皇族には、職業選択の自由もなければ居住の自由もない。事実上、言論の自由もなければ、選挙権、被選挙権もない。いわば基本的人権が保障されていないわけです。そのかわり、多額の税金からなる国費の投入というのはある。

日本の国家の歴史の中で天皇、皇族が独自の存在としてあり続けたことは事実であり、意味が大きいでしょう。

ただ、個人的には天皇の「象徴」としての地位を維持するとしても、現在の国事行為等はなくし、その存在はより「文化的」な制度、仕組みとして整えられていくことが適当かと思いますし、そのために負担するコストはミニマムなものにするのがよいのではないかと思います。

天皇、皇族の基本的人権と関わる問題についても、よりそれが幅広く認められるような方向で検討がなされるべきでしょう。






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