九月は日奈久で山頭火。
九月は日奈久で山頭火。(画像はサイトから無断借用)。
今日の「アレンジ(熊日)」は、日奈久でした。
現存する山頭火の日記は、八代市を出立した昭和5年(1930年)9月9日から
亡くなる直前の昭和15年(1940年)10月までの大学ノート21冊です。
それ以前の日記は、山頭火自身が焼却したそうです。
日記の原本は松山市の子規記念博物館に保存されているそうです。
『行乞記』(一)には、昭和5年9月9日から昭和5年12月27日までの日記が収載されています。
まず、日記の一行目にある吾妻屋(三五・中)の意味です。
山頭火は、その日に宿泊した宿屋の代金とそのグレードを必ず日記に書いています。
この日は35銭で、中程度の宿屋の吾妻屋だったことがわかります。
八代へ行乞の旅に出た山頭火は再び日記(昭和5年9月9日)を付けはじめ、
それ以前のものは自ら焼却してしまいました。
昭和5年9月初旬、山頭火は自殺未遂をしています。
自殺するにあたって、身辺整理、過去一切を清算するため、これまでの日記八冊を焼き捨てています。
焼き捨てられた日記は、いつからの日記であったのかはわかっていません。
この時点で、過去の山頭火の全てを消し去り、
新しい山頭火の誕生を決意したのでないかといわれています。
山頭火の身からすれば、消し去りたいことが多かったのでしょう。
山頭火の日記は、昭和5年9月9日以降のものが『行乞記』などとして残っていますが、
それはノートが終わると、木村緑平に送り、保管されていたもので、
山頭火は生きている間は他の人に見せることをきつく禁じていました。
大山澄太にも、死後読んで欲しいと話していたようです。
大山澄太は、山頭火を世に知らしめたと言われている人です。
山頭火の日記。
昭和五年九月九日 晴、八代町、萩原塘、吾妻屋(三五・中)
私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。
七時の汽車で宇土へ、宿においてあつた荷物を受取つて、九時の汽車で更に八代へ、
宿をきめてから、十一時より三時まで市街行乞、夜は餞別のゲルトを飲みつくした。
(ゲルト=ドイツ語でお金)。
同宿四人、無駄話がとりどりに面白かつた、殊に宇部の乞食爺さんの話、
球磨の百万長者の慾深い話などは興味深いものであつた。
昭和五年九月十日 晴、二百廿日、行程三里、日奈久温泉、織屋(四〇・上)
午前中八代町行乞、午後は重い足を引きずつて日奈久へ、
いつぞや宇土で同宿したお遍路さん夫婦とまたいつしよになつた。
方々の友へ久振りに――ほんたうに久振りに――音信する。その中に――
・・・・・私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅に出ました。
・・・・・歩けるだけ歩きます、行けるところまで行きます・・・・・。
温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし、
出来ることなら滞在したいのだが、――いや一生動きたくないのだが。
(それほど私は疲れてゐるのだ)。
昭和五年九月十一日 晴、滞在。
午前中行乞、午後は休養、此宿は、夫婦揃つて好人物で、
一泊四十銭では勿体ないほどである。
昭和五年九月十二日 晴、休養。
入浴、雑談、横臥、漫読、夜は同宿の若い人と共に活動見物、
あんまりいろゝの事が考へ出されるから。
昭和五年九月十三日 曇、時雨、佐敷町、川端屋(四〇・上)
八時出発、二見まで歩く、一里ばかり、九時の汽車で佐敷へ、
三時間行乞、やつと食べて泊まるだけいたゞいた。
此宿もよい、爺さん婆さん息子さんみんな深切だつた。
夜は早く寝る、脚気が悪くて何をする元気もない。
行乞記(1) 種田山頭火 ←クリック。(とにかく私は生きることに労れて来た)。
山頭火が、昭和5年9月10日から3泊した木賃宿 織屋(おりや)。
織屋旅館は山頭火が宿泊した全国の旅館の中で現存する唯一の建物。
木賃宿・織屋(おりや)。画像はサイトから無断借用。
温泉もいいですが、高原もいいです。
自生のキキョウ。(阿蘇高原にて)。
自生のノヒメユリ。阿蘇高原にて。
親指の爪と同じ位の大きさです。この花にも感動しますよ。
熊本県の【県花・リンドウ】。 阿蘇高原にて。