唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
町田は神奈川県?
一昨日のblogで朝日新聞の新連載小説「夫を亡くして」について触れた折に「主人公のミナが『東京の塾(学校)に行きたい』と云う件がありました。野津田は町田だから東京じゃん、と思ったけれど、考えてもみたら町田が東京府に編入されるのは1893(明治26)年ですから、当時の野津田は神奈川県であったと云うことになりますね」と書きましたが、第12回目となる昨日、作者の門井慶喜氏がそのことに書いておりました。
-----以下、当該箇所引用-----
と言ったとき、昌孝の顔がほんのわずか柔和になったのは、このころの野津田村が神奈川県に属していたからである。いや、野津田だけではない。現代の自治体名でいう三鷹市も、八王子市も、町田市も、青梅市も・・・・・・東京都の二十三区と島嶼部を除いたいわゆる市町村部は、ほとんどが神奈川県だった。
-----引用、ここまで-----
廃藩置県後、現在の東京都区部を除く多摩地区(西多摩郡、北多摩郡、南多摩郡)は神奈川県に属しておりました。大都会である東京の水源地の多くは西多摩郡、つまり神奈川県にあり、東京府の管理所掌外であったのですが、首都東京における生活の基盤である水道の源が他県にあったのではまずいと云うことになり、東京府は西多摩郡、北多摩郡の東京府への移管を国に願い出ます。
この願い出、一度は却下されたのですが急転直下、西多摩郡と北多摩郡だけではなく南多摩郡も一緒に東京府にあげましょうと云うことで神奈川県と間で話がまとまり、1893(明治26)年4月1日に神奈川県から東京府へ移管されたのでした。
不思議なのは西多摩郡と北多摩郡だけではなく、特に望んでいなかった南多摩郡も同時に東京府に移管されたことなのですが、これには訳がありました。当時の南多摩、とりわけ現在の町田市では自由民権運動が盛ん(注)で神奈川県令(知事)もその対応に頭を痛めていたところに西多摩郡と北多摩郡移管の話が出てきましたので、これ幸いと南多摩郡も一緒に東京府に移管したと云う訳です。
注:当時の資料を集めた町田市立自由民権資料館が、ミナが生まれた野津田の、明治時代に自由民権運動の拠点となっていた「凌霜館(りょうそうかん)」跡にある。
現在の地図を見ると南多摩地区、取り分け町田市域が神奈川県に角のように飛び出して見えるのにはそんな訳があったのです。
そんな歴史的経緯があることを知ってか知らずは判りませんが、「町田って、神奈川?」と町田以外の都民から小馬鹿にされたり、「町田は神奈川だからさ」と自虐するような状況が今でもあるのです。
とは云え、例えば小田急線の町田駅と相模大野駅の間は都県境を挟んで1キロしかないとか、JR横浜線町田駅南口のエスカレーターを降りるとそこは相模原市であったり(ヨドバシカメラ町田店の建物の大部分は相模原市)、町田市内のバスは神奈川中央交通、電話の市外局番は相模原と同じ042であったりと、神奈川県とは今でも何かと縁の深い東京都町田市なのであります。
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と云う訳で、例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、昨日に続いて「茶の花」。
横浜市青葉区の住宅地の中に残された小さな里山の四季の移ろいを毎週撮影・掲載しているblog「恩田の森Now」に、ただいまは11月10日に撮影した写真を6点掲載いたしております。佳き秋の日となった森の様子をご覧いただけたら嬉しいです。
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