きょう、スーパーとパン屋に出かけた。買い物の人がとても減っている。新型コロナにおびえていた人が、じつは、思っていたより多く、きのうの緊急事態宣言で、それが表に出たのだろう。脅威が迫っているのだから、こわがっていい。引きこもっていい。しかし、あわてふためかなくても良い。
☆ ☆
それで、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ(The Catcher in the Rye)』の話しに戻ると、主人公のホールデンが歌の歌詞の「ミーツ」を「キャッチ」と間違えていたのを、妹のフィービー(old Phoebe)が指摘する場面がある。
この歌のメロディーは、日本では、学校唱歌の『故郷の空』、そう、「夕空晴れて秋風吹き、……」という歌である。ところが、10歳の妹のフィービーが指摘したロバート・バンズの詩は、ライ麦畑で男女が逢引する歌だ。
ロバート・バンズの詩はつぎのようになっている。
Gin a body meet a body
Comin thro' the rye,
Gin a body kiss a body,
Need a body cry?
ここで “Gin”を “If”に読み替えれば、サリンジャーのテキストと一致する。
ホールデンは “If a body meet a body coming through the rye”を “If a body catch a body comin' through the rye”と間違えたわけだ。
男の子と女の子が追っかけこをしていて、「つかまえて」抱きしめキッスをしたとホールデンが思っていたなら、「ミーツ」を「キャッチ」と間違えても、大きな問題ではない。ところが、ホールデンはまったく違うことをこの歌 “Comin Thro' the Rye”でイメージしていた。
ホールデンは “Gin a body kiss a body”を無視して、子どもが崖から落ちないように、誰かがその子をつかまえることだと思っていた。
ホールデンの頭にあるのは、シュールレアリスムの絵画のように恐ろしい光景だ。私には思いもつかない悪夢のような光景だ。
何千人もの子どもたちがライ麦畑であそんでいる。ライ麦畑には陽の光が いっぱい ふりそそいでいる。しかし、ライ麦畑は急な崖の上にあるのだ。崖の下は、目が眩むほど深いのだ。
ライ麦は背丈が120センチぐらいで、小さい子どもたちには崖っぷちなんて見えない。崖の方へ飛び出してくる子どもも当然いる。
危ない。ホールデンは一日中見張っていて、飛び出してくる子どもを、崖からおちないように、つかまえたいと思う。
性の喜びの歌が、ホールデンの頭では、奈落に落ちる危険におびえる歌になっている。
妹のフィービーに会ったあと、ホールデンは、アントリーニ先生(Mr Antolini)の「すごくしゃれた高層アパートメント」に訪れる。そこで、酔っぱらっている先生に、つぎのように言われる。
「君が今はまりこんでいる落下は、ちょっと普通でない種類の落下だと僕は思うんだ。恐ろしい種類の落下だと。落ちていく人は、自分が底を打つのを感じることも、その音を聞くことも許されない。ただただ落ち続けるだけなんだ。」
そう、ここで、飛び出して崖の下に落ちようとしている子どもはホールデン自身なのだ。そして、つかまえるのもホールデンなのだ。
ここの葛藤は私にはわからない。性行為は、クライマックスのあとの落ちていく感覚もすばらしい快楽なのだ。奈落に落ち続けるのではなく、落ちることで深い満足とやすらぎを得るのだ。
ホールデンは今のプチブル的生活を失うことを恐れている。ところが、いっぽうのホールデンは、プチブル的な生き方がインチキくさくて、いやで、いやで、飛び出したいのだ。
私は飛び出せばよいと思う。人はどうせ死ぬのだ。落下することを恐れる必要はない。
サリンジャーは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が、大ヒットして、そのお金で、ニューハンプシャーの田舎の森に囲まれた約90エーカーの土地を買って、引きこもった。落下することを選んだわけだ。90エーカーというと、36万平方メートルとなる。600メートル × 600メートルの土地だから、アメリカのプチブルの感覚では大きくないが、私の感覚では十分に大きい。
その周りに住む人々は、歯医者に行くことも大学にいくこともない、貧民である。すなわち、周りの人からみると、まだ、落下がたりない。プチブルである。
だから、結局、サリンジャーは自分の望んだ程度の落下を選んだわけだ。しかし、人を愛しつづけられないとは、私のはかり知れない傷をどこかで負っているのだと思う。