弁護士太田宏美の公式ブログ

正しい裁判を得るために

事実と真実

2010年02月02日 | 日記
わかったようでわかりません。
事実と真実、同じような気がします。
でも違うような気もします。

遠藤周作のイエスの生涯を読んでいて、氏は聖書の中で
事実と真実を区別する立場だと繰り返して言っていました。
そうだと思うときもありますが、
留保したい時もあります。
たとえば、イエスのベツレヘム誕生は同氏からみると
事実ではないが、真実である、などです。
長い歴史の間、それを切ないほど必要とした人間が無数に
いた、それらの人たちにとっては魂の真実だったのだ。
人間の魂が欲した真実の世界である以上、
ベツレヘムを真実と認めるのが氏の立場というのです。

宗教の問題であれば、いいかなという気もしますが、
やはり、この例の場合は、
信仰のない私には真実とはいえないような気がします。
でも事実がもっとあいまいなものについては、
真実と認めてもいいのかなというふうに考えます。
(なお、この場合、本当はどこで生まれたかはわからないのですから
それならばベツレヘムでいいかなとは思います。)

今日、2日の日経の「春秋」欄にこのような記事がありました。

イギリスの歴史家E・H・カーンの言ったこととか。
「事実というのは袋のようなもので何かを入れなければ立っていない
袋に何かを詰め込むことによって事実は歴史になる」
「何か」は歴史認識であり、袋詰めするのが歴史家である。
したがって、
「歴史を読む場合、最初の関心は事実ではなく、書いた歴史家に持つべきだ」

私なりに解釈すると、事実をいくら集めても何の意味もない。
それをどういう考え方で書いてあるか、
その書いた人の考え方に注目すべきだということです。
ということは、書き手の数だけ歴史があるということでしょう。

ということは起こったことについて話をするときには、
話し手の数だけのストーリーがあるということです。
中には意図的に嘘をいうこともあるかもしれない、
なかには、記憶ちがいということがあるかもしれない、
一部だけしか知らないからかもしれない、など
理由はいろいろでしょう。

このような中から真実(本当は何が起こったんだろうということですから、
事実ではなく、真実というべきでしょう)を
見抜くというのは本当に難しいことです。
そのうえ、見抜く方にも、バイアスがかかっています。
ますます難しいです。

事実と真実。
私たちはやはり真実が知りたいのだと思う。
そのときに、このカーンの「歴史の読み方」のような
考えを知っておくのは
有益なことと思います。

いつも気になっていたことについて
ちょっとだけ視界が開けたように思います。