映画「沈黙」 その重さと違和感(1)
「沈黙」は非常に重いも普遍的なテーマにまっすぐに向き合った力作であり、
考えるところの多い作品になつていると思います。
なかなか疲れますが、時間があればぜひ見てほしい作品でもあります。
が、同時に、映画を見て、ある違和感のようなものも残りました。
なんだろうな、この違和感は。
お話の基本は、シンプルです。
江戸時代初期、禁教とされたキリスト教は弾圧され、その中で日本のキリスト教徒
はもちろん、宣教師の中にも「棄教」を迫られた人がいた、その苦悩を、時にむごたら
しい場面や状況も含めて丁寧に描いています。
社会科の教科書で踏み絵を見た記憶がある人は多いし、島原の乱もキリスト教との関係で
語られることも多いでしょう。ですが、その弾圧の実態までよく知られているとは言えません。
さて、この作品を日本人は、また、とりわけヨーロッパの人はどのように見るのか?。
私自身の違和感の大きなところは、幕府側でイッセー尾形が演じるイノウエサマや浅野忠信
演じる通訳が、妙にキリスト教について理解がある(ようなふりをする)ところです。
小説の中では、イノウエサマはかつては信者であったとして描かれています。映画では直接的
にはそのような表現はなかったように思いますが。
当時の幕府がキリスト教を禁止したのは、既に日本の風土、政治や諸制度の中に溶け込んで定着し、
利用価値のある仏教と異なり、極めて危険な思想としてそれをとらえたことはいわば当然のよう
に思われます。
ですが、戦国から安土桃山にかけては地理的な位置の関係もあり、九州地方には一国を支配して
いた大名そのものがキリスト教徒となるなど、その教えはかなり広く広まり定着していったかに
見えるところもあります。
さて、私自身が感じた「違和感」は、この長崎奉行のイノウエサマや通訳の言動です。
妙にキリスト教について理解があるようなその態度、それは当時としては例外というか、ほとんど
そのような立場や考えの人はいなかったのではないか。
キリスト教は忌み嫌うべき異教徒であり、排除するべき、弾圧するのが当然の対象としてしか
意識されていなかったのではないか、とりわけ支配層である幕府側の人については。
いや、そうではないのかもしれない。
新しい思想や宗教、それらを熱意をもつて伝えようとする人があれば、そうしたものを理解し
受け入れる素地、そういうものがこの国の風土の中にあり、二人は支配層にありながら、そうした
日本らしさの象徴的な存在だったのかもしれない、そうした考えも浮かびます。
(つづく)