映画「沈黙」 その重さと違和感(2)
あまり原作の方から振り返って映画を評価するというのはよくないところもありますが、
原作の中では通訳も、もとは信者で洗礼も受けていたとされているそうです。
この作品の中では、裏切り頼り、裏切り頼りを繰り返し、「悪人」になりきることもできず、
キリスト教を捨てきることもできない、弱い立場の人としてキチジロー(窪塚洋介)が登場しま
す。ある意味、わかりやすいキャラクターであり、とりわけ日本人には共感されやすいキャラク
ターかもしれません。
が、彼と同様、あるいは彼とは違う意味で、イノウエサマや通詞も、時代の中での苦悩を背負
ってきた立場であり、注目すべきキャラクターとも言えます。
一見、江戸幕府側、キリスト教を禁止する側の代表的立場として振る舞いつつ、かつてはみずか
らがキリスト教徒でもあったという存在、いや、彼らには苦悩はなかったのかもしれない、
単に当時もたらされた「流行」の海外文化であったキリスト教を自らのうちに取り入れ、逆にそれ
が禁じられれば、それに従い自らその「文化」を捨てて、体制側につく、それは別に苦悩とは関わり
のない、普通のその時々での時流にそった判断であっただけかもしれない。
「棄教」に追い込まれるまでの宣教師たち、また、キリスト教を捨てることなく殉教した人達、
半端な弱さを如実に示すキチジロー、こうした人達はいわば「典型的」でわかりやすい。
反面、イノウエサマや通詞、あるいは「棄教」後の宣教師たちの心の内面、その姿はどのような
ものだったか、それは明確には描ききっていないだけに、見るものの推理や判断にまかされる部分
でもあり、私にとっては興味をひかれるところでした。
(つづく)
あまり原作の方から振り返って映画を評価するというのはよくないところもありますが、
原作の中では通訳も、もとは信者で洗礼も受けていたとされているそうです。
この作品の中では、裏切り頼り、裏切り頼りを繰り返し、「悪人」になりきることもできず、
キリスト教を捨てきることもできない、弱い立場の人としてキチジロー(窪塚洋介)が登場しま
す。ある意味、わかりやすいキャラクターであり、とりわけ日本人には共感されやすいキャラク
ターかもしれません。
が、彼と同様、あるいは彼とは違う意味で、イノウエサマや通詞も、時代の中での苦悩を背負
ってきた立場であり、注目すべきキャラクターとも言えます。
一見、江戸幕府側、キリスト教を禁止する側の代表的立場として振る舞いつつ、かつてはみずか
らがキリスト教徒でもあったという存在、いや、彼らには苦悩はなかったのかもしれない、
単に当時もたらされた「流行」の海外文化であったキリスト教を自らのうちに取り入れ、逆にそれ
が禁じられれば、それに従い自らその「文化」を捨てて、体制側につく、それは別に苦悩とは関わり
のない、普通のその時々での時流にそった判断であっただけかもしれない。
「棄教」に追い込まれるまでの宣教師たち、また、キリスト教を捨てることなく殉教した人達、
半端な弱さを如実に示すキチジロー、こうした人達はいわば「典型的」でわかりやすい。
反面、イノウエサマや通詞、あるいは「棄教」後の宣教師たちの心の内面、その姿はどのような
ものだったか、それは明確には描ききっていないだけに、見るものの推理や判断にまかされる部分
でもあり、私にとっては興味をひかれるところでした。
(つづく)