富田元治のブログ

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戦争の話 №3

2017年01月23日 | 面白かった本

戦争の話 NO3

【戦争は絶対にイヤ】

あの戦争を振り返って思うことは、絶対に戦争は反対ということ。

戦争だけはもう絶対に嫌です。

終戦を告げる玉音放送を聞いたあの日、私は涙が出るくらい負けたことが残念だったけれども、

その一方で、これで戦争がなくなったんだなという安心感があったのも正直な気持ちです。

 

神風が吹くとかなんとか言ってましたけれど、戦争終盤は負け戦ばかりでしたから。

戦争に行っていた人達が、これでもう戻って来られると思うと嬉しかった。

兵隊になった私の弟も運良く命を落とさずに戻って来れたから良かったけれども、

あと少しでも長く戦争が続いていたらどうなっていたか分からないですよね。

 

当時の若者の憧れの職業は、女性なら従軍看護婦、男性なら飛行機乗りだったけど、

そうやって憧れの職業について命を落とした人が果たして何人いるのか。

 

沖縄の集団自決、広島、長崎の原爆、その他若い命だけでなく、

大勢の人の未来を奪っていった戦争を、二度と繰り返してもらいたくはないです。

 

そして最後にもうひとつ若い人達に伝えたいことがあります。

私は戦争のため満足いく教育を受けられませんでしたので、

つい先日まで高校卒業の資格を取得するために、若い方達に交じって

高校で勉強をしておりました。

 

通信制でしたので、毎日お会いするわけではなかったのですが、

若い人たちと接して感じたことは、今の若者は忍耐力がないんだなぁということです。

私の若い頃は、十分な教育は受けられないし、食べ物もない、

欲しい物は手に入らないし、恋も自由にできない。

時代が違うと片付けることもできるけれども、私からすると、

今の若者は些細なことで悩むのだなと感じます。

 

日本の将来を背負っていかなければならないですから、

辛いこと、悲しいことがあっても、それを跳ね返す勢いを持って頑張ってもらいたいものです。

期待しています。

(本人の体験談をそのまま掲載しています)

 

 

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戦争の話 №2

2017年01月23日 | 面白かった本

戦争の話 NO2

【戦時中の淡い思い出】

私は開戦を迎えましたから、10代後半を戦争とともに歩んだこととなります。

時代が違うとはいえ年頃の女の子でしたから、今の若い人と同じように、

恋のようなものもしました。

 

当時のご時世では普通なら男女が気軽に話しをするなんて滅多にできませんでしたが、

私の職場に毎朝電話を借りにいらっしゃる海軍の下士官さんがいらっしゃて、

職場に一番乗りで出社していた私は、ほんの少しの間ですが、

その下士官さんと二人っきりでお話をするようになりました。

 

そのうち、その方からお手紙をもらうようになったんです。

時代が時代でしたから、正式にお付き合いをするようなことはありませんでしたが、

その事は戦時中の淡い思い出として大切にしています。

 

今の若い人には当たり前だったり、何でもないような事だったりする下士官さんとの

ふれあいも、私には今でもとっても大切。

例えば、空襲後の帰り道、汽車が止まってしまったのでぽちぽち歩いて家へ帰っているときに、

偶然、下士官さんと出くわしたときの時のこと。

男女が肩を並べて歩けるような時代ではなかったので、下士官さんが前を歩き、

距離をとってその後ろを私が歩いていくだけのことでも、

なんだか心が明るくなりました。

この時に交わした言葉などありませんでしたけどね。

 

下士官さんから最後にお手紙を頂いたのは、戦争が激しくなるちょっと前ぐらいだったかな。

「我知らむ心の底に打つ鼓 思いは猛り香りとともに 重き身に香りや高しと聞きつれど

実るとも思えず心許しなし」という内容のものでした。

 

南方に行かなければいけない とおしゃていた下士官さんが、

この詩の中にどのような思いを込められたのかと考えて読むと、

今でも胸がいっぱいになります。

とても素敵なお手紙でしたから、文面を見なくても今でもこうやってすらすら言えるぐらいです。

しかし、戦時中にお会いできなくなってから、

結局今までこの方がどうしていらっしゃるのか分からないままです。

戦後何十年と経っていますが、お会いしてみたいなと思うことがたまにありますね。

 

【戦争は絶対にイヤ】

戦争の話 NO3へ続きます。

 

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戦争の話 №1

2017年01月23日 | 面白かった本

先日、満89歳で叔母が亡くなりました。

満80歳で、高校を卒業した叔母が雑誌社のインタビューに答えていました。

葬儀会場で、叔母のインタビュー記事を初めて拝見しました。

生前の叔母から、戦争の話は聞いたことがありませんでした。

少し、意外な感じを受け、インタビュー記事を読みました。

 

 

富田ヒロコさん (80)

大東亜戦争開戦時は15歳。 荒尾の万田抗の売店で働いていた。

昭和18年に入り、大牟田本社の計算係として勤務したのち、

昭和20年の少し前に、大牟田より安全だということで、

菊池へ戻る叔父さん家族と共に荒尾から引っ越す。

菊池では知り合いの製材所で働く傍ら、叔父さんが始めた農業の手伝いをして過ごし、

終戦後は昭和22年までシベリアで抑留生活を送っていた旦那さんと結婚。

結婚後は旦那さんが立ち上げた製材所を手伝う。

78歳のとき、戦争のため進学できずにいた高校へ入学し、この春めでたく80歳で卒業を迎えた。

好きな学科は国語。高校生活を終えたこれからは自家菜園などをしてのんびり過ごす予定。

 

【インタビュー】

大東亜戦争が始まったのは私が15歳の時です。

開戦の日は、あちこちの家から軍艦マーチが流れていて少し妙な感じがしたのを憶えています。

初めは良かった戦況も戦争が進むにつれ 「一億玉砕!」 と叫ばれるようになり、

空襲も激しくなる毎日。そんな戦時中の色々な思い出の中から、

今回は特に印象に残っていることを、お話したいと思います。

 

【怖かった空襲】

戦時中の一番怖かった思い出は、昭和20年頃のこと。

戦況がだいぶん悪化し、空襲警報が鳴る頻度も日に日に増えてくるようになった頃のことです。

私はこの頃、大牟田市内の会社に勤務していました。

荒尾からの汽車通勤の最中に空襲警報が鳴り、汽車と線路の隙間に隠れて空襲をしのいだことも

忘れられない思い出ですが、同じ大牟田市内にあった別の三池製作所に、焼夷弾が落とされた時は、

ブルブルと身震いがするくらい怖かったのをよく憶えています。

 

距離にしたら私の職場からは離れた場所にあったのですが、同じ大牟田市内だったことを考えると、

とても、他人事のように思えなくてですね。

うちの職場にも落とされる可能性があるんだなと怖かったです。

 

【辛かった食料難】

辛かった思い出は食料難。

どこの家庭でも食べ物を手に入れるのに苦労されており、

着物をお米に交換したり、農家に手伝いに行ってお米を分けてもらったりしていました。

わが家には食べ物と交換できるような物があまりなかったので、麦に米ぬかを混ぜた物、

ドングリの実をすりつぶして作ったうどん麺、曼珠紗華の根っこ、クサギというとても匂いの強い草。

今では貴重なタラの芽なんかの山菜などいろいろ食べました。

 

曼珠紗華の根っこなんかは毒がると言われていましたが、母が綺麗に何度も洗ったりして、

食べられるようにしてくれていたみたいです。

私の体験談ではありませんが、シベリアに抑留されて方もずいぶん寒いところで苦労されたみたいですよ。

 

戦後に結婚した私の主人もシベリアに抑留された人でした。

よく我が家には、シベリア帰りの人が7~8人集まって、シベリアでの思い出を語りあっていましたね。

主人は病気してもタバコが止められないくたいの愛煙家でしたので、厳しい抑留生活中も

フンドシやらそんなとまで交換してタバコを吸っていたとか。

面白可笑しく話す思い出話もありましたが、実際は寒いところで大変な生活をしてきたんだろうなと

側で聞いていて感じることが多かったですね。

 

【戦時中の淡い思い出】

戦争の話 NO2へ 続きます。

 

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