唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
てーへんだ!
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てーへんだ、てーへんだ。浦賀沖に「黒船」が来たってよ!
長屋の熊さんと八っあんが大騒ぎしそうな新聞記事だ(熊さんと八っあん、字が読めたっけ?)。実はこれ、昨日の神奈川新聞の、言ってみれば折込付録、「横濱開港新聞」の創刊号、嘉永6(1853)年6月9日付けの1面トップ記事なのだ。
記事内容はなかなか正確だ。
「ペリー提督来航直後に、幕府は浦賀奉行与力の中島三郎助と通詞(通訳)の堀辰之助を小船で派遣するが、ペリーは『幕府の高官以外との交渉には応じない』と突っぱねる。これに困惑した老中首座、安部正弘は浦賀奉行与力の香山栄左衛門を幕府高官と偽りペリーに差し向け交渉にあたらせる(以下省略〕」
少なくとも郷秋<Gauche>が知る、史上初の日米交渉とも言える事実をほぼ正確に伝えている。150年前のこの交渉を経て結ばれる「日米和親条約」さらには「日米通商条約」を不平等な条約締結であったとして、徳川幕府の外交交渉能力を過小評価する向きもあるようだが、郷秋<Gauche>はそうは思わない。
この時の来航こそたったの四隻であったとは言え、圧倒的な軍事力、外交交渉力を持つアメリカとの武力衝突を避け、事態をソフトランディングさせた幕府の、のらりくらりではあっても同時にしたたかな外交能力こそ高く評価されるべきであると、このことを書いた文献を読めば読む程にその感を強くする郷秋<Gauche>なのである。
度々書いているので、郷秋<Gauche>のblogご愛読の皆さんは既にご存知の通り、普段の記事には「?」の多い神奈川新聞であるが、横浜の歴史にまつわる記事を書かせれば、さすがにたいしたものなのである。
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