2012年11月中旬。
ひとり娘は実家食堂へ戻った。
いや、戻ったという言い方はおかしい。 でも適当な言葉も見当たらない。
「好きなことをやってみたい」 「違う仕事をしてみたい」 勝手なことを口走って、両親のもとを飛び出した2004年2月。あれから10年近く。
女性は嫁に行けば、通常 先方の苗字をかたることになる。
一人娘の家は、父が三男坊の、いわゆる 「分家」。
父から派生した苗字は一人娘が嫁に行った時点で通常は先方の苗字をかたることになり、途絶えることになる。
そしてもうひとつ。
ものごころついてから、ずっと見つづけてきた両親の仕事。 食堂。
いつからか当然のように言われ続けてきた 「店を継ぐ」 「継いで当然」。
幼少時から、「婿養子をもらい店を継ぐ」 「苗字をつなぐ」 「実家食堂をつぶすな」 「そば打ちを覚えろ」
両親からではなく、親戚や来店されるお客様から毎日言われ続けてきた。
社交辞令だったと今になっては思うが、私にとっては大きなプレッシャーとなっていった。
ひとり娘は親の心配をよそに、見た目・年齢ともに充実(コロコロ)して育っていった。
中学生時代に初めて見た「タイプライター」に憧れ、高いそれを買ってもらったものの使いこなせなくていつのまにか飾り物。 < 英語わからないのに英文タイプだよ。(^o^;
高校時代は吹奏楽にどっぷりとはまり、当時18万を越える値のクラリネットを親に買ってもらって、それを引きずったまま就職2年目。
就職先の会社で事務部門がコンピューターを導入。 厚さ10センチを超える取扱説明書とプログラミング言語学習の本を横目にうんざりしている上司に、「勉強したい!やらせてください!」と頼んだが、「建築資材部の事務女子に何ができる」と頭っから否定される。
4年後、退職・結婚、長女の妊娠、出産・・
夫と共に店を手伝うはずが、のらりくらりと遊びが優先。両親にはいつも迷惑ばかりをかけていた。
キーボードへの憧れは止まることなく、ワードプロセッサー「書院」を分割で購入。 入力した「自分の思い」を活字で出力できることに感動。 さらにのめりこんでいく。
6年後、二人目の妊娠がわかり、2DKのアパートから一軒家へと4度目の引越し。 出産。
高校入学時から続けてきた吹奏楽への執着は、ここで一段落。 < 生活が大変で自分を楽しむ時間がなくなった。
無理を言ってMSXコンピューターを分割で購入。
通信教育でプログラム言語の勉強を続ける。
TVをモニタ代わりに黒い画面に白い文字。 趣味の範囲でしかないと言われながら続ける。
Windows95 キャンビーが発売されてから再び気持ちは再燃。
長男が小学校へ入学するのをきっかけにWindowsマシンを分割で購入。
プログラムの勉強をしたり、関連雑誌を読み漁ったり、とにかくキーボードに関わりたかった。
そして、平成15年。 紆余曲折があって食堂と両親を横目に、自分の新しい道を求めて歩き出した。
ホームページを作る仕事、パソコン操作のご指導、インターネット回線設定、物理的PC環境の設置、プログラムを組む仕事・・
同僚と二人でどれだけ走り回ったか、どれだけ喧嘩したか、どれだけ泣いたか。
初めてのお客様、初めての仕事、初めての失敗、初めての挫折、初めての悔しさ、初めての・・・
いったい何度、自分の技術の低さと情けなさと頼りなさと悲しさとを味わってきたのだろう。
それでも、「この道で生きると決めたんだ!頑張るんだ!」と思いなおしながら。
世間は甘くない。 付け焼刃の、なまじ 「かじっただけの」 独学、中途半端、技術者カタリを誰が信じるものか。
仕事をもらえるようになるまで、3年。 仕事をもらってからも、お客様に育てられるように、お客様の要求にこたえられるようになるまで3年。
しかしその後3年は、ホームページを作る仕事そのものが縮小~無料でブログやホームページ作成や~時代はまたたくまに変わった。
年単位ではなく、日単位で急激に縮小していく、私の仕事。
これじゃダメだ。 待っているだけじゃダメだ。PCの前に座っているだけじゃ生きていけない。
働けよ、身体、動かせよ。
新しい仕事を見つけるのが理想かもしれない。 けど、これ以上 職種の違う仕事を見つけてやっていけるのか?
PC作業、食堂おばちゃん、フリーペーパー営業、配達、その他にバイト?パート?
たとえば現状で1つ2つ仕事を増やしてみようか。
6:00~10:00、コンビニバイト。
10:00~14:00 ※食堂おばちゃん。
14:00~18:00 コンビニバイト。
18:00~22:00 ※フリーペーパー
22:00~25:00 ※ホームページ更新作業
25:00~28:00 (午前3時) 新聞配達
とか。 ※は現状ね。
これが毎日で、更に週一で別途フリーペーパー配達。
今以上仕事を増やすということは、1日に18時間以上働くということ。
上記のスケジュールでは、ご飯食べる時間とかお風呂入る時間とか、入ってない。
時間の調整が無理、体力的に無理。
できることを改めて考えてみた。
お客様だけでなく、両親にも、子供たちにも、同僚にも、周りに多くの迷惑をかけつづけながら必死に走り抜けてきた10年。
走り続けてきた道は、年齢と自分の脳意識の低下と共に、下降の一途をたどる。
独学で始めた知識は、10年前にはともかく、もう現代のIT世界では通用しない。
IT社会はあまりにも早すぎて、1日油断すると置いてきぼり。
毎日、PC画面に向かっていてもお金は入ってこない。 営業に行っても仕事は見つからない。
これだけにしがみついていても生活はできない。 明日の食べ物にさえもありつけない。
両親にも、子供らにも、同僚にも、これ以上の迷惑はかけたくない。 自分も両親も、年齢は重ねていくのだ。
切り替えるときだと思った。 「私には次のするべきことがある」
あるきっかけで、「私のできることは、やはりこれなんだ。」と認識した。
食事を作ることができる。 誰かに食べてもらうことができる。 きっとそれで生きていける。
そして、同僚の母様をお送りし、改めて感じたこと。
「両親のもとにもう一度帰ろう」
これまで培ってきたことは忘れない。 まだまだつながっている部分もたくさんある。 新しい出会いも見つけてきた。
それらを踏まえて、もう一度、両親が頑張る実家食堂に、再び戻らせてもらうことにした。
両親様。 勝手なことばかりやってきた娘を許してください。
娘はやはり、この道で進むことが 生きていける道だと思います。
2013年8月中旬。
「食堂のおばちゃん」 を もう一度、やらせてください。m(_ _)m