2月13日、槇原敬之が覚醒剤と危険ドラッグのRushを所持していた容疑で逮捕された。この一報に触れたとき、「ああ、そういえばこの人前にもやってたな」と思い出した。
前回の逮捕が99年。今回の所持は2018年の容疑らしい。仮にその間、薬物を一切絶っていたとするなら、約19年間は使用していなかったことになる。
「19年ガマンしていたのなら、まあ上出来じゃないかな」。ぼんやりとそう思った。
去年の11月に田代まさしが覚醒剤で4度目の逮捕をされたときにも似たような感想が起こった。
「田代さんはもう、たまに薬をやって逮捕されて、を繰り返してるのが本人的には一番いいんじゃないかな」と。
非常にナイーブな問題なので、慎重に言葉を選ばないと誤解を招いてしまうだろう。もちろん僕は薬物を推奨するつもりはない。
ただ、一度覚醒剤に手を出してしまうと、その誘惑に取りつかれてしまい、やりたいという衝動から一生逃れられないという。田代さんは、今回の逮捕前に出演したテレビで、「毎朝起きるたびにやりたいと思う」「1日1日、やめ続けるのを積み重ねるしかない」と話していた。
それって、すごく苦しいことだと思う。だったら、ガマンにガマンを重ねて、できうる限りガマンし続けて、どうしても耐えられなくなったらまたやって、逮捕されて獄中で薬抜いて、出所してまたガマンに臨む・・・。死ぬまでそれを繰り返すのが、本人にとっては健康的なんじゃないだろうか。
もちろんすっぱりやめるのが一番いいに決まっているのだが、それがなかなかできないのが一度覚醒剤を覚えた体なわけで、「周囲の人々を悲しませてしまうのが想像できないのか」といった紋切り型の非難があるが、それがわかっていても手を出してしまうのが中毒者なわけだよね。「周りの人たちが悲しむ」とか「迷惑がかかる」なんて、言われるまでもなくわかっているはずだ。そんなお気楽な非難は、薬物中毒の衝動を知らない人の、能天気な言い草だ。
そもそも、なんで周囲を悲しませたり迷惑をかけたりしてしまうかと言えば、麻薬の使用が法律で禁止されているからに他ならない。もし刑法で罰せられることなく、野放しにされているならば、大酒飲みやギャンブル狂いなんかと同じように、「ちょっと困ったところのある人」と認識される程度で、よっぽどの社会的逸脱がない限りは周囲に許容されてなんとか生きていけるはずだ。
ここでまた大急ぎでお断り。僕は麻薬を合法化すべきだと訴えているわけではない。薬物がもたらす悲しみや迷惑の多くは、「薬物の使用そのもの」ではなく、「刑法に基づく処罰」によってもたらされている、という話をしているのである。
僕は、自分の「薬物と薬物中毒者」に対する考えが、世間のそれと大きくずれていることを感じる。沢尻エリカの逮捕の時にも同じことを感じた。
エリカ様の逮捕後、「尿検査で薬物が検出されなかったら使用の罪を立件できない。本人がやったと認めていても証明できなければシロになってしまう」という声が散見された。まるで、「薬物中毒者にとって一番重要なのは処罰を与えることだ」と言わんばかりであった。僕はその意見に、世間の酷薄さを感じずにはいられない。
処罰など、はっきり言ってどうでもいい。一番大事なのは、本人が薬物を断ち切り、健康で幸せな人生を送ることだ。処罰が必要だとしても、本人の立ち直りと幸せを中心に据えたうえで、それを阻害しない範囲で罰するべきだ。日本人の多くは、「法を犯したのだからとにかく罰すればいい。罰は重ければ重いほどいい」と考えているふしがある。本人の立ち直りのことなど全く眼中にないようだ。あるいは、罰が重いほど立ち直りやすくなるとでも思っているのだろうか。
ひょっとしたら、犯罪であるというだけで罵倒に値すると考えているのかもしれない。以前の雑文「国家が対峙する――ドラッグと国民とグローバル企業」(2019・7・16)でも書いたことだが、薬物の使用とは、基本的に自分自身を傷つける行為である。殺人や強盗のように、他人を傷つけ苦しめる行為とは性格を異にしている。だから、刑法で罰せられるとはいえ、他人を傷つけるその他の犯罪と横並びにとらえるのは間違っている。
僕には、日本人の多くは、本人の立ち直りなど考えず、ただ単にバカ者のレッテルを張り、重い処罰を求めているだけにしか見えない。一言でいえば、「ざまあみろ」と言いたいだけにしか思えないのだ。
でも、薬物中毒者を安易にバカ呼ばわりしている人たちだって、彼らが立ち直るためには周囲の支えが必要不可欠であることぐらいは知ってるはずだ。支えがなければ、日々の苦しみからまた薬物に手を出してしまいかねない。
そして、「周囲の支え」となるのは、必ずしも薬物中毒者に近しい人々だけではない。広く「世間の人々」も含まれるのだ。世間の人々が、自身を罵倒するのではなく、温かい目で見守ってくれていると感じることができれば、薬物を断つ取り組みの励みとなるだろう。逆に、世間が自分を応援しておらず、薄情な態度で接してくると感じられれば、そのつらさから逃れるために薬物に頼りたくなってしまうはずだ。芸能人・著名人であればなおのこと。
単純に、厳しい態度で接していれば薬物中毒者は立ち直ることができるというなら、それでいい。だが、実際はそうではない。広く世間も含めた「周囲の人々」の支え・励ましがあってこその立ち直りなのだ。
厳しい態度で接することは、薬物中毒者を精神的に追い詰め、追い詰められることでまた薬物に手を出す、という悪循環をもたらしてしまう。負のスパイラルを生み出している人たちに薬物中毒者を非難する資格などあるだろうか。
マーシーは逮捕前、PUFFYの「アジアの純真」の替え歌をうたっていた。その歌詞は次の通り。
「アヘン コカイン マリファナ ヘロイン/たまにやって/パーになって/やらんふりしてたまにはやらないか」
うん、それでいいんじゃないかな。できるだけガマンして、薬物をやめ続ける努力を重ねて、それでもどうしてもガマンできなくなったら、またやる。そして逮捕されて、薬抜いて、シャバに出てまたやめる努力を始める。一生それを繰り返していけば、そこそこ健康に暮らしていけるんじゃないだろうか。
一生やらないのが一番。でも、それができないならやったりやらなかったりがセカンドベスト。そう考えたほうが建設的なんじゃないだろうか。
そんで人生を終える際には、自分を罵倒してきた人たちに向かって、「お前ら俺をバカにしてたけど、覚醒剤の気持ちよさを知らないだろ。俺は知ってんだぞ、ざまあみろ」と思いながら死んでほしい。子供のころ「志村けんのだいじょぶだあ」と「バカ殿様」を観ていた身としては、そうでもしないと浮かばれない気がする。
そういえば、マッキーが最初に逮捕されたときにも「もうシャブなんてしないなんて/言わないよ絶対」という替え歌を耳にした。
マッキーに対しても、「立ち直れていたと思ってたけどそうじゃなかった。ミュージシャンのキャリアが台無しだ」ではなく、「よく19年もガマンできたね!次はもうちょっと長くやめられるよう頑張ってみようか!」って声掛けしたほうがずっと前向きだと思う。19年に1回くらいならそこまで体に悪影響ないでしょうしね。
薬物中毒者は、“やらかして”しまった人たちである。だが、麻薬と無縁な我々平凡な一般市民も、やらかしてしまうことはある。酒、博打、異性関係、ビジネス、友達付き合い、家族関係・・・。ありとあらゆる場面で「やらかし」は起きる。そして、やらかしてしまったときには、救いの手を欲するものだ。
我々がやらかしからの立ち直りのために助けを求めるように、薬物中毒者にも何かしらの支えが必要だ。「ったく、しょうがねーな」って苦笑いしながら差し伸べられる救いの手が。
我々一般ピーポーも、なんらかの理想を追い求めることがあるが、必ずしも最良の目的にたどり着けるわけではない。第二志望・第三志望で妥協することが、ままある。薬物中毒者だって同じことだ。薬物中毒者だけが第一志望しか許されないという道理など、あろうはずがない。
僕は、自分が住む社会は、手触りの良い暖かい社会であってほしいと思う。手触りの良い暖かい社会とは、何度やらかしてもそのたび救いの手が差し伸べられる社会のことだ。だから、薬物中毒者が何度やらかそうとも、シャバに戻ってくるたびに受け入れてあげるべきだと思う。
「またイチから始めよう。できるだけガマンしてみよう」。そうやって何度でも助けてあげればいい。
以上、クスリにまつわるエトセトラでした・・・ってあれ?
前回の逮捕が99年。今回の所持は2018年の容疑らしい。仮にその間、薬物を一切絶っていたとするなら、約19年間は使用していなかったことになる。
「19年ガマンしていたのなら、まあ上出来じゃないかな」。ぼんやりとそう思った。
去年の11月に田代まさしが覚醒剤で4度目の逮捕をされたときにも似たような感想が起こった。
「田代さんはもう、たまに薬をやって逮捕されて、を繰り返してるのが本人的には一番いいんじゃないかな」と。
非常にナイーブな問題なので、慎重に言葉を選ばないと誤解を招いてしまうだろう。もちろん僕は薬物を推奨するつもりはない。
ただ、一度覚醒剤に手を出してしまうと、その誘惑に取りつかれてしまい、やりたいという衝動から一生逃れられないという。田代さんは、今回の逮捕前に出演したテレビで、「毎朝起きるたびにやりたいと思う」「1日1日、やめ続けるのを積み重ねるしかない」と話していた。
それって、すごく苦しいことだと思う。だったら、ガマンにガマンを重ねて、できうる限りガマンし続けて、どうしても耐えられなくなったらまたやって、逮捕されて獄中で薬抜いて、出所してまたガマンに臨む・・・。死ぬまでそれを繰り返すのが、本人にとっては健康的なんじゃないだろうか。
もちろんすっぱりやめるのが一番いいに決まっているのだが、それがなかなかできないのが一度覚醒剤を覚えた体なわけで、「周囲の人々を悲しませてしまうのが想像できないのか」といった紋切り型の非難があるが、それがわかっていても手を出してしまうのが中毒者なわけだよね。「周りの人たちが悲しむ」とか「迷惑がかかる」なんて、言われるまでもなくわかっているはずだ。そんなお気楽な非難は、薬物中毒の衝動を知らない人の、能天気な言い草だ。
そもそも、なんで周囲を悲しませたり迷惑をかけたりしてしまうかと言えば、麻薬の使用が法律で禁止されているからに他ならない。もし刑法で罰せられることなく、野放しにされているならば、大酒飲みやギャンブル狂いなんかと同じように、「ちょっと困ったところのある人」と認識される程度で、よっぽどの社会的逸脱がない限りは周囲に許容されてなんとか生きていけるはずだ。
ここでまた大急ぎでお断り。僕は麻薬を合法化すべきだと訴えているわけではない。薬物がもたらす悲しみや迷惑の多くは、「薬物の使用そのもの」ではなく、「刑法に基づく処罰」によってもたらされている、という話をしているのである。
僕は、自分の「薬物と薬物中毒者」に対する考えが、世間のそれと大きくずれていることを感じる。沢尻エリカの逮捕の時にも同じことを感じた。
エリカ様の逮捕後、「尿検査で薬物が検出されなかったら使用の罪を立件できない。本人がやったと認めていても証明できなければシロになってしまう」という声が散見された。まるで、「薬物中毒者にとって一番重要なのは処罰を与えることだ」と言わんばかりであった。僕はその意見に、世間の酷薄さを感じずにはいられない。
処罰など、はっきり言ってどうでもいい。一番大事なのは、本人が薬物を断ち切り、健康で幸せな人生を送ることだ。処罰が必要だとしても、本人の立ち直りと幸せを中心に据えたうえで、それを阻害しない範囲で罰するべきだ。日本人の多くは、「法を犯したのだからとにかく罰すればいい。罰は重ければ重いほどいい」と考えているふしがある。本人の立ち直りのことなど全く眼中にないようだ。あるいは、罰が重いほど立ち直りやすくなるとでも思っているのだろうか。
ひょっとしたら、犯罪であるというだけで罵倒に値すると考えているのかもしれない。以前の雑文「国家が対峙する――ドラッグと国民とグローバル企業」(2019・7・16)でも書いたことだが、薬物の使用とは、基本的に自分自身を傷つける行為である。殺人や強盗のように、他人を傷つけ苦しめる行為とは性格を異にしている。だから、刑法で罰せられるとはいえ、他人を傷つけるその他の犯罪と横並びにとらえるのは間違っている。
僕には、日本人の多くは、本人の立ち直りなど考えず、ただ単にバカ者のレッテルを張り、重い処罰を求めているだけにしか見えない。一言でいえば、「ざまあみろ」と言いたいだけにしか思えないのだ。
でも、薬物中毒者を安易にバカ呼ばわりしている人たちだって、彼らが立ち直るためには周囲の支えが必要不可欠であることぐらいは知ってるはずだ。支えがなければ、日々の苦しみからまた薬物に手を出してしまいかねない。
そして、「周囲の支え」となるのは、必ずしも薬物中毒者に近しい人々だけではない。広く「世間の人々」も含まれるのだ。世間の人々が、自身を罵倒するのではなく、温かい目で見守ってくれていると感じることができれば、薬物を断つ取り組みの励みとなるだろう。逆に、世間が自分を応援しておらず、薄情な態度で接してくると感じられれば、そのつらさから逃れるために薬物に頼りたくなってしまうはずだ。芸能人・著名人であればなおのこと。
単純に、厳しい態度で接していれば薬物中毒者は立ち直ることができるというなら、それでいい。だが、実際はそうではない。広く世間も含めた「周囲の人々」の支え・励ましがあってこその立ち直りなのだ。
厳しい態度で接することは、薬物中毒者を精神的に追い詰め、追い詰められることでまた薬物に手を出す、という悪循環をもたらしてしまう。負のスパイラルを生み出している人たちに薬物中毒者を非難する資格などあるだろうか。
マーシーは逮捕前、PUFFYの「アジアの純真」の替え歌をうたっていた。その歌詞は次の通り。
「アヘン コカイン マリファナ ヘロイン/たまにやって/パーになって/やらんふりしてたまにはやらないか」
うん、それでいいんじゃないかな。できるだけガマンして、薬物をやめ続ける努力を重ねて、それでもどうしてもガマンできなくなったら、またやる。そして逮捕されて、薬抜いて、シャバに出てまたやめる努力を始める。一生それを繰り返していけば、そこそこ健康に暮らしていけるんじゃないだろうか。
一生やらないのが一番。でも、それができないならやったりやらなかったりがセカンドベスト。そう考えたほうが建設的なんじゃないだろうか。
そんで人生を終える際には、自分を罵倒してきた人たちに向かって、「お前ら俺をバカにしてたけど、覚醒剤の気持ちよさを知らないだろ。俺は知ってんだぞ、ざまあみろ」と思いながら死んでほしい。子供のころ「志村けんのだいじょぶだあ」と「バカ殿様」を観ていた身としては、そうでもしないと浮かばれない気がする。
そういえば、マッキーが最初に逮捕されたときにも「もうシャブなんてしないなんて/言わないよ絶対」という替え歌を耳にした。
マッキーに対しても、「立ち直れていたと思ってたけどそうじゃなかった。ミュージシャンのキャリアが台無しだ」ではなく、「よく19年もガマンできたね!次はもうちょっと長くやめられるよう頑張ってみようか!」って声掛けしたほうがずっと前向きだと思う。19年に1回くらいならそこまで体に悪影響ないでしょうしね。
薬物中毒者は、“やらかして”しまった人たちである。だが、麻薬と無縁な我々平凡な一般市民も、やらかしてしまうことはある。酒、博打、異性関係、ビジネス、友達付き合い、家族関係・・・。ありとあらゆる場面で「やらかし」は起きる。そして、やらかしてしまったときには、救いの手を欲するものだ。
我々がやらかしからの立ち直りのために助けを求めるように、薬物中毒者にも何かしらの支えが必要だ。「ったく、しょうがねーな」って苦笑いしながら差し伸べられる救いの手が。
我々一般ピーポーも、なんらかの理想を追い求めることがあるが、必ずしも最良の目的にたどり着けるわけではない。第二志望・第三志望で妥協することが、ままある。薬物中毒者だって同じことだ。薬物中毒者だけが第一志望しか許されないという道理など、あろうはずがない。
僕は、自分が住む社会は、手触りの良い暖かい社会であってほしいと思う。手触りの良い暖かい社会とは、何度やらかしてもそのたび救いの手が差し伸べられる社会のことだ。だから、薬物中毒者が何度やらかそうとも、シャバに戻ってくるたびに受け入れてあげるべきだと思う。
「またイチから始めよう。できるだけガマンしてみよう」。そうやって何度でも助けてあげればいい。
以上、クスリにまつわるエトセトラでした・・・ってあれ?
日本人って、自分と無関係なことに怒りすぎなんですよね。
特に不倫報道の時に思うんですけど、そんなん当事者の家族間の問題だろって、貞操観念がだらしないのはよくないみたいなこと言ってるけど、お前は何で人様の下半身事情に興味津々なんだよって思います。
だったら、社会に一切関心を持たず、何の主義主張もなく、のほほんと生きているほうがよっぽど有益だと言えます。