8月23日、ストロス・カーンの起訴は棄却になりました。
すっきりしない幕切れです。
アメリカの捜査は時間との戦いですから、こういうこともあるのでしょうか。
この起訴は、大陪審といって陪審員の評決で決まったものです。
しかし、そこに持ち込んだ検察側は当然有罪を確信していたはずです。
今回の、棄却は、検察側の申出によるものです。
24頁にわたる書面を提出していますが、
サマリーの部分をみると、被害者が信用できないの一言に尽きます。
過去に何かについて嘘を言ったからと言って、今回の事件も嘘というわけではない、
としながらも、やはり信用できないというのです。
やはり、決定的なのは、今回の事件についての供述がころころと変わり、
その他の証拠との矛盾があるということでした。
暴力の痕跡は間違いないようですが、暴力があるというだけでは犯罪の証明には
なりません。合意のうえだと犯罪にはなりませんし、いつできか傷害かも
問題になります。
検察側としては、被害者の供述から、当日何があったのかがさっぱりわからない
というのです。そして、法廷で証言台に立った時にどういう説明をするのかも
見当がつかないというのです。
検察が自信がもてないことについて、陪審員を説得することなどできないという
わけです。
性犯罪は重罪ですが、それでも、冤罪を作りたくはないというのです。
検察側が訴訟を継続したくない気持ちよくわかります。
最初は、被害者の供述は確実に見えたということです。
被害者はアフリカからの移民ということです。
習慣の違いもあったでしょうし、アフリカでは生きるためには嘘など当たり前
かもしれません。法律のルールなど、関係のないところで生きていたでしょう。
私の推測ですが、法律のルールなど知らないアフリカの移民、それを
法律の下で生きている先進国の我々と同じ
土俵にいる者として扱ったことにそもそも問題があったではと思います。
リビアやシリアを見ていると、全く別の世界だとわかります。
ニューヨークの検察もいい勉強をしたのではないでしょうか。